紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-03-01から1ヶ月間の記事一覧

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

案内板 「 国有形登録文化財 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫この建物は、明治二十九年に建された旧本庄商業銀行の寄棟(よせむね)瓦葺二階建煉瓦造の倉庫です。かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄…

傍示堂跡

「彩の国 埼玉」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓傍爾堂村(本庄市傍示堂) ちょっと変わった地名である。 傍爾堂村から中山道は大きく南に道をとるが、ここから北西に分岐する街道は、上野国の前橋・沼田を通って越後方面へと達していた(五料道)。 傍示とは境界を示すこと…

金鑚神楽(かなさなかぐら)宮崎組

案内板 「 本庄市指定文化財 金鑚神楽(かなさなかぐら)宮崎組神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話がその起こりとされており、神を喜ばせる舞楽(ぶらく まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽 宮崎組についてはまだ明らかで…

宝珠寺

案内板 「 宝珠寺所在地 本庄市大字牧西五三九番開基開山年代は不詳。延命山地蔵院宝珠寺と称し初代廣源(こうげん)は寛永十二 年(一六三五)三月二十三日示寂(しじゃく)している。慶安二年(一六四九)八月 二十四日には徳川三代将軍家光より御朱印石高一〇石を…

本庄市 八幡大神社

案内板 「 八幡大神社所在地 本庄市大字牧西五五七番地祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)神功皇后・中比売神(なかつひめのかみ 応神天皇后)の三柱当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡…

諏訪神社 御由緒

案内板 「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念 諏訪神社 御由緒□御縁起(歴史) 正保二年(一六四五)の『本庄町外石高等領地図』(中原家蔵)に『滝瀬村ノ内堀田』と見え、更に『武蔵志』には、堀田は『中山道筋 滝瀬ノ新田別村ニアラス』とあり、古くは滝瀬村に属してい…

百庚申

案内板 「 百庚申百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。 百庚申が建立されてのは幕末、万延元年の庚申の年(一八六〇)で、岡の有志十三人により計画され、翌年の万延二年にかけて完成を見た。 このことは、庚申塔群の中に大形…

石碑「中山道古道について」

石碑 「 中山道古道について現在岡上地区内を通る旧中山道 は、田嶋一明氏東のなだらかな切り通しをくだり、十七号バイパスを横断、瀧岡橋へと至る。 江戸時代の中山道 にこの切り通しはなく、丸谷商店の前を直進し、田嶋幹弘氏東で右折、八坂神社・百庚申脇…

島護産泰神社

案内板 「 島護産泰神社当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内各村からの寄付によりな…

「芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記」碑

「 芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記 岡部の原はその名高く、平安の昔曽根好忠に歌はれ、室町の頃『回國雜記』に書かれた武蔵野は、北端中山道を距てゝ小山川の清流に臨み、田園よく拓けて一望三百餘。町遠く浅間の噴煙、男体の白雲を眺め、赤城榛名妙義の三山は指…

瀧宮神社

案内板 「 宿根総鎮守 瀧宮神社御由緒 瀧宮神社(たきのみやじんじゃ)は室町時代、後土御門天皇の御代、明応七年(1498)この地に鎮座されました。当社の裏手には昭和六十一年まで百坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗池あるいは、ひょうたん池と呼ばれ…

旧深谷常夜燈

案内板 「 旧深谷宿常夜燈(田所町) 江戸時代中仙道深谷宿の東と西の入り口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。 天保十一年(一八四〇)四月建立。高さ約四メートルで中仙道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五…

滝澤酒造

滝澤酒造 深谷商工会議所ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓日本酒を通して、全ての人に幸せを 文久三年に創業し、150年余りの時を刻んで、深谷の地で酒造りの伝統を繋いでいる滝澤酒造株式会社。米の蒸し、麹造り、もろみの仕込みなど昔ながらの道具を使い、代々受…

滝澤酒造

滝澤酒造 深谷商工会議所ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓日本酒を通して、全ての人に幸せを 文久三年に創業し、150年余りの時を刻んで、深谷の地で酒造りの伝統を繋いでいる滝澤酒造株式会社。米の蒸し、麹造り、もろみの仕込みなど昔ながらの道具を使い、代々受…

七ツ梅田中屋跡

七ツ梅の田中屋跡 タイムズクラブより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓深谷駅から10分ほど歩いた中山道沿いに、「七ツ梅酒造跡」という場所があります。レトロな建物 煉瓦造りの煙突が目印です こちらは、田中藤左衛門氏が創業し、以来300年以上続いた歴史ある酒造の跡地です。現…

きんとう旅館

楽天 トラベル トロン温泉きんとう旅館きんとうページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓『 中仙道ときんとう旅館』 当店は江戸時代末期 文政年間に中仙道深谷宿で旅籠(はたご)として開業しました。「きん藤」という屋号は、創業者の藤平(とうべい)が近江(現在の滋賀県)出身…

藤崎藤三郎商店

藤橋藤三郎商店ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓創業 江戸時代の末期、嘉永元年(1848年)に創業者は越後の柿崎(新潟県…現在の上越市)より現在の地に移り酒造りを始めた。銘柄の由来 代表銘柄の「東白菊」は関東の東(あずま)に酒の清らかさを白、清酒の香…

七ツ梅酒造跡の紹介

一般社団法人「 まち遺し深谷」ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓七ツ梅酒造跡のご紹介七ツ梅酒造の沿革 七ツ梅酒造は、元禄7年(1694年)に近江商人の田中藤左衛門が創業した酒造です。創業以来300年の歴史を有し、県内でも1、2を競う老舗蔵元でしたが、2004年(平…

深谷シネマ

wikipediaより ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓埼玉県北部に存在する、唯一のミニシアターである。深谷シネマの立地する七ツ梅酒造敷地内には、飲食店やお茶屋・古本屋など関連店舗もあり、映画を楽しんだ観客が歓談するスペースとなっている。また、七ツ梅酒造内ではドラマや映…

深谷本陣跡 上段の間、次の間、入側

案内板 「 本陣 本陣は、脇本陣並びに旅籠とは違い、一般人は利用出来ず、即ち公儀の厳重な誓約を受け続けました。 中山道筋の貴人の通行の例としては年間、泊10件、休憩40件ほどで誠に少なく、為に本陣職の大半は、他にも主たる職業を持って居ました。飯島…

深谷の煉瓦

深谷市ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓「 レンガのまち深谷」のレンガ史は、渋沢栄一翁が明治20年につくった日本煉瓦製造会社(後の日本煉瓦製造株式会社)の工場に始まります。 日本煉瓦製造会社の工場は、ドイツ人技師チーゼを招いて操業を始めました。ホフマン…

忍領石標

案内板 「 埼玉県指定文化財旧跡忍領石標(おしりょうせきひょう)指定年月日 昭和三十八年八月二十七日 所在地 熊谷市大字石原『 従是南忍領』と彫られたこの石標は、忍藩が他藩との境界を明らかにするため十六箇所に建てたものの一つです。初めは木材を用い…

新島の一里塚跡

案内板 「 熊谷市指定文化財史跡一里塚指定年月日 昭和二十九年十一月三日 所在地 熊谷市大字新島この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ十二メートル、樹齢三〇〇以上のけやきの大木が残っています。 慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は江…

「中山道と熊谷宿」「札の辻跡」「熊谷宿本陣跡」

案内板 「 中山道と熊谷宿熊谷を通過していた『中山道』。中山道は古くは東山街道と呼ばれていた。慶長六年(一六〇一)に江戸幕府により宿駅・伝馬制度が整備された五街道の一つで、日本橋から京都三条大橋までの約五三二キロメートル、六十九宿(草津と大津の…

ムサシトミヨ 案内板とサイエンス誌より

案内板 「ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。 川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。 平成九年三月埼玉県・埼玉県教育委員会 熊谷市・熊谷市教育委員会 埼玉県熊谷土木事務所 熊谷…

堤防決壊の碑の案内板

案内板 「 1947年(昭和22)年9月 カスリーン台風による洪水で、この地点の堤防が決壊しました。1947年(昭和22)年9月、カスリーン台風による洪水のため、ここ熊谷市久下地先で荒川の洪水が堤防を越え決壊しました。その濁流はここより下流の鴻巣市で決壊した濁…

権八地蔵とその物語

案内板 「 鴻巣市指定民俗資料 平成三年八月二十一日指定権八地蔵とその物語 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様…

吹上『間の宿』

案内板 「 吹上『間の宿』中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の『あいの宿』として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。 しかし、それにもかゝわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの『日光火の番道』と…

吹上神社 案内板

案内板 「 吹上神社御祭神 大山咋命 別名山末之大主神と言い比叡山に坐す建国に功労のあった神 倉稲魂命 食物を主宰する神 素盞嗚尊 信性勇猛な又災厄祓除の神 大物主命 大國主命の和魂称し奉る御名 菅原道真公 学問の神 由緒 當日枝社は宝暦六年七月火災に…

前砂の一里塚跡

案内板 「 前砂の一里塚跡江戸時代の初期、参勤を契機として街道が整備され、主な街道には距離の目安として一里塚が築かれた。慶長見聞集によると、中山道の一里塚は慶長九(1604)年に築かれた。 一里塚は、江戸日本橋を起点として一里(約4km)ごとに、街道両…