「 芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記
岡部の原はその名高く、平安の昔曽根好忠に歌はれ、室町の頃『回國雜記』に書かれた武蔵野は、北端中山道を距てゝ小山川の清流に臨み、田園よく拓けて一望三百餘。町遠く浅間の噴煙、男体の白雲を眺め、赤城榛名妙義の三山は指顧の間にある。春陽遅々たる日こゝに囀り上る雲雀の声は天下無雙と謳はれ、特に地名に因んて「砂田の雲雀」といはれた。季年彌生の候にこの地を旅する加賀侯も駕籠を停めてその啼聲に聞きほれたとのことてある。果せる哉、俳人小林牛角師は芭蕉翁の名吟
原中や物にもつかす鳴雲雀
の句碑を建てゝその風雅の道を偲んた。郷人呼ひて雲雀塚といふ。
この句『續虚栗』に載せられ、翁の壯年期の作と推定される。翁が日夜私淑した西行の詩精神を渾化した無著の心を懷しむと共に、凝滯せぬ雲雀の聲の無心さをよく現はしている。 春の日の駘蕩の趣と何か悠久なるものへのいさなひをさへ感しさせる。眞にこの句この碑ほとこの地の景物たる雲雀を讃美するに値したものはなかつた。しかし星霜の久しき遂に名は碎け文字はうすれて鑑賞に堪へられなくなつた。先に蝶園秋香老これを愁へ、この度岡部村文化会の有志これを悲しみ雲雀塚の再建を志し、新たに句の揮毫を信濃なるからむしの主蕾丈大人その由来の文を余に嘱し石に鐫して後代に遺し、長く蕉風の雅懐を傳へることになった。 行人のこの地に立って雲雀の声に耳を傾け、翁の句を口すさむことかあれは、こそなき幸てある。
昭和三十二丁酉年十月十二日
埼玉県俳句連盟顧問籬窓山口平八撰
蝶園茂木秋香門人江南鳥塚勇三郎書 」