紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-04-24から1日間の記事一覧

東山道と九里半街道

東山道と九里半街道 案内板 「 東山道と九里半街道(古道東山道の道筋) 東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿墓参道入口のある谷間で、中山道と別れ山越えする。 徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院…

柏原宿 西見付跡

案内板 「 西見付跡 柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。 この地点の海抜高度は、一七四メートル。(磨針峠は一五四.二メートルで、ここより低い。) 彦根城と比較すると、天守閣の上に天守…

(復元) 柏原一里塚跡

案内板 「 (復元)柏原一里塚 一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。 慶長九年(一六○四)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。 そして奉行には…

やくし道道標

やくし道道標 案内板 「 やくし道道標最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。 太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明…

柏原銀行跡

柏原銀行跡 案内板 「 柏原銀行跡明治三十四年(一九○一)、江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は、同業・旅篭屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。 中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、その当時も多くの…

西の荷蔵跡

西の荷蔵跡 案内板 「 西の荷蔵跡運送荷物の東西隣宿への継立(駅伝運送)が、当日処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。 この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿東部にもあった。 なお、当宿は、寺院の数が中山道二番目と多く、…

造り酒屋跡

造り酒屋跡 案内板 「 造り酒屋跡柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合せ百五十石が許可され、数軒の店が酒造りに励んだ。 当家は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。江戸後期に一時醤油醸造に転業したが、明治初めに造り酒屋に戻った。 」

高札場(札の辻)跡

高札場(札の辻)跡 案内板 「 高札場(札の辻)跡高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。 高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。 高札場は、道沿いの…

柏原宿本陣跡

柏原宿本陣跡 案内板 「 柏原宿本陣跡本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。 柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。 間口はこの家の両隣りを合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あっ…

本陣南部家「風雅の道」

本陣南部家「風雅の道」 案内板 「 柏原宿本陣、南部家『風雅の道』 二十世・中興四代 辰右衛門実村 (俳号 ) 流木堂江水芭蕉と同じ時代の人。ともに、貞門の流れを歩み、数冊の句集を編纂。『元禄百人句』 次の夜は唯ひとりゆくすゞみ哉 江水自作『柏原句集…

中山道 柏原宿 案内板

中山道 柏原宿 案内板 「 中山道 柏原宿 ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿で東海道と合流)の内六十一番目になり、約百十二里(一里は約三.九キロメートル)、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代は、随分栄えたもので、宿場…

柏原宿旅篭屋跡

柏原宿 旅篭屋跡 案内板 「 旅篭屋跡 天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。 同じ年の宿内職業記録には、 もぐさ屋 九軒 (屋号の頭は、どこもみな亀屋) 造り酒屋 三 …

柏原宿脇本陣跡

柏原宿脇本陣跡跡 案内板 「 柏原宿脇本陣跡 脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。 柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。 間口はこの家と隣の郵便局を合わせた広さで…

東の荷蔵跡 問屋場跡

東の荷蔵跡 問屋場跡 案内板(写真右) 「 東の荷蔵跡 運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。 この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿西部にもあった。 」案内板(写真左) 「 問屋場跡 …

芭蕉と伊吹山

芭蕉と伊吹山 案内板 「 芭蕉と伊吹山 松尾芭蕉は、柏原宿を三回西から東へと通っている。三回目のあと大垣の句会で詠んだ、伊吹山の句碑が、清滝の入口にある。 『奥の細道』では、伊吹山麓の北国脇往還を関ヶ原へと通った。そのときも伊吹山の句を残してい…

柏原宿 東見付跡

柏原宿 東見付跡 案内板 「 東見付跡 柏原宿東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。 見付とは、本来城門のことで宿場用語となった。見付は宿場西口にもあった。 東口の土手は、古図に幅二間奥行二間半、土手上面に灌木が描かれてい…

照手姫笠掛地蔵と蘇生寺

照手姫笠掛地蔵と蘇生寺 案内板 「 照手姫笠掛地蔵と蘇生寺地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を『照手姫笠掛地蔵』と言う。 現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平…

柏原宿の略史

柏原宿の略史 案内板 「 柏原宿の略史 (史跡の時代順案内) 鎌倉時代 *柏原弥三郎の柏原城跡地に、佐々木京極氏が館・徳源院・墓所設置。鎌倉の終り *京極高氏(佐々木道誉)は鎌倉幕府の命を受け、後醍醐天皇側近 北畠具行卿を斬首。当地丸山に葬る。室…

『東山道』道標

『東山道』道標 案内板 「 『東山道』道標正確には、東山道・中山道分岐点道標。 県境、寝物語長久寺より坂下JR踏切までは、古道東山道の上に中山道が敷設された。 それより北西へ走る東山道は廃道になり、踏切を渡り、柏原宿に入る道が、中山道として新設さ…

長比城

長比城跡登り口 案内板 「 長比城跡登り口織田信長は、浅井長政を討つべく、元亀元年(一五七○)六月十九日、浅井朝倉勢が守るこの城と苅安城を攻めた。 木下藤吉郎・竹中半兵衛の働きで浅井方の鎌刃城堀氏が寝返ったため、長比・苅安の城兵は敗走し、信長は…

「ここは長久寺です」

「ここは長久寺です」 案内板 「 ここは長久寺です 江濃のくにもしたしき柏はらなる 岩佐女史に物し侍りぬ 啼よむし 寝もの語りの 栞りとも 化月坊 (芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)長久寺村 古昔此の辺りに、両国山長久寺といふ寺ありし故、今村の名とな…

寝物語の由来

寝物語の由来 案内板 「 寝物語の由来近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。 この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに『寝ながら他国の人と話し合えた』ので寝物語の名が生まれたと言われています。 また、平治の乱(一一…

石碑 おくのほそ道

石碑「おくのほそ道」 「 おくのほそ道 月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也 舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは 日々旅にして旅を栖とす 古人も多く旅に死せるあり 予もいづれの年よりか 片雲の風にさそはれて 漂泊の思ひやます(…

車返しの坂

車返しの坂 案内板 「 車返しの坂 南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。 不破の関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。 その御人は公家の二条良基という人。 ところがこの坂道を登る途中、屋根を…

金比羅大権現永代常夜燈

金比羅大権現永代常夜燈 案内板 「 常夜灯 街道が賑わっていた江戸期は、文化五年(一八○八)のことです。 京都の問屋河地屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、それを紛失し途方に暮れてしまいました。 そこで金毘羅様に願をかけ、一心にお祈りをし…

今須宿 問屋場跡

問屋場跡 案内板 「 問屋場 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。 美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。 縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、…

青坂山妙応寺・徳川家康の腰掛け石

青坂山妙応寺 12:32 案内板 「 青坂山妙応寺 当寺は正平十五年(一三六○)に、今須領主長江重景が創建した、県下で最も古い曹洞宗寺院です。 その後土地の寄進で経済力は伸長し、徳川政権下での寺領高二十石の安堵は、明治維新前まで永く続きました。 宝物館…

今須宿案内板

今須宿 案内板 「 今須宿 今須宿は中山道五十九番目の宿場であり中山道美濃十六宿の最西端の宿場です。当時の難所だった今須峠は、今も冬になると交通の難所になってしまうほどの急坂です。今も静かな佇まいの宿内には、『問屋場』や『常夜灯』などがあり、…

今須峠

今須峠 案内板 「 今須峠(中山道) 此処峠の頂上は山中の常盤塚辺りの登 り口より約一、〇〇〇メートルの道程です。 一条兼良 はこの峠で、『堅城と見えた り、一夫関に当たれば万夫すぎがたき 所というべし』(藤川の記 )と認めたよ うに、この付近きって…

芭蕉句碑と化月坊

芭蕉句碑と化月坊 案内板 「 芭蕉句碑と化月坊 寛政六年(一七九四)二月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に精進した。安政四年(一八五七)獅子門 (翁の高弟各務支…