紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2023-08-01から1ヶ月間の記事一覧

黒羽境界石

案内板「 市指定文化財 黒羽領境界石(史跡) 管理者 浄泉寺 黒羽藩主大関増業(ますなり)は、自藩と他藩との境界を明らかにするために、文化十~十一念仏(一八一三~一四)何箇所かに境界石をてた。ちょうど増業が大阪城勤務の時で、碑は大阪で造られ、船で運ば…

八坂神社境内 芭蕉の句碑

案内板「 芭蕉の句碑 芭蕉が元禄二年(一六八九年)三月(旧暦)『奥の細道』行に旅立ち、黒羽より高久に向かう道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。 野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす この句は、どの辺りで作ら…

清川地蔵尊

案内板「 清川地蔵尊 管理者 鍋掛行政区 清川地蔵の建立は、延宝七年(一六七九)で、本市の石仏地蔵の中では古いものである。 当時の宿場の生活は決して楽ではないと思われるが、人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。 お地蔵様は、庶民のあらゆる願い…

鍋掛の一里塚跡

案内板「 市指定文化財 鍋掛の一里塚(史跡) 管理者 鍋掛神社 江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を起点として一理毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道四十一番目のもので、江戸より四十一里(約百六十一キロメートル)の距離を示す…

樋沢村 葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡

案内板「 葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡 (つづらいし・はちまんたろうよしいえあいばひづめあと) (伝説の地) 管理者 樋沢葛籠会 ここ、葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡の巨石にまつわる言い伝えは、樋沢村に古くから残っている。 後三年の役(一〇八三~一〇八…

樋沢の不動明王像

案内板「 樋沢の不動明王像(お不動様) この像は寄木造りという二枚以上の木を組み合わせるという技法で作製されたもので、背面に明曆二年(一六五六年)に作製されたと記されている。同じく背面に下部には制作者の名前らしき文字があるが、現在、判読すること…

鏡ヶ池

案内板 「 八溝県立自然公園 鏡が池 三浦介義明が九尾の狐を追跡中、姿を見失ってしまったが、この池のほとりに立ってあたりを見まわしたところ、池の面近くに伸びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池にうつったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩…

玉藻稲荷神社の源実朝の歌碑の案内板

案内板「鎌倉第三代の征夷大将軍、右大臣源実朝は承久元年正月(一二一九)拝賀の礼を鶴岡八幡宮に行い、帰途公暁(くぎょう)に殺され、二十八歳にして劇的な死を遂げる。後世の人々は将軍右大臣実朝としてよりも、悲劇の歌人実朝として不朽の名を称える。…

篠原玉藻稲荷神社

案内板「 篠原玉藻稲荷神社 こゝは、お稲荷さんと称える作神さまと玉藻の前(九尾の狐)の神霊とを祭った由緒深い社である。 宝前の社殿改建記念碑と石の鳥居の柱にいわれなどが記してある。 建久四年(一一九三)源頼朝が那須游猟のときこの社に参詣したという…

犬追物跡 犬追馬場略図

案内板「 近衛帝の久寿年中、勅を奉じて三浦介義明・千葉介常胤(つねたね)・上総介広常が、玉藻前が狐に化けて逃げて那須野に隠れ棲んでいるのを退治するために犬を狐に見たてゝ追い射る武技を行った跡という。俗に『犬追物跡(いぬおふもののあと)』または『…

芭蕉の館 もう一つの碑

那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に雨降り日暮る。農夫一家に一夜を借りて明ればまた野中を行。そのに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、農夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。い…

芭蕉の館 芭蕉と曽良像の後ろの碑

那須の黒羽という所に知人あれば」とて松尾芭蕉は「おくの細道」行脚の途次黒羽を訪れた。元禄二年四月三日のことである。途中那須野路にさしかかった折、草刈る男の馬を借りた。その跡慕う小姫を曽良は-かさねとは八重撫子の名成るべし-と呼んでいる。翁…

芭蕉の館 入口の石碑

石碑の内容 「 黒羽の舘代淨法寺何がしの方に音信る。思いかけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわ…

雲巌寺 芭蕉の里 案内板

案内板「松尾芭蕉は元禄二年四月五日(陽暦五月二十三日 一六八九年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと、人々をいざない山道を賑やかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。『おくのほそ道』に『かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢ…