紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

連歌発祥の地


案内板
「 連歌発祥の地

 景行天皇の皇子日本武尊は、蝦夷制服の帰途、『日本書紀』によれば、常陸を経て甲斐国に入り、此処、酒折の宮にしばらく居られた。
 着宮の夜、皇子が歌をもって、
  新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
と問われたのに対し、ひ燭人(ともしびと)が
  かがなべて夜には九夜日には十日を
と唱和した故事は有名である。
 後世、連歌を『筑波の道』と呼ぶのもこれによるもので、歌体は片歌ながら、連歌濫觴(らんしょう はじめ)とされており、当地を訪れた文人墨客が多かった。

 昭和六十一年七月 小野成三奉納  」

石和本陣跡(市指定史跡文化財)

案内板
「  石和本陣跡(市指定史跡文化財)


宝暦11年(1761) 信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道 ようじんべえ 中を通行することになり、 石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことが けいじょう はじめといわれる。以来子孫が継承して明治に至った。 明治以降も旅篭 しょうしつ として利用したが、 明治13年 (1880) 6月7日の石和の大火により焼失し、 現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および古記録文書等が残っ ている。  」

石和宿本陣跡

案内板
「   石和本陣跡

 本陣は江戸時代、大名公家幕府の役人高貴な人の宿泊する所である。 
 石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石を初め全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
 建物は書院造りで門、玄関、上段の間を備えて広大な構えであった。
 明治13年6月16日明治天皇御巡幸のみぎり御休憩所御予定のところ、同月6日、大火により焼失、現在土蔵1棟のみ現存している。

 所在地 石和町市部一、〇五一番地
  
         石和町   」

勝沼学校跡


案内板
「 勝沼学校跡

 勝沼町内には、明治九年に造られた祝学校と明治十三年に造られた勝沼学校の二棟の藤村式学校建築がありました。共に南部下山大工の松木輝殷(てるしげ)が手掛けたものです。
 勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、明治十三年六月の明治天皇御巡幸の折り安在所となりました。木造二階建て、一階に車寄、二階にベランダをそなえたE字型校舎でその後の学校建築や、明治村にある東山梨郡役所などの庁舎建築に大きな影響をあたえました。昭和三十年四月に取り壊されてしまいましたが、玄関の柱と扉が今も保存されています。

       勝沼町 教育委員会 」    

旧田中銀行社屋


案内板
「  旧田中銀行社屋 
       国登録有形文化財

 明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた洋風の建物。大正9年より昭和7年ごろまで『山梨田中銀行』の社屋として利用されていました。
 外壁は砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに洋風建築の名残があります。建物内はその後の変遷でだいぶ間仕切り等変更されていますが、落ち着いた室内になっています。
 また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に『山梨田中銀行』の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。

                                        勝沼町 教育委員会  」

勝沼宿仲松屋


案内板
「  勝沼宿仲松屋

 勝沼宿 仲町の中松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階
を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。東西両屋敷建物群は江戸後期から、明治の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。

       勝沼町教育委員会  」

柏尾の古戦場

案内板
「   柏尾の古戦場

 明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかつての新撰組会津藩甲陽鎮撫隊因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。
 甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に2ヵ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。
 この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した3人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が3個伝えられている。  」