紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

中津川と柳の木

中津川と柳の木
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案内板
「 中津川と柳の木

浮世絵『中山道六十九次』は、江戸日本橋から京都までの中山道の宿場町を描いたもので、中津川宿は四五番目の宿場町として歌川広重によって描かれた。この中津川宿の絵図には、晴れと雨の二種類が存在し、それぞれ図版が異なる珍しいものである。
このうち『晴れの中津川』と呼ばれる一枚には、中津川にかかる中津川橋と柳の木が描かれている。
かつての中津川橋は、現在橋がある場所よりも百メートルほど下流にかけられていた。当時橋がかけられていたと考えられる場所の近くには、浮世絵とちょうど同じように、古い柳の木が立っている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

中山道本道

中山道本道
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案内板
中山道本道

津島神社の小さな祠の南側を、真っ直ぐ西へ、中津川に向かってのびているのが現在の道であるが、かつての中山道はこの小祠の北を、急な坂を下って中津川の河原に出ていた。現在は行き止まりになっていて、通り抜けはできない。
この坂を下る辺りの道幅が狭いのは枡形の名残である。枡形に入る手前の道の両側に石を積み、道幅を規制して一度に大人数が通れない様に作られたところを枡形見附とし、番人を置いた。
枡形見附の脇には、宿場の中へ悪いものや病気が入ってこないように、『おたてふ様』といわれる牛頭天皇(津島神社)の祠を祀っていた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

「下町かいわい」

「下町かいわい」
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案内板
「 歴史の道中山道

下町かいわい/The neighborhood of Shimo-machi

下町は、かつて中津川宿における西側の玄関口でした。往時の姿はほとんど留めていないものの、このあたりには、下町から旧・川上川(中津川)までを繋ぐ中山道の道筋が存在したことが分かっています。時の道中奉行により、文化3年(1806)に完成した『分間延絵図(ぶんかんのべえず)』には描かれていないものの、かつてこのあたりにも高札場があったと言い伝えられています。 」

はざま酒蔵(銘酒恵那山)

はざま酒蔵(銘酒恵那山)
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間酒蔵ホームページより

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江戸時代の五大街道のひとつ、「中山道」に67あるうちの45番目の宿場、中津川宿の造り酒屋。
間家が中津川の地に移り住んだのは、岐阜にて行った歴史的な戦い「関が原の戦い」の翌年である慶長6年(西暦1601年)

酒造りを始めたのは、江戸中期。以来、200年以上にわたって「美味しい酒造り」にこだわってきた。

400年の歴史と伝統

間家はもともと京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住みました。江戸中期より酒造りを始め、以来200年以上にわたり醸造業を営んでいます。
江戸時代には尾張徳川家の御用商人となり、美濃国屈指の豪商としてその名を馳せました。
はざま酒造の真正面には、古事記にも記載がある霊峰「恵那山」を望むことができます。

この辺りは恵那山の伏流水が豊富に流れており、はざま酒造では創業当初からこの恵那山の伏流水を仕込み水として使っています。
その清らかな水のごとく澄んだ酒を目指し、「恵那山」と命名しました。

はざま酒造 新章

「料理とともにお酒を楽しむという文化をもっと広げたい」という思いから、2016年 純米酒だけを造る純米蔵として生まれ変わりました。
そして、霊峰恵那山のふもとという風土を生かしながら、岐阜県中津川市から日本を代表する酒造りを目指しております。
新たな挑戦として、初仕込み「恵那山 純米」と「恵那山 純米吟醸」を、世界で最も権威のあるワインコンペティション「インターナショナル ワイン チャレンジ(IWC)」の「SAKE」部門に出品。

純米酒部門」「純米吟醸酒部門」でそれぞれシルバーメダルを受賞いたしました。

酒はできるものではなく、造るもの

「中津川から世界へ。お酒を楽しむすべての方に」
全世界の皆様、全国の皆様に楽しんでいただきたい。日本の誇りであるような蔵元をめざします。

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卯建のある家

卯建のある家
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案内板
「 卯建(うだつ)のある家

この二軒は長屋になっており、中川家の一部であった。卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。これによって隣家からの火事をある程度防ぐことができたが、卯建を設けるためには多額の費用がかかった。『うだつがあがらない』という慣用句は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたものである。
卯建は中津川でも、ここ横町通りの数軒でしか見られなくなり、宿場町の面影を今に伝える貴重な財産である。こに二軒のうち南側にある卯建は、前田青邨の絵にも描かれた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市
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中川家(杉本屋)

中川家(杉本屋)
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案内板
「 旧中川家(杉本屋)

中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛の屋敷の一部である。中川家の屋敷は、ここより南東側一帯にあり、広壮な屋敷であったものと思われる。この屋敷は南に向かって西生寺下の土蔵がある辺りまで建っていた。現在東西に延びる旧清水町の通りはなく、街道を直角に曲がる枡形という道のつくりになっていた。歌舞伎絵で著名な中川とも画伯は、この中川家の出である。明治の代になって原作吉が購入し、呉服商を営んでいたが、大正年間には薪炭、荒物商となり、現在に至っている。昭和三十年代の初め頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、これを舞台に映画『青い山脈』のロケが行われた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

白木屋(横井家)

白木屋(横井家)
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案内板
白木屋(横井家)

江戸時代の面影を如実に残す建物。この家は、山科屋遠山林蔵の依頼で、当家の先祖である宮大工の横井弥左衛門(藤原朝臣真行)が天保十三年(一八四二)に建てたものである。
中二階に四畳ほどの隠し部屋が今も残されている。部屋に入る梯子を取り外すと、そこに部屋があることが外からは全く分からない。遠山家は明治末期まで住んでいたが、現在は駅前に移住し、うなぎ屋『山科』を営んでいる。
その後、家屋は横井家に渡り、現在は建物の一部を『中山道お休み処 白木屋』として一般公開しており、中山道を訪れる人々の憩いの場や、住民のまちづくり活動の拠点となっている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市