岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

二度目の中山道歩き20日目の2(中津川宿から会所沢まで)

二度目の中山道20日目の2
2020年3月27日(金)の2


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駒場村の高札場跡と小手の坂】


8:17 津島神社参道社標(この前を左へ)
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石仏石塔群
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駒場村の高札場跡
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茶亭市川
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灯籠など 工事中なので、ここに集められたのかな?
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工事中で、シートの上を歩きました。
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8:30 小手の坂・坂元駅(駒場)
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案内板
「 こでの木坂

 ここから上宿の一里塚 にいたる坂道は『こでの木坂』といい、市内の中山道 の中でも急峻な道です。明治十三(1880)年に明治天皇の巡幸 があり、このとき駒場村の青年たちが待ち構え、天皇を乗せた馬車がこの坂道を通るとき、懸命に馬車の先引きをして通したといわれています。
 明治になり、交通手段として馬車が多く利用されるようになると道の改修が行われ、明治二十一(1888)年には坂道の一部を取り壊して緩やかなS字の道に整備しました。また大正七(1918)年にバスが通るようになると、道幅が拡張され、現在の道路のようになりました。
 こでの木坂の名称は、坂の頂上に大きな『こでの木』が生えていて、これが目印になっていたのでこう呼んだといわれています。

中津川市
中津川市教育委員会・第三区」

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案内板
坂本駅中津川市駒場 こまんば)

古代、近江と陸奥を結ぶ官道として拓かれた東山道は、
都から美濃の国・坂本駅を経て信濃の国・阿智駅へと通じていました。
この二駅間は、距離が長い上に急峻な神坂峠越え(標高1595m)を控え、道中でも名の知れた難所でした。
このため両駅には特例として通常の二~三倍、三十疋の駅馬が用意され、
また、輸送にあたる駅子にも免税の恩典が与えられていました。
その坂本駅が置かれていた場所は現在特定されていませんが、この辺りであったと思われる。

歴史の道推進協議会
中津川市

8:33 苗木道
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案内板
「 苗木道

 中津川市 内を東西に通じている中山道 は、江戸時代の五街道 の一つで日本の主要基幹路線 として利用されていました。
 この基幹路線である中山道などから分かれる道は、一般に脇街道 や脇道とも呼ばれ、中山道沿いにも飛騨方面へ向かう『飛騨街道 』をはじめ、幾筋も存在していました。
 中津川宿 付近の中山道から飛騨方面にいたるには、二つのコースがあり、茶屋坂 から北野、打越・妙見山を経る道と、駒場『小手の木坂 』から分岐する道があり、後者は別名『苗木道』と呼ばれていました。

 この苗木道のルートは所々建物や道などにより分断され、地形が変わったり草木が生い茂る場所に変わるなど、昔の面影を残すところは少なくなり、現在全線を踏破することはできなくなっています。
中津川市教育委員会


石仏石塔群
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双頭一身道祖神
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案内板
中津川市指定文化財  建造物

双頭ー身道祖神

所在地 中津川市駒場397-2
指定年月日 昭和57年4月8日
 石像の左上に『是より苗木道』と彫られたこの道祖神は、中山道の通称『こでの木坂 』の頂きにあり、『道しるべ 』にもなっていて、中山道から分かれる苗木道との分岐点に置かれている。
 文化13年(1816)に建立され、男女別々 の頭部 を持ち、肩から足元にかけて一体となっている珍しい形態の石造物である。
中津川市教育委員会

石仏石塔群の中で、どれが双頭一身道祖神かわからず、ちゃんと写真を撮りませんでした。

この写真の◯のところ、
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拡大すると、これがその双頭一身道祖神
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中津川市のホームページからお借りしてきました。
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8:35 上宿の一里塚跡
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案内板
「 歴史の道 中山道 上宿の一里塚

 中山道の両側には、一里(約4km)ごとに塚が築かれ、松や榎が植えられていた。
 一里塚は旅路の行程の目安を与えるとともに、休息の場としても利用され、市内には4カ所あった。
 この上宿にあった塚は、江戸 から数えて85番目 にあたり、両側とも複が植えられていた。
 現在南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されている。
 規模としては往時の約1/3の大きさである。 」

8:39 上用水之碑
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8:46 シデコブシ会所沢群生地
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4月上旬に咲くそうです。こちらの写真は「育て方ラボ」からお借りしました。
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二度目の中山道20日目の3(坂本地区)に続く

二度目の中山道歩き20日目の1(中津川宿2)

二度目の中山道20日目の1
2020年3月27日(金)の1


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【中津川宿本陣跡】

5:30 起床

6:30 持参の犯で朝食

7:30 チェックアウト

7:41 前回も見た「すや」本店
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前田青邨画伯生誕の地
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付近の道
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中山道往来庭 トイレありましたがパス
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7:48 四つ目川橋
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7:50 脇本陣
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「 →

脇本陣はここから
右(西方)約20mの
所にありました 」

7:51 本陣跡
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案内板
「 中津川宿本陣

本陣の入口には五軒続きの長家が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪二八三坪の本陣があった。
表庭の右手に長屋があり、その奥が厩(馬屋)になっており、表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場があった。その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その右に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間、次の間、中の間、上段の間へと続いた。上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳おかれていた。上段の間には湯殿、上り場、雪隠(せっちん)などがついていた。裏も庭となり高塀で囲われ、御退道の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。」


【中津川村庄屋跡】

中津川村庄屋跡
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案内板
中津川市指定文化財

名称 「曽我家住宅」
種目 有形文化財(建造物)
指定年月日 平成十七年一月二十六日
所在地 中津川市本町二丁目 六番四十四号
由来
建設年代は不明であるが、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると推定される。

曽我家住宅は、江戸時代においては旧中津川村の庄屋を務めたこともあった肥田家(田丸屋)の建物であり、数寄屋がかっている『上段の間』の細工がよく、そこからの庭の眺望も素晴らしい。

明治二十六年には恵那山登山のため来訪した登山家ウォルター・ウェストンが宿泊している。

明治中期に曽我家が入居し、医院として用いて近代医療に貢献した。

中津川市
中津川市教育委員会

「宿場町の用水」
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案内板
「 宿場町の用水

このあたりが中津川宿の中心であった。四ツ目川には水面近くに板橋がかかっており、東から来た旅人はこの橋を渡って、本町まで急な坂道を登った。登りつめると、街道の真ん中を用水が走っていた。宿の中心部を流れるこの用水は、野中の黒沢川から取水した第三用水(大樋用水)で、宿内の大災に備えて敷設されたものである。用水には、ものを流すことも洗うことも、禁じられていた。広義の生活用水、防火用水として使用されていたと考えられる。
明治十三年(一八八〇)の明治天皇通行の折、馬車が通れるように用水は埋め立てられた。
平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

現在の本町の町並み
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【本町広場】

本町広場 トイレを借りました。
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本町広場にあった案内板

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案内板
「 中津川の食文化

5月、6月の季節、モクレン科の落葉高木であるホオノキの葉に、酢飯と様々な具を包んだ朴葉寿司は、中津川市周辺で見られる独自の食文化である。
朴の葉は1枚が大きく、殺菌作用があることから、もともとは畑仕事の昼食に、手が汚れていても片手で食べられるように作られたとも言われる。
古くは北陸から入ってくる塩鮭を酢でしめ、そのしめた酢で酢飯を作り、乗せただけのシンプルなものであった。
今では家庭により、鮭のほか、金糸玉子や、きゃらぶき、しいたけ、桜でんぷ、ヘボ(蜂の子)など、様々な具材を乗せた色鮮やかな朴葉寿司が作られている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

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案内板
「 中津川の和菓子

『栗きんとん』は中津川の名物として知られる。茹でた栗の中身を取り出し、細かくほぐしたものを、茶巾で絞った菓子である。中津川は山栗が多く収穫されたことから、江戸時代には焼き栗、茹で栗、かち栗などいろいろな食べ方をされてきたが、砂糖が家庭で手に入るようになると、栗きんとんが作られるようになった。
また、この地方の名物『からすみ』は、米の粉を主原料として黒砂糖やよもぎを入れて練り上げ、富士山を模った木型に入れて蒸しあげた菓子である。江戸時代にはひなまつりの時に、一般的なボラの『からすみ』が手に入れなかったため、代わりにこれを備えたという。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

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案内板
ギオン

中津川の代表的な祭りの一つに、『ギオンバ』がある。津島神社のお祭りで、子供たちが提灯を持ち『ワイショ』『ヨイショ』の掛け声とともに町中を練り歩く。駒場津島神社の祭神は町内中山道筋の小さな祠に分社されている。
ギオンバは明治時代の後半に旧中津川の市街地で始まり、それが駒場など周辺地域に広がって、第二次世界大戦時には、中津川の子どもたちの代表的な祭になったと考えられる。
当時は喧嘩祭りとも呼ばれる激しいもので、小学生から中学生までの男子が参加し、準備から運営までをその子どもたちが行った。昭和の終わり頃からは、女子も参加する祭りとなった。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

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案内板
「 大坂屋(吉田家)跡

江戸時代から昭和十二年(一九三七)まで、この場所には大坂屋という旅籠があった。主に商人向けの旅籠で、他にも檜笠、屋根板などの白木物の仕入れや、販売を行っていた。
『伝馬役人名簿』には大坂屋善左衛門の名前があり、中津川宿の伝馬役人三五人のうちの一人で、歩行役の半分を請け負う宿内の有力者であった。
文久二年(一八六二)の皇女和宮下向時の宿割図には、『八畳二間、六畳三間、三畳、四畳三三坪、板の間が五間半、土間七坪』とあり、当時の屋敷の規模をうかがえる。
画家の吉田耕雲は大坂屋の生まれで、結婚後京都に出て肖像画学校を開いた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

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案内板の(石碑)
「 常夜燈

この石燈篭は、中津川宿本町にあったもので、嘉永元年(1848)に建てられています。
常夜燈は、一晩中灯りをともして旅人を導き、また宿場や道中の安全を祈願したものであります。
その灯りは当時の人々の心を和ませるとともに、防犯と照明を兼ねた街灯の役目を果たしていました。

中津川市

8:00 この家の写真を撮っていた朝の8:00。
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今日1番テンション上がったのは、中津川で朝8:00に鳴った時報チャイムが、「グリーンスリーブス」だったこと。大好きなんです、あの曲。


【枡形と栗菓子の川上屋、十八屋、白木屋

8:01 枡形
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案内板
「 町並と枡形

中津川宿は江戸日本橋から数えて四十五番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。武家は常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊するところを下宿といった。
本陣は中津川でも最も高い場所に置かれ、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、自身番も置かれていた。横町から下町にかけて町角を直角に曲がる枡形は、人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿駅の中心部が直線的に見渡すことができないように造られていた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

栗蔵 栗菓子 川上屋
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SPIRA オトナの情報マガジン より

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川上屋

1864年創業の「川上屋」は、中津川市のかつて宿場町として栄えた町にあり、歴史の感じられる建物が軒を連ねている一角にあります。

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川上屋ホームページより

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木曽路の風味を創り伝え続けて百有余年
川上屋の歴史は、初代原四六(はらしろく)が中山道宿場町中津川宿で江戸末期の1864年(元治元年)よりはじまり、
交通の要所として東美濃随一の宿場町として栄える中で恵まれた土地から生み出される産物を使用し、
こだわりの風味逸品を創り歴史を重ねて参りました。

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十八屋(間家)
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案内板
「 十八屋(間家)

江戸中期に園田大学が建てたと伝えられており、上がり框や天井の梁などは当時のままである。屋号を十八屋山十といい、中津川の豪商であった間杢右衛門家の流れをくむ間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいた。同時、旅籠は宿役人しか営むことができなかったと記録されている。
元治元年(一八六四)十一月に水戸天狗党が中津川を通行した際、和田峠の戦で負傷した若き武士を隠し部屋に匿った。その後、武士は病死したが、当家にはその遺品が今も残されている。皇女和宮の下向の時には、京都御供が宿泊しており、その時の記録には当家の間取りなどが克明に調べられている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

白木屋(横井家)
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案内板
白木屋(横井家)

江戸時代の面影を如実に残す建物。この家は、山科屋遠山林蔵の依頼で、当家の先祖である宮大工の横井弥左衛門(藤原朝臣真行)が天保十三年(一八四二)に建てたものである。
中二階に四畳ほどの隠し部屋が今も残されている。部屋に入る梯子を取り外すと、そこに部屋があることが外からは全く分からない。遠山家は明治末期まで住んでいたが、現在は駅前に移住し、うなぎ屋『山科』を営んでいる。
その後、家屋は横井家に渡り、現在は建物の一部を『中山道お休み処 白木屋』として一般公開しており、中山道を訪れる人々の憩いの場や、住民のまちづくり活動の拠点となっている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市


【旧中川家と卯建のある家】

中川家(杉本屋)
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案内板
「 旧中川家(杉本屋)

中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛の屋敷の一部である。中川家の屋敷は、ここより南東側一帯にあり、広壮な屋敷であったものと思われる。この屋敷は南に向かって西生寺下の土蔵がある辺りまで建っていた。現在東西に延びる旧清水町の通りはなく、街道を直角に曲がる枡形という道のつくりになっていた。歌舞伎絵で著名な中川とも画伯は、この中川家の出である。明治の代になって原作吉が購入し、呉服商を営んでいたが、大正年間には薪炭、荒物商となり、現在に至っている。昭和三十年代の初め頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、これを舞台に映画『青い山脈』のロケが行われた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

卯建のある家
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案内板
「 卯建(うだつ)のある家

この二軒は長屋になっており、中川家の一部であった。卯建は隣家からの類焼を避けるために設けられた防火壁で、隣家との境に高い壁をつくり、その上端に小屋根を置いた。これによって隣家からの火事をある程度防ぐことができたが、卯建を設けるためには多額の費用がかかった。『うだつがあがらない』という慣用句は、裕福な家でなければ卯建を上げることができなかったことから転じたものである。
卯建は中津川でも、ここ横町通りの数軒でしか見られなくなり、宿場町の面影を今に伝える貴重な財産である。こに二軒のうち南側にある卯建は、前田青邨の絵にも描かれた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市
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【枡形とはざま酒蔵】

8:04 枡形
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はざま酒蔵(銘酒恵那山)
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間酒蔵ホームページより

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江戸時代の五大街道のひとつ、「中山道」に67あるうちの45番目の宿場、中津川宿の造り酒屋。
間家が中津川の地に移り住んだのは、岐阜にて行った歴史的な戦い「関が原の戦い」の翌年である慶長6年(西暦1601年)

酒造りを始めたのは、江戸中期。以来、200年以上にわたって「美味しい酒造り」にこだわってきた。

400年の歴史と伝統

間家はもともと京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住みました。江戸中期より酒造りを始め、以来200年以上にわたり醸造業を営んでいます。
江戸時代には尾張徳川家の御用商人となり、美濃国屈指の豪商としてその名を馳せました。
はざま酒造の真正面には、古事記にも記載がある霊峰「恵那山」を望むことができます。

この辺りは恵那山の伏流水が豊富に流れており、はざま酒造では創業当初からこの恵那山の伏流水を仕込み水として使っています。
その清らかな水のごとく澄んだ酒を目指し、「恵那山」と命名しました。

はざま酒造 新章

「料理とともにお酒を楽しむという文化をもっと広げたい」という思いから、2016年 純米酒だけを造る純米蔵として生まれ変わりました。
そして、霊峰恵那山のふもとという風土を生かしながら、岐阜県中津川市から日本を代表する酒造りを目指しております。
新たな挑戦として、初仕込み「恵那山 純米」と「恵那山 純米吟醸」を、世界で最も権威のあるワインコンペティション「インターナショナル ワイン チャレンジ(IWC)」の「SAKE」部門に出品。

純米酒部門」「純米吟醸酒部門」でそれぞれシルバーメダルを受賞いたしました。

酒はできるものではなく、造るもの

「中津川から世界へ。お酒を楽しむすべての方に」
全世界の皆様、全国の皆様に楽しんでいただきたい。日本の誇りであるような蔵元をめざします。

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8:06 「下町かいわい」案内板
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案内板
「 歴史の道中山道

下町かいわい/The neighborhood of Shimo-machi

下町は、かつて中津川宿における西側の玄関口でした。往時の姿はほとんど留めていないものの、このあたりには、下町から旧・川上川(中津川)までを繋ぐ中山道の道筋が存在したことが分かっています。時の道中奉行により、文化3年(1806)に完成した『分間延絵図(ぶんかんのべえず)』には描かれていないものの、かつてこのあたりにも高札場があったと言い伝えられています。 」

8:06 中山道本道
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案内板
中山道本道

津島神社の小さな祠の南側を、真っ直ぐ西へ、中津川に向かってのびているのが現在の道であるが、かつての中山道はこの小祠の北を、急な坂を下って中津川の河原に出ていた。現在は行き止まりになっていて、通り抜けはできない。
この坂を下る辺りの道幅が狭いのは枡形の名残である。枡形に入る手前の道の両側に石を積み、道幅を規制して一度に大人数が通れない様に作られたところを枡形見附とし、番人を置いた。
枡形見附の脇には、宿場の中へ悪いものや病気が入ってこないように、『おたてふ様』といわれる牛頭天皇(津島神社)の祠を祀っていた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

8:10 中央橋
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案内板
「 中津川と柳の木

浮世絵『中山道六十九次』は、江戸日本橋から京都までの中山道の宿場町を描いたもので、中津川宿は四五番目の宿場町として歌川広重によって描かれた。この中津川宿の絵図には、晴れと雨の二種類が存在し、それぞれ図版が異なる珍しいものである。
このうち『晴れの中津川』と呼ばれる一枚には、中津川にかかる中津川橋と柳の木が描かれている。
かつての中津川橋は、現在橋がある場所よりも百メートルほど下流にかけられていた。当時橋がかけられていたと考えられる場所の近くには、浮世絵とちょうど同じように、古い柳の木が立っている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

浮世絵 「晴れの中津川」
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浮世絵 「雨の中津川」
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8:11 中津川橋
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二度目の中山道20日目の2(中津川宿から会所沢まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/15/181533

二度目の中山道歩き19日目の9(中津川宿1)

二度目の中山道19日目の9
2020年1月7日(火)の9

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【茶屋坂】

16:05 中山道案内図
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中山道案内図

中山道を通行の方は、ウォーキングルート及び歩道橋を通行してください。 」

16:04 階段を下りる
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16:05 中津川宿案内板
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案内板
中山道ぎふ17宿

江戸日本橋から京都三条大橋まで六十九宿〔百三十五里二十四町八間(約五百三十二キロ)〕。この中山道の四分の一相当の百二十八キロが美濃国、つまり岐阜県です。十六の宿場を持つ美濃中山道は、山間を通る道程で木々や渓谷に四季折々の自然の美しさがある街道です。
木曽路馬籠宿は、景観を保存した観光地として賑わいをみせています。

中津川宿

木曽路の玄関口として栄えた、江戸の日本橋から数えて四十五番目の宿場で街道情緒をよく残しています。その中でも曽我家住宅(市指定文化財)などの建物には、防火用あるいは身分の象徴(裕福な家にしか設けられない)ともいわれる『うだつ』が見られます。
昔から和菓子が有名な宿場町で、中津川が発祥の地の『栗きんとん』をはじめとした栗菓子・和菓子は、今も多くの方に親しまれています。 」

16:06 高札場跡(茶屋坂)
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案内板
「 高札場について

江戸時代には、禁制、法令等(制札)を板札に墨書きし、民衆の注目を引きやすい所に掲げて、その周知を図りました。
この制札(高札)を建てた場所を高札場といい、中津川宿での高札場は茶屋坂にありました。
その位置は、この案内板に向かって左約40m隔てた道路左側にあり、高札は道に面して掛けられていました。
高札場に掲げられた高札は、年代によって内容、札数等はそれぞれ異なりますが、ここに掲げられてあるものは、正徳元年(1711)に公布された高札の複製で、その文言は、中津川宿本陣の記録に残っているものを今様に読み下し文にしました。
どうか昔を偲ぶよすがとしてください。 」


【石仏石塔群と、中津川駅へ】

16:06 常夜燈 庚申塔 二十三夜塔
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16:11 すや本店
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すや本店 中津川観光協会公式Webサイトより

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栗菓子のふるさと中津川市で江戸時代より続く老舗”すや”。栗とほんの少しの砂糖で作られる栗きんとんや、栗こごり、栗羊羹など、変わらぬ味をお届けいたします。

美濃中津川、町の中を旧中山道が通っている。
木曽路の入口にあたる古い宿場町である。
中津川の町は、町のどこを歩いても恵那山が見える。2191mのこの秀麗な山は、美濃と信濃とを分ける分水嶺だ。
この山の上に、刷毛で刷いたような雲が流れると、美濃路のはてに秋がはじまる。
幾筋も波打つように横たわる丘陵には、野萩が紅い花をつけ、やわらかな芒の穂が風にそよぐ。
そして広大な恵那山麓のいたるところに栗の毬が笑みほころびはじめ、
中津川新町の古い菓舗“すや”に、一年のうちでもっとも忙しい季節がめぐってくるのである。
良寛の書から拾ったという「すや」の二文字 (※1)、その木曽けやきの大看板を掲げるこの店は、
中津川でも、一、二の旧家として知られる家だ。
栗きんとんの箱に貼られている版画風の絵は、わらぶきの茶店を描いているが、
建物はそんな姿で江戸後期の宝暦頃から、中山道に面して立っていた。

創業は元禄年間。
江戸から下ってきた一人の武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いた。
赤井九蔵というその人が“すや”の初代である。中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、
享和二年(1802)に、中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝(※2)は、
この宿場に酢をひさぐ「十八屋」があることを、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めている。
“すや”の現在の建物は、南畝が通ったときすでに建っていたわけだが、
彼も、この酢屋が百年後に菓子屋に変わろうとは思ってもみなかったことだろう。
(※1)良寛のいろはの書から倣たものでございます。(※2)大田南畝 おおた・なんぼ(1749-1823)
江戸後期の狂歌師・戯作者、江戸の人。名は覃。
別号は蜀山人・四方赤良。有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。
編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」など。(大辞泉)

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16:16 中津川駅
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16:20 中津川発 名古屋行き

16:53 土岐市駅

徒歩9分 ルートイン土岐泊

18:25 唐揚げ定食
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本日の歩数 35,932歩 21.91km

お疲れさまでした。


二度目の中山道20日目(中津川宿から大井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/14/122057

二度目の中山道歩き19日目の8(落合宿から中津川宿への道)

二度目の中山道19日目の8
2020年1月7日(火)の8

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【与坂立場跡】

15:13 与坂立場跡 与坂御番所
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案内板
「 立場跡・与坂御番所

 ここ与坂の立場には「越前屋」という茶屋があり、米の粉の餅に黒砂糖を煮詰めて塗った三文餅を売っていた。
 また、このあたりに白木(ひのき・さわら・ねずこ・こうやまき・あすなろ等)を取り締まる与坂御番所が置かれていた。御番所はその後中津川上金へ移された。 」


与坂立場跡 中津川市観光情報Webサイトより

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落合宿の西のはずれからさらに中山道を西に行くと、中津川宿との境に与坂という急な坂がある。昔、この坂の頂に越前屋という茶屋があり、三文餅を売っていた。これは、米の粉の餅に黒砂糖を煮詰めたものをぬった餅で、名物としてよく売れたそうである。そのため、越前屋の裏の井戸から黄金が湧き出るといううわさが広がったほどであった。

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恵峰Webより

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立場茶屋「越前屋」が約150年ぶりに復活 水琴窟のある喫茶店で「三文餅」も復刻【中津川市

江戸時代、中山道落合与坂の白木番所隣で大繁盛していた立場茶屋「越前屋」が約150年ぶりに"水琴窟のある喫茶店"として復活。築200年といわれる家屋を生かし、名物だった「三文餅」も復刻して話題を集めています。 
越前屋を営んだ塚田家の現存する記録で最も古いものは宝永7(1710)年で、当主は14代目。歴史ある建物や庭、中山道の面影を残す景観を観光資源にできないかという周囲の勧めで、今年2月から改築。5月にオープンさせ当主の妻、塚田恵さんと友人が切り盛りしています。一部二階建てで約200平行㍍の店内には、太い梁を生かした囲炉裏ルームがあり、庭の水琴窟は実際に音を聞くことができる貴重なもの。古文書に記されている名物の三文餅も復刻し、お茶と漬物付、200円で提供しています。 
「外国人中山道ウオーカーにも大変好評をいただいています」と塚田さん。「建物も周囲の景観も、新たに作ることはできないので、大切にしていきたい」と話しています。

恵峰HN (2019年6月15日 10:00)

※掲載内容は投稿日時現在の内容になります。ご注意ください。

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今は、越前屋という珈琲店があり、水琴窟があるらしい。

本当は立ち寄って珈琲を飲みたい気分でしたが、先を急ぐのでパス。

15:14 小祠と弘法大師第十三番札所
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弘法大師第三十六番札所

英語の説明書きによると、右側の石像が弘法大師、左側は不動だそうです。

15:17 不思議な小さな木の家
(鳥小屋?鬼太郎の家?)
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とうやら向かい側の工房の作品らしい。


【覚明霊神社】

15:23 御嶽神社 覚明霊神社
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「開山覚明霊神百五十年祭碑」
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komainu.orgより

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覚明神社(中津川市子野)

覚明とは御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられている行者さんで、天明5年(1785)5月5日に木曽御嶽山を開くため中山道を通り、ここ槙坂の茶屋で泊まったおり、主人佐次兵衛一家が皆でもてなし、その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈ったと云われています。その開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭ったのがこの神社の始まりです。

(この文章に添えられていた写真は、「神社外観」、「神社入り口」、「開山覚明霊神百五十年祭碑」、「御岳神社文字碑」、「様々な霊神碑」、「御岳神社」)

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shugen-jitsukaga.weblike.jpより

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槙坂の覚明神社

岐阜県中津川市中津川子野  2010年4月24日
中山道の子野の一里塚跡から南に向かい、150mほどの槙坂を登り切ると右側に立派な石組みで築かれた神社が見えてきます。石段を上がって境内に入ると霊神碑が立ち並び、その中にひときわ高い実利霊神の碑が建っています。平成22年(2010)4月、初めて訪れた時に神社名を探したのですが、それらしき名称を見つけることができませんでした。鳥居をくぐって入った境内に「御嶽神社」と刻まれた石碑を見つけ、さらに地図にも同じ表示がありましたので「御嶽神社」として紹介しました。その後インターネットなどの情報から「槙坂の覚明神社」と呼ばれていることが分かりました。今後は「覚明神社」と改めて紹介させていただきます。向かって左に隣接するのは「御嶽教槙坂覚明教会」です。

尾張出身の覚明行者は、木曽御嶽山の登拝を大衆に開放する意志を持って御嶽山に向かいました。登拝はそれまで道者や七十五日ないし百日間の御嶽潔斎行(重精進)を経た者など、限られた者にしか許されませんでした。覚明行者は軽精進による大衆の登拝を実現しようと麓の村々を廻り説得に努めましたが許されませんでした。天明五年(1785)意を決し賛同者や信者を引き連れ、登拝を繰り返し強行して牢に繋がれました。翌年からは登拝を強行するだけではなく御嶽山黒沢口登山道の改修に着手しました。そしてその年の6月20日御嶽山の二の池を見下ろす高台で、志なかばにして病に倒れ69年の生涯を終えました。二の池の畔から南へ300mほどにある入定の地となった高台には、二の池を見下ろすように覚明行者を祀る霊神場があります。また、行者の遺体は黒沢口登山道九合目半に建つ覚明堂の正面の霊神場に埋葬され祀られています。覚明行者の没後、次第にその行跡が認められ寛政四年(1792)には軽精進が正式に許可されました。その後江戸の普寛行者によって新しい王滝口登山道が開かれました。

覚明行者が木曽御嶽山に向かう途中、恵那山で十七日間の断食修行を行いました。その修行を終え、当時「覚明神社」の建つ場所にあった槙坂茶屋で休憩をしてもてなしを受けました。翌朝茶屋の主人に依頼された祈祷が評判を呼び、大勢の人に祈祷を頼まれるようになりこの地で三年間過ごしました。 覚明行者の没後、茶屋の主人古根佐次兵衛が祀ったのが「覚明神社」の始まりと伝えられています。

(5/12 2014)

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ontakejinja.jpより

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行 者 列 伝

覚明行者

 覚明行者は享保3年(1718)3月3日に、尾張国春日井郡牛山村の農夫清左衛門の子として生まれ、母を千代といった。
家が貧しかったので、土器野村の新川橋辺の農家に引きとられて養われたという。

 木曽の大桑村上郷の田沢家の伝承によると
「覚明様はもと魚商人で名古屋の方から木曽へ行商に荷物をかついできて家(田沢家)へもよく泊ったり休んだりしていった。
木曽の地理はとてもくわしかった。
そのうちどうしたことか、さっばりこないと思っていたら、何年かたって今度は行者になってやってきた。」といっている。

 行者が御嶽登拝を目指して木曽へ来て、第1回の登山をおこなったのは天明5年であり、
連城亭随筆の筆者の村へ覚明行者として訪れたのは天明6~7年のことであるから、
行者の名が御嶽登山をおこなって後になってからその郷里にも知られるようになったものであることがうかがわれるものである。

 王滝村滝氏所蔵の『神社留記』によると
天明4年、5年の両年にわたって黒沢村の武居家へどこの国のものかはっきりしない坊主が来て
御嶽登山を許可してくれと頼みこんできたが、
登拝は古来より百日精進の重潔斎でなくてはならないとして許可しなかったところ、
天明5年にはついに許可を待たずに6月4日8人、14日には30人余り、28日には7、80人余りが
御嶽山大先達覚明という旗をおし立てて登ったとしているから、
天明4年に御嶽登山の念願のもとに黒沢村へ来たものであることが知られる。

なおこの記録によると「此坊主名古屋通り松にて3年以前(天明2年)御追放にて山賊の張梵切支丹の様相見へ申侯。」とあるから、
この以前から行者として相当の活動をしていたことが知られるし、
名古屋を追放された行者は中山道を下って木曽に来たものと考えられる。

 大桑村野尻には覚明行者が古瀬屋に宿泊し、古宮の滝という所で修行をしたことがあると伝え、
また行者は福島の願行寺(福島に居館した、木曽代官山村氏が比叡山や東叡山にならってその鬼門鏡護とした天台宗の寺院)
覚円法印に師事したと伝えているし、
さらに開田村の西野、未川には、覚明行者が布教の途次この地に赤松の生えているのを見て稲作の可能を説き、
開田を勧めたとしている伝承があり、村の作次郎という、福島・西野間の持子をしていた者が行者の強力をつとめたという伝承もあって、
御嶽登山をおこなう前、行者が山麓諸村落の間を布教して回ったものであることがうかがわれる。

 『連城亭随筆』には行者が川へ棒を浮かべてその上を伝って渡る術を持っていたことを述べており、
また王滝村の『神社留記』にも 「霞を自在に仕り、御体も己が自由自在に仕り、怪敷き事にて諸人の目を驚し申候」とあるから、
その法力がすぐれており、山麓の村々においても多くの信徒を得ていたものであることがうかがわれる。

 行者が初めて黒沢へ来たときの様子を伝えるものとして
「黒沢村の某が福島の半夏の馬市に出掛けての帰りみちに合戸峠で覚明行者に行合い黒沢へ案内して来た。
そしてねんやへ連れていって登山のことをたのんだが
百日の精進をしたものでなければ登らせるわけにはいかないといって許されなかった。
それで田中の庄屋のところへいったが田中でも、
ねんやと福島の代官様の許しがなければ到底登山することはできないといって諭したので、
あきらめて帰っていった」
という口碑が残されているが、鎌倉時代以来御嶽の支配者としての地位を与えられていた黒沢村の神官武居家では、
軽精進によるみだりな登拝は数百年来続けられてきた重潔斎による登拝行事の慣例を破るものであり、
御嶽の神威を犯すおそれがあるとして行者の請願を却下したものである。

しかして行者は御嶽軽精進登拝の念願を捨てることができず、
天明5年(1785)6月登山を強行するに至ったものである。
この間の事情は「覚明行者による黒沢口登山道の改修と軽精進登山の許可」のところで詳しく述べたとおりである。

 天明6年行者はさらに信徒を引きつれ登拝をおこなうとともに、
黒沢村薮原の仙長九郎等の協力を得て登山道の改修のことにもあたろうとしたが、
この事業遂行の中途で病のおかすところとなり、
ついに天明6年6月20日御嶽山の二の池の畔で入定しその生を終えるに至ったものである。
ミイラ化したその遺骸は信者たちによって9合目に葬られた。
現在の覚明堂の場所がそれである。
行者の没後その功績が認められ、寛政4年に至って武居家より軽精進登拝の正式許可があり、
これによって御嶽信仰木曽一円の信仰から全国的な信仰へと拡大されていく端緒が作られるようになった。
この偉大なる功績に対し、嘉永3年(1850)7月覚明行者に対して、上野東叡山日光御門主より菩薩の称号が授けられている。
黒沢の赤岩巣橋の霊神場の覚明行者の霊神碑はこのとき建立されたものである。

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隣に 御嶽教槙坂覚明教会があります。
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【子野のいこいの広場】

「このはし」という橋を渡りました。 「この道」みたい 、と思ったら、「子野橋」でした。

15:27 子野の里いこいの場 快心庵
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石碑
「 子野の里 中山道に いこいの場」
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トイレを借りました。周辺の南天がきれい。
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今日は全体を通して水が豊富で、水場、水舟をよく見ました。

中津川市に入り、池がある家が多く、また、赤い実が多く、どうやら南天のようです。

中津川市には、各所に南天の赤い実が見られ、癒されました。

中津川市南天と、何か由縁があるのかと調べてみましたが、特にないようなんですが、たくさん見かけました。

恵那山ねっとより

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南天は厄除けや魔除けになるとされ風水では、裏鬼門(南西)は赤南天とされる

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【子野の石仏石塔群】

15:38 子野石仏群 地蔵堂跡石仏群
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案内板
「 子野 石仏群

地元の人たちは、ここを『とっこん様』と呼んでいる。
『徳本上人の念仏碑』があり、徳本さまがなまって『とっこん様』になった。
ここの石仏は中山道沿いにあった石仏を集めたと言われている。
子供が
境内には、樹齢350年のしだれ桜と寄り添うように柊の木が植わっている。
(五街道巡業記に記載あり)是非見てください。

(英語説明割愛)


中津川市がんばる地域サポート事業の補助を受けています。

通り抜けできます 」

中津川市古文献アーカイブより

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地蔵堂の石仏群

子野 の地蔵堂川の東たもとに石造物群がある。文政五年(一八二二)の徳本上人の念仏碑のほか、元禄七年(一六九四)・寛延三年(一七五〇)・天保一二年(一八四一)の庚申・地蔵・観音像などが数多く祀られている。境内には枝垂桜の古木があり趣を添えている。道は左へ曲がりながら緩やかに下り地蔵堂川を渡る。橋を渡るとすぐ左に第一用水が地蔵堂川へ流れ込んでいるのが見える。道は右へ大きく曲がり短い急坂となる。

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そして、しだれ桜はこの石仏群のシンボル的存在です。春に訪れたらさぞきれいなことでしょう。
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「通り抜けできます」の案内板の横の階段から上がっていくと、たくさんの石仏や石塔があります。

ここからは、子野の石仏石塔群をどんどん紹介していきます。

向かって左が庚申塔、向かって右が慈母観音
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案内板
庚申塔

庚申は、暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰です。道のほとりに塚を築いて、供物をして、往来の旅人にいたるまで供え物をして与えて、庚申様のお祭りをしたそうです。 」

案内板
「 慈母観音(じぼかんのん)

慈母観音は子安観音(こやすかんのん)とも言われ、母が子に対し深く大きな慈愛の心を表した菩薩像です。
昔は、医者もなく子供を生み育てることは大変な苦労でした。
子供が無事生まれ育ってくれることを祈り、多くの村人がこの観音様にお祈りをしたことでしょう。
特に女性の方から強い支持があった観音様です。 」

徳本名号塔
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案内板
「 徳本名号塔(とくほんみょうごうとう)

徳本上人が子野村の地に念仏行者として現れ、ここに住む農民に徳本講を教えた。
農民たちは大変喜び徳本名号塔を貧しい生活の中で、お金を出し合い立てました。
徳本上人は厳しい修行を行いながら『南無阿弥陀仏』を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救ったといわれています。徳本上人の書かれた『南無阿弥陀仏』の文字は丸みをおび、終筆がはねあがり、縁起が良いといわれ、徳本文字と呼ばれています。 」

如意輪観音(向かって左)
聖観音 (真ん中)
六字名号塔 (向かって右)
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案内板
如意輪観音(にょいりんかんのん)

農民たちは、肘をつき手のひらを頬にあて、あたかも痛んだ歯を押さえている姿なので、虫歯が痛むときにはお参りすれば治してくれる仏様と信じ参拝していた人もいた。
本来の如意輪観音は、宝の数珠を持ち財宝を人々に与え、貧しい人達の幸せを満たしてくれるといわれています。 」

七観音 地蔵尊 如意輪観音
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写真の一番左、七観音は、1枚の中に七尊の観音様。縦二列の上に一人乗っかっておられるのは、やはりこの中で一番格上なんでしょうか。

一番右の如意輪観音は、大分風化で薄れてはいますが、宝の数珠を持って、人々に財宝を分け与えているのでしょうか。

名号塔 地蔵尊 六文字名号塔
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各、石仏石塔の前に立札が立っているものは名前がわかるのですが、写真の左の石塔が「名号塔」で、右の石塔が「六文字名号塔」となっている理由はわかりません。両方「南無阿弥陀佛」と彫られています。

地蔵尊 地蔵尊
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この石仏石塔群には、圧倒的に地蔵尊が多いので、ここで地蔵尊についてwikipediaに書いてあることを載せます。

地蔵菩薩とは wikipediaより

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大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。

日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。

一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。

地蔵菩薩は忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩であるとされる (六道能化〈ろくどうのうげ〉)。

像容

一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。

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案内板
「 子野の地蔵堂石仏群

昔このあたりに地蔵堂があったといわれますが所在は明らかではありません。
中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝が延びて趣があります。
ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、元禄七年(一六九四)の庚申塚や地蔵、観音像等が数多く祀られています。
また、文政五年(一八二二)の『南無阿弥陀仏』と独特の文字で書かれた高さ二・〇メートルの徳本行者な名号石があり、生き仏と言われた彼が文化年間(十九世紀初め頃)にこの地に逗留して、『称名念仏』を布教したことを偲ばせます。

中津川市教育委員会

馬頭観音 冠をかぶり手を合わせる石仏 慈母観音
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冠をかぶり手を合わせる石仏は、調べてみましたが、その像容からは何の石仏かは分かりませんでした。

右の慈母観音は、字が彫ってあり、鈴本と読めるので、子宝に恵まれたお礼に鈴本さんが奉納したのでしょうか。


馬頭観音
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東海道でも中山道でも、旅の途中、よく見かける馬頭観音wikipediaで調べてみました。

馬頭観音 wikipediaより

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馬頭観音 wikipediaより

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馬頭観音(ばとうかんのん、梵: हयग्रीव、hayagrīva、ハヤグリーヴァ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、柔和相と憤怒相の二つの相をもつが、日本では柔和相の姿はあまり知られておらず作例も少ない。そのため、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大明王」の一尊にも数える。

他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、一般に馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である。このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて仏の五部で蓮華部の教令輪身(きょうりょうりんじん)であり、すべての観音の憤怒身ともされる。それゆえ柔和相の観音の菩薩部ではなく、憤怒相の守護尊として明王(みょうおう)部に分類されることもある。

また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて、『六字経』を典拠とし、呪詛を鎮めて六道輪廻の衆生を救済するとも言われる「六観音」においては、畜生道を化益する観音とされる。

馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間の信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した。

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写真の馬頭観音の後ろには、今まで見てきた石仏石塔が並んでいるのが写っています。

庚申塔、慈母観音、徳本名号塔、如意輪観音聖観音、六字名号塔、七観音地蔵尊如意輪観音、名号塔、地蔵尊、そこまでですね。その右の六字名号塔は写っていません。


地蔵尊
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案内板
地蔵尊(じぞうそん)

親しみを込めて『お地蔵さん』、『お地蔵様』と呼ばれています。
ここにあるお地蔵様は、江戸時代に中山道を整備した時、地蔵堂川の橋のたもとにあったものをここに移したと言われています。
『子供の守り神』として信じられており、子供が喜ぶお菓子が供えられています。
日本人にとって、もっとも親しみ深い菩薩として祭られています。 」

十一面観音(向かって左)
弘法大師(向かって右)
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案内板
弘法大師(こうぼうたいし)

弘法堂は大正12年(1923年)関東大震災のあと、被害者の冥福を祈り弘法様をお祀りして、子野村の人たちの幸せと災害がないことを祈願しました。
弘法大師空海のことで、大師といえば弘法大師を指し空海を知らなくても『弘法さん』とか『お大師さん』を知る人は今でも多くいます。 」

道祖神(反対側の階段下)
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案内板
道祖神(どうそしん)

文化14年8月(1817) 村中 道祖神は道を守る神様です。
ここにある道祖神にも、それぞれの行き先が刻まれています。『右ハ山みち 左 中山道』と刻まれていますが、風化が進み、読むのが難しくなっています。子野村の入り口に立てられ、悪者や疫病などが村に入らないように村の人々を守る番人です。」

反対側の階段下にも、本日の67で詳解したのと同じ案内板「子野 石仏石塔群 通り抜けできます」がありました。

石仏石塔群に立ち寄っても、ちゃんと中山道の続きに出ることが出来ます。

子野の石仏石塔群にはずいぶん長く滞在していた気がしましたが、最初に撮った写真と、最後に撮った写真の時間を見たら、4分しか経っていませんでした。

【地下道の中山道、地下道の山頭火

15:44 遠くから見て、ジョーズ みたいなマーク、何だろうと思ったら、
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矢印に従って、進んで右斜め後ろへ逆V字に行くのでした。
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15:46 地下道の中山道(山頭火句など)
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地下道の山頭火
「山しづかなれば笠を脱ぐ 山頭火句」
「飲ミタイ水ガ音タテテヰタ 山頭火句」
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地下道の看板
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「 この道は
多くの人が歩いた道
中山道

京から江戸までつづいている
中山道

今わたしが歩いている道
中山道

この道はまた歩いてみたい
中山道

一歩一歩踏みしめて
歩いていく道
中山道

歩いてきた 思い出の道
中山道

東海道でも中山道でも、自動車優先で歩行者が歩道橋を渡ったり、地下道を潜ったりするのは、特に膝や足が痛いとき辛くて、歩行者優先なんて言うけれど、絶対違うよねー、と思ってきました。

しかし、今日の地下道は楽しかった。

15:48 地下道出口
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この写真、何だかとってもシュール!


【上金メダカの池】


15:50 「中山道 上金かいわい」
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案内板
「 歴史の道 中山道
中山道上金かいわい

 この付近は江戸時代、上金村と呼ばれ中津川村の支村であった。
 『濃州徇行記』「寛政七年」(1795)には、石高六七石余りの小村で、家数十八戸、人口八五人、民家は街道左右に散在し、多くの山畠があったと記されている。
 国道十九号により約二十m中山道が消滅しているが、道幅は三~四間であったといわれている。
 地下道を通って東に進むと「子野の地蔵堂石仏群」があり、高さ二m余りの徳本行者念仏碑の他、庚申・地蔵・観音等が数多く祀られている。

平成十四年十月吉日
中津川市教育委員会

15:53 上金めだかの池
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看板
「 上金(うえかね)メダカの池

めだかの学校
作詞 茶木 滋

めだかの学校は
池のなか
そっとのぞいて
みてごらん
そっとのぞいて
みてごらん
みんなでおゆうぎ
しているよ
めだかの学校の
めだかたち
だれが生徒か
先生か
だれが生徒か
先生か
みんなて元気に
あそんでる

平成二十一年八月
上金中山道の会 」

池、ではなくて、「メダカの学校は川の中」がよく知られている歌ですよね。

作詞の茶木滋は神奈川県横須賀市の出身で、「めだかの学校」は、 戦時中の疎開先の小田原の荻窪用水でメダカを見ながら子どもと交わした会話をヒントに作ったそうです。

なぜ、岐阜県中津川市に、それも「めだかの学校は池のなか」と歌詞も変えられて看板になっているのか、わかりません。

さらに、足元の男女双体道祖神は、最近作られたもののようです。

15:56 尾州白木改番所
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案内板
尾州白木改番所跡(びしゅうしらきあらためばんしょあと)

中山道には木曽から伐採した細目を監視する尾州(尾張藩)の番所が設けられていました。
この中津川市上金の地にあった『尾州白木改番所跡』は、天明二年(一七八二)に建てられ、明治四年(一八七一)に廃止されました。
白木とはひのき(桧)など木の皮を削った木地のままの木材で、屋根板、天井板、桶板などに利用しました。
尾張藩は領外への搬出を厳しく取り締まり、白木や【ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ】をはじめとする木曽五木の出荷統制を行っていました。 」

15:56 中山道
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芭蕉すみれ塚】

15:58 旭ヶ丘伏見稲荷神社
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15:59 芭蕉句碑
「山路来て何やらゆかしすみれ草」
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案内板
「 (3) 芭蕉句碑(俗称すみれ塚)

山路来て 何や羅遊(らゆ)かし
寿み連(すみれ)草 はせを

松尾芭蕉の句。貞享2年(1685年)の3月27日ごろの吟。前書きに『京都より大津に出る道山路をこえて』と『甲子(きのえね)吟行 別名 野ざらし紀行』にある句で、碑は大津出身の菅井家先祖が ここから見た宿場のたたずまいが近似しているところから常に、その情景を孫、子に語り伝えてきました。三代 菅井嘉兵衛高伯(たかあき)のとき、供給にふさわしいこの秀句を選び、安永2年(1772年)芭蕉の八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、中山道に面して建てられましたが、30年前に保護するため、道筋からはずし、昭和53年(1978年)3月、昔の面影を残すため、この場所に移しました。」

三面六臂馬頭観音庚申塔
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16:00 元矩碑
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案内板
「 (1) 元矩碑(もとのりひ)

間半兵衛元矩(はざまはんべえもとのり)が詠じた歌詞を取り入れ、七代 間鷲郎(わしろう)が親族一同に図り(はかり)父の三年祭に当る、明治27年(1894年)8月26日に建てた顕彰碑(けんしょうひ)であります。
(ひとやね に 半 = やまばん)の六代目を継いだ元矩は、中津川の戸長(こちょう)を8年、初代町長を2年。約10年にわたり町村の行政をにない、当高円寺を開いた中の一人であり、園内に、父秀矩碑、(土の右上に点)衛(ひじもり)碑を建てたのち、49歳の若さで世を去りました。
扁額(へんがく)は、天神(てんしん)碑と同じ中納言菅原為栄の書であり、撰文を認めたのは熱田神宮の大宮司、角田忠行であります。忠行は小説『夜明け前』に暮田正春の名で登場し、その行動を詳しく伝えております。 」


二度目の中山道19日目の9(中津川宿1)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/11/112921




二度目の中山道歩き19日目の7(落合宿)

二度目の中山道19日目の7
2020年1月7日(火)の7


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この絵は、2020年8月に娘と落合に来たときに描いたものです。


【上町の秋葉様の常夜燈】

14:39 落合の高札場跡
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14:41 分岐左へ
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14:42 枡形
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14:42 上町の秋葉様の常夜燈
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案内板
「 上町の秋葉様の「常夜燈」

・宿場通りには、秋葉様の常夜燈 が
四基あり、戸ごとを回る当番により
灯をともし防火を祈ってきた。
・寛政四年(1792)十二月に建てられ
たが、明治十三年(1880)の道路
整備の際、三基は他所に移された。
・この一基だけが道の片隅に寄せられ
往時の姿を留めている。

落合まちづくり推進委員会 」

14:44 LABORATORY
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【落合宿本陣跡】

14:45 落合宿本陣跡
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落合宿本陣 中津川市観光情報サイトより

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中山道落合宿は、江戸から44番目の宿場町。落合宿本陣は中山道ぎふ17宿の中で唯一本陣が残っており、歴史の面影を感じることができます。

往時の面影を残す貴重な建物であり、平成22年2月、国史中山道の一部として追加指定を受けました。平成29年3月より、毎週日曜日に一般公開されています。

【公開日時】 毎週日曜日 9:00~16:00
【料金】   無料
【その他】  ガイドが案内いたします。

ボランティアガイド

毎週日曜日に落合宿本陣を無料でご案内いたします。畳の間に上がることはできませんが、姿見の障子、殿様が危機から逃れるための抜け穴など、本陣の見どころについて説明いたします。
【受付】   毎週日曜日9:00-16:00まで 落合宿本陣に直接お越しください。
【所要時間】 15分~30分程度
【備考】   日曜日以外の公開・ガイドについてはお問合せ下さい。
【問合せ先】 落合事務所 0573-69-3201 文化振興課 0573-66-1111

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14:45 明治天皇落合御小休所 (本陣)
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14:46 落合宿案内板
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案内板
「 歴史の道 中山道
落合宿

落合宿は江戸から82里12町(約323km)京から52里9町(約205km)の位置にある、江戸日本橋から数えて44番目の宿場町である。落合宿は、江戸側から横町、上町(かんまち)、中町、下町(しもまち)に分けられる。
落合宿の長さは、3町35間(約390m)、家数は75軒を数えた。宿場町の両端に桝形を備え、道の中央に用水が流れ4基の常夜燈が設置されていた。
本陣は井口家が、脇本陣は塚田家が代々務めており、それぞれ問屋を兼ねていた。また、落合宿の庄屋は井口家(千村家(久々利方))と塚田家(山村氏(木曽方))が分担して務めていた。
文化元年(1804)、文化12年(1815)の2度、落合宿は大火に見舞われた。その後築造された土蔵造の落合宿本陣やうだつ、古い民家などに江戸時代の面影を垣間見ることができる。
落合宿西側から落合の石畳を含む新茶屋までの道筋(約2475m)、落合宿本陣、落合の常夜燈、新茶屋の一里塚が、平成22年(2010)に国指定遺跡『中山道』へ追加指定された。 」


【たすけあいの釜 門冠の松】

14:47 たすけあいの釜
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gifureki.comより

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助け合い大釜(落合宿)概要: 大釜(容量1000リトッル、口径約1.5M)は、元々「寒天」の原料である天草を煮る時に利用したものです。文久元年(1861)、皇女和宮が江戸に下向する際、4日間で約26000人が落合宿を利用し、多くの住民が助け合いながら利用者の接待をした故事から、この地に大釜を設置し、日本の伝統的食文化と密接な関係がある道具(大釜)を保存すると共にイベントなどで大釜料理(千人キノコ汁)を参加者に振舞うようにしたそうです。
皇女和宮降嫁行列は総勢3万人、50キロに及び、利用された中山道沿いにある藩は警護にあたり、各宿場は失礼が無いように整備や清掃が行われ、犬猫や家畜などの動物の声や社寺の鐘などにも十分気くばりされました。落合宿では本陣である井口家で和宮が小休止を行なっている為、当日には特に警備が厳しかったと思われます。4日間は行列で随行した従者などが宿泊や休息で利用した為、まさに宿場をあげての「おもてなし」がなされました。

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14:48 善昌寺 門冠の松
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案内板
「 善昌寺の「門冠の松」

・この松は、創建当時の山門を
覆っていたことから門冠の松
と呼ばれている。
・道路新設拡巾・寺の移転等で
根が痛めつけられて来たのか、
凡そ四五〇年の年を経ていると
いわれているが、さほど大きく
なく、宿場の入り口に格好の
風采を添えている。

落合まちづくり推進協議会 」


ここで何故か、スマホがフリーズ !しばし、公園前でスマホ復活を待ちました。

トイレに行きたかったのですが、公園にトイレはありませんでした。

外国人6、7名とすれ違いました。中山道を歩く、欧米系の外国人は多いんだなあ。

14:51 公園前の落合宿案内板
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この後、上り坂。上り坂の途中にお地蔵様。

14:53 向町の地蔵尊
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【おがらん】

14:55 落合五郎兼行の案内板(お伽藍神社下)
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案内板
「 落合五郎兼行

平安時代の終わり頃、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたと言われている。
落合五郎兼行は、平家物語巻七寿永二年(一、一八三)、五月の『火打ち合戦』の項に名を連ねているが、出自は中原兼遠の末子である説や、中原氏の一族説等あり、生没不詳で定かでなく、木曽義仲に仕えていたことは事実と思われる。義仲の幼名は駒王丸といい、父源義賢と叔父にあたる義朝との合戦により父義賢が殺されたため、駒王丸は幼少の頃から乳母の夫である中原兼遠のもとて養育された。
諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光今井兼平、落合五郎兼行と義仲の妻になる巴の三男一女があり、平家物語の中で、義仲の有力な武将として取り上げられている。
館跡とされている所は、『オガラン』と呼ばれ、『伽藍』(大きな寺院)という言葉からきたと推定され、近くには『小姓洞』という地名も残っている。
実際に兼行が当地の落合に居住していた説に関しては不明な点が多いが、江戸期に書かれた『木曽名所図絵』には、『落合五郎霊社』と案内され、『新撰美濃誌』は、落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、『老杉三、四株生い茂るうちに愛宕神社あり』と書かれている。
また、『美濃国御坂越記』には、落合五郎兼行住居の跡地といえども、『兼平か、弟の兼行にてはあるべからざる』と考察している。
兼行の館跡は、後世に文献や地名から推定されたもので、平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかった。
現在ここは、愛宕神社寛延年間に建立された石灯籠や兼行の顕彰碑等があり、毎年八月には経た例祭が行われている。

平成六年十二月吉日
中津川市
おがらん四社

愛宕神社
山之神神社
天神社
落合五郎兼行神社 」


中津川バイパスを跨ぐ
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「おがらん」道標
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実は、さっきの「落合五郎兼行」の案内板は写真だけ撮って、あまりちゃんと読んでいなかったので、「おがらん」って何だろう?と思いました。お伽藍、なんですね。

スマホは撮った写真の案内板の字もちゃんと読めて便利。

ブログアップ用に容量を小さく抑えるため、ブログにアップされた写真は字が潰れてしまいますが、スマホに納めている元の写真は字がちゃんと読めます。

15:01 中山道を示す金銀砂子(私が勝手につけたあだ名。実際には黄色や白の点々付きの舗装)が途切れたので、ここまでかと思って写真を撮る(実際には、この後また復活しました)
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【落合の裏切り坂】

今まで道筋を示してくれていた金銀砂子の道とお別れしたので、「中山道」の道標が頼りです。
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ガイド本は持っていますが、歩きながら読むのは歩きスマホ同様危険だし、雨で傘を指していると、ほぼ鞄にしまいっぱなしで、どっちだろう?と思ったときだけ出します。(おかげで、見落としたものがたくさんあります)

ガイド本をしまいっぱなしでも大抵道が分かるような道標などがほとんど設置されていますが、時々、何故ここにない?という、あってほしい所にないこともあります。

15:02 水戸浪士 熊谷三郎の墓 この先30m
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案内板
「 水戸浪士 熊谷三郎の墓

 幕末に水戸藩内一派「天狗党」が、攘夷貫徹を訴えるために、京都をめざし落合宿 を通過したおり党紀に違反した熊谷三郎 が惨殺された。
 それを哀れんだ地元の人々により西山墓地に葬り墓碑を建て供養した。 」

15:03 「歴史の道」道標に従って左へ曲がる。

車道を潜り、その先、右後ろに鋭角に曲がる。逆Vの字に右斜め後ろの坂道を上る。
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金銀砂子の道が復活していました。

15:06 急な上り坂始まる。
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10年前に落合宿の記憶はほとんどなく、急な上り坂があった、という記憶のみあったのですが、さっき眼下に町を見下ろしたとき、ずった下りが続くと思ってしまっていたので、急な上りに出逢い、ああ、この記憶がずっと残っていたのか、と思いました。

ところがこの先、急坂を上って急坂を下り、また急坂を上りまた下り、が何度も続き、あまりにも辛くてこの辺りの記憶が飛んでしまっていたのかなあ、と。

下りが続くと思っていたら、突然の急登。さらに激しいアップダウンの連続。これを私は勝手に「落合の裏切り坂」と命名しました。
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二度目の中山道19日目の8(落合宿から中津川宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/11/104911

二度目の中山道歩き19日目の6(馬籠宿から落合宿への道)

二度目の中山道19日目の6
2020年1月7日(火)の6

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【フィールドを行く】

13:35 馬籠宿からフィールドへ
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最近はRPGはやっていないのですが、以前はよく、ドラクエをやっていました。ドラクエでは、町から町の間の草っ原をフィールドと呼び、モンスターが出現します。

馬籠宿を出て田畑の広がる景色を見たとき、フィールドだ!と思いました。モンスターは出てきませんが。

街道歩きは、首都圏や大きな市町は別ですが、宿場町を過ぎるとフィールドっぽくなることが多いですね。

木曾は山道が多いですが、この場所はのどかな田畑でした。

13:36 雪をいただいた山が見える
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13:39 石屋坂標石
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13:39 道標 横屋バス停
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石屋坂標石のすぐ横がこのバス停です。


【馬籠城跡】

13:51 丸山の坂 標石
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丸山の坂 馬籠城があった坂

13:41 馬籠城跡案内板
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案内板
「 馬籠城跡

この辺りの地名を『丸山』とも『城山』ともいい、ここには今から五百年前の室町時代から『馬籠城(砦)』があったことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。
天正一二年(一五八四)三月、豊臣秀吉徳川家康両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍のせめあがることを防ぐため、木曽義昌木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は、島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。
天正一二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利、高遠の保科正直、諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠の北に陣地を構えた。
馬籠を守っていた島崎重通は、あまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
今、三軍が陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを『陣場』という。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(一六一五)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。 」


13:41 石仏石塔群
(庚申塔馬頭観音など)
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【島崎正樹翁記念碑】

13:43 諏訪神社
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13:44 島崎正樹翁記念碑
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島崎正樹翁記念碑 夜明け前 青山半蔵

諏訪神社参道入口右手に島崎正樹翁記念碑が立つ。島崎正樹は、藤村の父で「夜明け前」の青山半蔵のモデルになった人。正樹は、中山道馬籠宿の本陣,庄屋,問屋を兼ねる名家に生まれた。平田篤胤国学に傾倒し、明治時代に入ると木曾山林の解放運動に奔走するが、家産を傾け 失意のうちに発狂し悶死する。次男の広助(藤村の兄)の奔走により明治45年(1912)に建てられた。

13:50 男女双体道祖神
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男女の左右が反対 新しいもの?

私の好きな風景
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正岡子規句碑と新茶屋】

13:56 正岡子規句碑
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馬籠観光協会オフィシャルサイトより

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

正岡子規句碑と夕陽の丘(サンセット100選)

「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 」子規
正岡子規(1867-1902)は明治期の俳人歌人。本名は常規、松山の出身。明治26年東京大学を中退後俳句革新を唱え、さらに「歌よみに与ふる書」で万葉を理想とする短歌革新を唱えた。
 「かけはしの記」には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と述べている。  この碑は昭和54年9月、馬籠観光協会によって建立された又、この場所は長野県時代に信州サンセット100選に選ばれた。夕陽が最高に綺麗な場所である。あずまやもあり一休みするにはもってこいの場所です。

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ここ、10年前にも来たこと、覚えています。東屋で靴の石をとりました。(雨なので、屋根があるところで)

14:00 謎の神燈(奥に神社?)
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14:02 新茶屋
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この新茶屋の真ん前辺りに、大きな案内板があります。

案内板の一部
「 新茶屋

この辺りの地名を『新茶屋』という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を『立場茶屋』といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。」

新茶屋は現在は民宿をやっています。

民宿 新茶屋ホームページより

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この場所は信濃と美濃の国境に位置し、本陣と本陣の中間地点にあることから立場茶屋と呼ばれ、お茶屋を営んでおりました。
大名行列、皇女和宮、水戸浪士などが通った旧中山道沿いにあり、江戸時代より立場茶屋と旅籠を営んでおりました。
昭和25年より、民宿として営業いたしております。

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kiso-magome.comより

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新茶屋

◆お店より一言
家庭的で気さくな雰囲気でやっています お母さんの真心料理
でおもてなし 予約になりますが「しし鍋」も出来ます。

我家の庭には「芭蕉の句碑」「これより北木曽路の碑」が あり歴史の一部がかいま見ることができます。      
店主

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(後日、夏に娘と木曽路を歩いたとき、この新茶屋に泊まりたかったのですが、新型コロナウィルスの影響で人が営業していないのか、連絡がとれず、実際にやって来て前を通ったときも、営業している様子はありませんでした。)


【新茶屋の一里塚跡】

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案内板
「 新茶屋

この辺りの地名を『新茶屋』という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を『立場茶屋』といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。


『是より北 木曽路』の碑

ここは、長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。昭和一五年(一九四〇)七月、当時六八才だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は六〇才ころから自らを『老人』と記すようになった。
この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して昭和三二年(一九五七)一一月に藤村記念館建設の実行母体である『ふるさと友の会』によって建立された。


芭蕉の句碑

松尾芭蕉が門人の越智越人を伴って、信州姨捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅したのは貞享五年(一六八八)のことであった。その旅を『更級紀行』として世に出した。

゛送られつ送りつ果は木曽の穐゛

この碑が建てられたのは天保一三年(一八四二)のことで、このころ岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする『美濃派』の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として建てられたものである。


一里塚

街道の両側に『一里塚』が昔の姿が残っている。江戸幕府は街道整備の一環として一里三十六町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。現在中山道では殆どが失われており、貴重な遺構である。 」

14:02 信濃国美濃国国境(今の県境と違う)
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14:02 新茶屋の一里塚
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案内板
「 歴史の道 中山道 新茶屋の一里塚

 一里塚 とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠 が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道中山道甲州道中 などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。
 これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の場でもありました。
 新茶屋の一里塚は天保安政時代(1830~1860)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが今回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しました。
平成六年 二月
文化庁 岐阜県 中津川市
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今回、とうとう「是より北木曽路」の碑と、芭蕉句碑を見逃してしまいました。

(後日、夏に娘と木曽路を歩き、「是より北木曽路」の碑を娘にも協力してもらって探したら、見つけました。こちらです)
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こちらも8月に来たときに撮った芭蕉句碑。(ちょっと指が入ってしまいました)
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「送られつ送りつ果ては木曽の穐」


この句は、先ほど紹介した「木曽路はきょうも」の2番に引用されています。

木曽路はきょうも」
(2)
梢はるかに緑をかさね
木曽路はきょうも木の香り
陽ざしこぼれて 峠は午(ひる)よ
送り送られ またひとり
旅のうれいも はれてくる


【落合の石畳】

14:03 落合の石畳入り口 謎の看板
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石畳は雨で滑りそう。
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14:05 石畳ではない道を行きました。
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14:07 石畳出口の看板で、さっき見た謎の看板の内容がわかりました。
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案内板
「 定

この道、石畳
遊歩道につき
○単車進入
せざる事

平成十七年十月
中津川観光協会

平成17年の看板があんなに薄れちゃうんだなあ。

平成17年に越県の市町村合併があったんですね。


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案内板
「 落合石畳遊歩道(全長120m)

平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により、新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。
この場所から、旧長野県境までの約120m 間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備いたしました。
(この事業は、岐阜県からの補助金を受けて整備したものです。)
平成17年10月
中津川市

パスしてしまった石畳を、下側から見上げました。
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8月に娘と木曽路を歩いたときは、この石畳を歩きました。
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【石畳と、中山道大案内板と、なんじゃもんじゃの杜】

その先も石畳。滑らなくて歩きやすい石畳でした。
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14:09 中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業
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横長い案内板で1枚の写真では収まらず、3枚に分けて撮りました。その内の、真ん中の1枚。

案内板
中山道

中山道江戸幕府が管轄する基幹道路であった五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都・大阪を結ぶ最も重要な道路で、 その距離は江戸の日本橋から京都三条大橋まで、百三十五里二十四町八間(約532km)ありました。
この道は中部山岳地帯を通り難所が多い一方で、川留めになる河川も少なく渡海の難もないため、姫宮の通行のほとんどが中山道を利用していました。
また、中山道には、参勤交代や西国諸大名を支配するための『政治の道』、江戸と上方を結び、物流や情報が行き交う『経済の道』、絵画や俳諧などを育み街道文化が華やいだ『文化の道』など、さまざまな側面がありました。


中津川市内の中山道

市内には約20kmの中山道が東西に延び、江戸から数えて四十三番目の馬籠、四十四番目の落合、四十五番目の中津川の三つの宿場町がありました。中山道六十七宿の全てが整備されたのは17世紀の終わり頃とされていますが、市内の宿場はそれぞれ新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

馬籠宿

木曽十一宿の最南端に位置する馬籠宿は、町並みが三町三十三間(約386m)ある中山道内でも珍しい傾斜地に設置された宿場町です。度重なります火災のため、往時の建物はほとんど遺っていませんが、道筋や建物の建つ地割は当時と変わっていません。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は、その遺構や隠居所が岐阜県史跡に指定されています。

落合宿

落合宿は信濃国から美濃国に入る最初の宿場町で、宿の長さは三町三十五間(約390m)、宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約七十戸ほどでした。
新茶屋から落合の石畳を経た落合宿までの道筋(約2475m)と、新茶屋の一里塚、落合の常夜燈、代々井口家が当主を務めた落合宿本陣は、国史跡『中山道』の構成要素となっています。

中津川宿

中津川宿の町並みは約十町七間(約1.1km)、戸数百七十五戸、人数は九百八十人でした。
宿内は、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、問屋がある本町と、商家が多い新町とに分かれていました。
皇女和宮が降嫁のために江戸へ向かう際に、中津川宿本陣に宿泊しました。また、幕末に桂小五郎などにより長州藩尊皇攘夷へ方針転換した『中津川会議』の舞台でもあります。


歴史の道整備事業

中津川市は昭和六十三年から平成七年度にかけて文化庁岐阜県の補助を受けて、歴史の道・中山道の整備を行いました。
江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県境からの約1kmを整備対象区間とし、道全体の整備としては石畳の敷設を行い、遺跡の整備としては道の両側に残っていた『新茶屋の一里塚』の修復、また、『休憩所』一基を活用施設として設置しました。
従来から、『中山道落合の石畳』として保存されていた石畳(三ヶ所、延長七十、八m)をつなぎながら復元した約八百四十mの道は、周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の二つの雰囲気をもっています。 」

14:10 なんじゃもんじゃの杜
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案内板
なんじゃもんじゃの杜

・本名をひとつばたごといい、
古世代の依存木である。
・五月中旬頃の開花で、満開時は
樹上が真白になり雪積もった
ような景観を醸す。
・この杜は昭和五十一年落合老人
クラブが植樹したものである。

落合まちづくり推進協議会 」


ヒトツバタゴ wikipediaより

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ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子、Chionanthus retusus)とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名がある。

なお、別名はナンジャモンジャノキであるが、「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種には、ヒトツバタゴのほかにクスノキ(樟)、ニレ(楡)、イヌザクラ(犬桜)、ボダイジュ(菩提樹)などがあり注意を要する。

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この辺りが十国峠かな?
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14:15 十国峠 山のうさぎ茶屋
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「山のうさぎ茶屋」の看板が掲げられた小屋がありました。「出羽三山神社修験道羽黒派」の標柱もあります。
なぜか、 「中乗り新三」と添え書きされた股 旅姿の絵もあります。

茶屋と書いてありますが、営業はしていないようです。

「中乗り新三」を調べてみました。

旅芝居の専門誌「KANGEKI」より

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仲乗り新三
なかのりしんざ
木曾路を旅する渡世人で、股旅物のヒーローの一人です。「仲乗り(中乗り)」とは、切り倒した木材を筏にして天竜川を下る仕事で、木曽節という民謡にも謡われています。

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【鐘鋳り場跡と山中薬師】

14:18 落合の石畳案内板
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案内板
国史跡 中山道 
平成22年2月22日追加指定
落合の石畳

 この石畳 は、中山道落合宿 と馬籠宿 の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷き並べたものです。

 石畳がいつ頃に敷かれたのかは不明ですが『中山道宿村大概帳』には『馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7キロメートル)、道幅2間から3間、尾州より普請』とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間中山道の維持管理を行っていたことがわかります。

 石畳の構造としては石畳の道幅約4メートルで、1平方メートルあたりに自然のままの濃飛流紋岩が4~6個使われています。石材の形や大きさはまちまちで一定ではないですが、石畳の両側端に石材の直線的な面を外側に並べ、一直線になるように配置されています。

石畳の長さは約840メートルで、その間3ヶ所(径70.8メートル)の、石畳は往時のまま現存しています。その周辺の石畳についても昭和63年度~平成7年度『歴史の道路整備事業』にて修復がされ、中山道の風情を偲ぶことができる場所となっています。
中津川市教育委員会

箱根の石畳よりも、滑らないし歩きやすいです。

14:18 鐘鋳りの場跡(奥に馬頭観音)
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案内板
「 鐘鋳り場跡

 宝永2年(1705)医王寺の梵鐘を鋳造した所から、このあたりは「かねいりば」とか「かねば」と呼ばれている。 」

石畳が終わり、写真のような里の道、といった風情の道を行きます。
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14:28 山中薬師
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案内板
「 山中薬師
浄土宗瑠璃山 医王寺

當山はもと天台宗名刹として栄えたが戦国時代に兵乱にあい法燈は一時中絶したが天文十三年(1544)正誉存徹が再興し浄土宗に転じたという。本尊は薬師如来 で名僧行基 の作と伝えられる。
 又奈良時代聖武天皇 の御代諸国に疫病が流行したので勅命をうけた行基が各地を巡り薬師如来を刻んで安置し病気の治療法を伝授したと伝えられ之医王寺もその一つであると云い三河の国の鳳来寺可児郡御嵩の蟹薬師(願興寺)と並んで三大薬師 の一つである。寺内には薬師如来のほか多くの仏像があり、さらに民間信仰の庚申等安置され往時の信仰の盛大さを物語っている。又医王寺は山中薬師とも呼ばれ古来より子供の虫封じの薬師として名高く人足が絶えない。境内には枝垂れ桜があり、(原木は樹齢三百年の大きなしだれ桜であったが昭和三十四年(1929)の伊勢湾台風で倒れたので今の木が二代目となる)毎年季節になると風雅な花を咲かせ街道を歩く人々の心をなごませたとされる。尚之木は木曽義仲 が京に上る途次手にした桜の枝を逆さに刺したものが根づいたと伝えられている。尚境内泉水のほとりに「梅が香にのっと日の出の山路かな」の芭蕉 の句碑があり、弟子を連れ馬の背にゆられて急峻な木曽路の山峡をどんな思いで旅を続けたのであろう。
落合宿 は中山道の一宿であるから大名や高貴な女性などの通行が多かった特に京都から江戸の将軍家に嫁入る場合等は東海道をさけて中山道を経由した 又善光寺詣りや御嶽講の連中などここから木曽路へ入る人々が旅の安全を祈願しに立ち寄った際には之山中薬師で家内安全 道中無事 無病息災を祈って旅立っていった。 」


【狐こうやく】

山中薬師の案内板の後半
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案内板(後半)
「 又落合宿名物『狐膏薬』は薬師如来の夢のお告げで作られたと伝えられ、當時の看板―

御夢想 狐かうやく 十国峠 医王寺

も残っている。

十返舎一九の木曽街道続膝栗毛六編下巻に
『サア サアお買いなさってござりませ當所の名宝〔狐膏薬〕は道中のお足の痛み、金瘡、切疵、ねぶと はれもの
ところきらわずひとつけにてなおる事うけあい、他に又
〔すいがうやく〕のすいよせる事は金持の金銀をすいよせ、ほれた女中方をもびたびたとすいよせる事奇妙希代おたしなみにお買いなされ』と膏薬の効能をはやしたてて売ったと狐膏薬について書かれている。 」


金瘡=刀、槍など、金属でできた傷
切疵=切り傷
ねぶと= もも・尻など、脂肪の多い部分に多くできるはれもの。化膿 (かのう) して痛む。かたね。(goo辞書より)

enasan-netより

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ズイトンさんのきつねこうやく
 むかし、山中の医王寺に、ズイトンさんというおしょうさんが住んでおったそうな。とても気のいいおしょうさんで、村の人たちはもとより、うら山のきつねやたぬきにも、ズイトンさん、ズイトンさんと大へんしたわれておったと。
 さて、きょうも朝のおつとめをすませたズイトンさんは、庭そうじをやっておった。ズイトンさんも年での、このところ、かがんでいると腰が痛いので、ゆっくりとていねいに庭をはいておったそうな。すると、本堂のうらの方から何やら苦しそうな鳴き声が聞こえてきた。
「キューン、キューン」
 はて、いったいどうしたのだろう。うら手へまわってみると、その声はやぶの中から聞こえてくる。ズイトンさんがやぶをかきわけ行ってみると、何と、一匹のきつねがいかにも苦しそうにうなっていた。
「おおよしよし、どうした、どうした。」
 きつねをそっとだきあげてみると、足に大きなとげがささっているではないか。
「こんなに血が出て、痛かったろうに。」
といいながら、ズイトンさんはその大きなとげをぬいてやった。
「さあ、もうだいじょうぶ。」
 そういうと、きつねは、うれしそうにズイトンさんの顔を見ておったが、やがて、びっこをひきひき山の中へ消えていったそうな。
 この山中の医王寺は、落合と馬籠を結ぶ十曲峠の途中にあって、大へん淋しいところでの、昼間でもきつねやたぬきをよく見かけたそうな。だから、夜なんぞはまさに動物の世界。お寺がまるで動物たちの集会所のようなものでの、いつもちょうどズイトンさんが床に入る頃になると、動物たちがやってきて、
「ズイトン、ズイトン」
と、大合唱になったそうな。
 なに、ズイトンというのはの、庫裏の戸にしっぽをつけて「ズイッ」とこすってから、「トン」とたたくと、「ズイトン」と聞こえるっちゅうわけさ。
 ズイトンさんを呼びだしていっしょに遊ぶつもりやったかしらんが、なにしろ夜中のこと、そんなわけにはいかん。ズイトンさんも初めのうちはなかなか寝つけず困っておったが、そのうち慣れてしまってな、きつねどもがいくらさわいでも、平気で眠れるようになったと。
 さて、ある晩のこと。その日は、夕方近くからゴトゴトと戸をきしませる風が吹いていた。もう秋が近いのか、すきま風が肌寒く感じられての、ズイトンさんは何となく寝つけなかった。きつねのさわぐのには慣れっこになっていたのに、雨戸のきしむ音が気になって、うつらうつらしておったと。
 そのうちに、ズイトンさんは、はっとした。雨戸の音がさっきとはちがう。耳をすますと、
「トン、トン、トン」
と、玄関の戸をたたく音がする。
 これは、いつも私が相手にならんからいたずらがひどくなったのか、と思ったズイトンさんは、ふとんを頭からひっかぶった。けれども、
「トン、トン、トン、ズイトン、ズイトン」
と、まだ聞こえるんやと。
 うるさくなったズイトンさんは、しかたなく起きて玄関へいき、戸を開けてみた。すると、まあ、この間のきつねが、ちょこんとすわっておったと。
「どうしたんだ、こんな風の晩に。」
 びっくりして聞くと、
「おしょうさん、この間はどうもありがとうございました。おかげで傷はすっかりなおりました。お礼に、よく効くこうやくの作り方を教えてあげましょう。おしょうさんは、腰が痛くて困っているのでしょう。」
といっての、ズイトンさんにこうやくの作り方をくり返しくり返し、ていねいに教えてくれたと。
「まず、マムシグサの根っこの、まあるいやつをすりつぶす。そこへオオバコのたねとキツネノマゴの葉をすりつぶして混ぜる。次はモーチを入れてよくねり合わせる。それと油を、布きれにぬりつけて、痛いところにはれば、たちどころに痛みがとれます。」
 ズイトンさんは、きつねの話を聞いているうちに、汗びっしょりになっていたそうな。いつのまにか、床の中で、こう薬の作り方を何回もくり返していっておったと。ズイトンさんがこう薬の作り方を一口いうと、きつねがまくらもとでうなずくというふうに、くり返しくり返しして、とうとうこう薬の作り方を覚えてしまった。
 と、急に部屋の中が明るくなったので、ズイトンさんは、はっと目をさました。あたりを見まわしたが、きつねの姿はどこにもなく、体じゅうがべっとりと汗ばんでおったと。もう、夜が明けていたそうな。
「夢だったのか。」
 でも、こう薬の作り方をはっきり覚えておる。ズイトンさんは、すぐに起きて、きつねの教えてくれたものを集めてきた。そして、ならった通りにしてこう薬を作っての、さっそく自分の腰にはってみると、腰痛がうそみたいにすっとなおってしまったと。
 よろこんだズイトンさんは、さっそく山門に『御夢想 狐こうやく』と看板をあげ、狐の絵もそこへほりこんだと。
 これが、大へんよく効くと大評判になっての、村の人はもちろん、旅人から伝え聞いて遠くからわざわざ買いにくる人が絶えなんだそうな。

文・笠木 由紀子
絵・高橋  錦子


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【落合橋から】

下り坂
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14:31 町の展望。
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眼下に町を見下ろすと、この先ずっと下り坂のイメージ。しかし、、、、

脳裏に、「確か落合は上り坂が凄かった記憶が…」

14:35 落合川 落合橋からの景色 滝がきれい。
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【石仏石塔群など】

14:36 石仏石塔群
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14:37 落合橋の付替えと落合橋 案内板
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案内板
「 歴史の道 中山道

中山道の付替と落合大橋

 落合川にかかる下桁橋は、江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあったといわれています。
 この橋が洪水により度々流失していたこと、またこの橋から医王寺までの登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりました。
 しかしこの道も悪路で、今までより約一・八㎞も遠回りになったことから、明和八年(1771)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。
 この時につづら折れの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって緩やかに登る道に付替られました。
中津川市教育委員会

14:39 木杭の道標
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二度目の中山道19日目の7(落合宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/11/075111

二度目の中山道歩き19日目の5(馬籠宿)

二度目の中山道19日目の5
1月7日(火)の5


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【馬籠宿高札場跡】

どなたかのお宅の畑の中の道のようなところにやって来て、左の方に行ったら高札場がありました。

12:49 高札場跡
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12:51 馬籠宿
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妻籠からやって来ると、下り坂の回りに建物が続く馬籠宿です。


【すんき蕎麦】

12:51 中井筒屋
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お蕎麦やさんみたいです。店頭の手書き立て看板の「すんき蕎麦」が気になったのて、入ることにしました。

木曽馬籠 お食事処 中井筒屋ホームページより

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◆お店より一言
  自家製二八蕎麦の店
春は山菜、夏は自採り野菜、秋冬は新蕎麦が味わえます。
ごまとくるみの風味豊かな五平餅もぜひどうぞ。
店主
■価格
・山菜そば  800円
・ざるそば  800円
・山かけそば 900円
・五平餅   300円(3本)
            
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案内書き
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冬季限定メニュー

木曽名物

すんき蕎麦
『すんき』は木曽地方の保存食で
塩を使わずに赤かぶの葉を乳酸発酵
させた酸味の強い漬物です。
八〇〇円 」


すんきそば JAPAN WEB MAGAZINEより

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乳酸発酵のお漬物が入ったお蕎麦
中山道の通る木曽地方に古くから伝わる漬物が「すんき漬」。地元では「スンキ菜」とも呼ばれるカブ菜(赤カブ)の葉を塩を使わずに乳酸発酵させた、日本の伝統的発酵食品の中でも珍しいタイプのお漬物で、乳酸発酵ならではの柔らかくて深みのある酸味としゃきしゃきっとした食感が特徴の漬物だ。

食物繊維が豊富な上、塩を使用しないので健康にもよく、また、ヨーグルトに匹敵するほどの乳酸菌がいるともいわれるすんき漬けは、その植物性乳酸菌の抗アレルギー作用等で、花粉症などのアレルギー症状の軽減やピロリ菌の生育抑制に効果が期待されるともいわれる優れた食品。他のお漬物と同様、ご飯と共に頂いたり、お茶うけにしたりするが、漬ける際に塩を使わないので、食べるときには適当な大きさに切ってから好みにより鰹節を振って、醤油をかけるのがポピュラーな食べ方。そのほか、刻んでみそ汁に入れたり、炒めものに加えたり、様々な調理法で食べられる。

そんな「すんき漬け」を温かいそばの上に乗せたものが、すんきそば。そばつゆの出汁の美味さと、そばの旨味、すんき漬けの酸味と旨味が絶妙に絡み合った、木曽の冬の美味なる味わいだ。

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13:03 すんき蕎麦 800円がテーブルに運ばれてきました。
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「すんき漬け」一面の海!蕎麦とすんき漬けを絡ませながら食べていたのに、蕎麦を食べきってからも、大量のすんき漬けがまだまだぷかぷか浮いています。スプーンとか蓮華もないので、箸でちびちび摘まんで食べたいたら、お蕎麦っていつも、量的にちょっと物足りないイメージなのに、ちびちび食いがよかったみたいで、お腹がいっぱいになりました。

五平もち、3本で300円かあ。一本で100円だったら食べたかったなあ。

日が差していたので、雨具を脱いでリュックに入れました。
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【歌の好きな石臼】

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以前にも書きましたが、妻籠の町並みはわりとなだらかで、馬籠は坂の町。
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13:17 歌の好きな石臼
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案内板
「 歌の好きな石臼 藤村童話『ふるさと』より

石臼くらゐ唄の好きなものは有りません。石臼くらゐ、又、居眠りの好きなものも有りません。
冬の夜長に、粉挽き唄の一つも歌ってやって御覧なさい。唄の好きな石臼は夢中になって、いくら挽いても草臥れるといふことを知りません。ごろヽヽごろヽヽ石臼が言ふのは、あれは好い心持だからです。もっともっと、と歌を催促して居るのです。
そのかはり、すこしでも手でもゆるめてやって御覧なさい。居眠りの好きな石臼は何時の間にか動かなくなって居ます。そして何時までゞも居眠りをして居ます。
父さんのお家の石臼は、青豆を挽くのが自慢でした。それを黄粉にして、家中のものにご馳走するのが自慢でした。山家(やまが)育ちの石臼は、爐邊(いろり)で夜業(よなべ)をするのが好きで、皹(ひび)や『あかぎれ』の切れた手も厭はずに働くものゝ好いお友達でした。 」

この「歌の好きな石臼」の看板が掛かっていたのは、「ふるさとの家」という建物で、石臼ではなく、木をくり貫いた椅子が並んでいました。
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脇本陣山口誓子句碑、木曽の五木】

13:18 馬籠脇本陣史料館
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案内板
「 馬籠脇本陣史料館

馬籠脇本陣史料館は、最高位の者が使用した部屋を復元するとともに、使用した道具や被服類を通じて、江戸期における上流社会の文化を紹介しています。 」

13:18 山口誓子の句碑
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山口誓子の句碑 馬籠観光協会オフィシャルサイトより

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馬籠のほば中央にある馬籠脇本陣史料館の前に、山口誓子の“荷道の坂に熟柿灯を点す 誓子”の句碑がある。誓子は生前馬籠をこよなく愛し、しばしば奥さんの波津女さんと共に馬籠を来訪し多くの作品を発表した。
 この碑は、昭和57年12月、明治書院から発刊の「山口誓子全集」の完結を記念して流域俳句会によって建立されたもので、文字は山口誓子自身の筆になるもの。

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13:18 木曽の五木
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案内板
「 木曽の五木(ごぼく)

宝永五年(一七〇八)五月、尾張藩は木蘇の住民たちがひのき・さわら・こうやまき・あすなろ・ねずこの五種類の木を伐採することを禁じ掟を破る者は死罪にした。
『木一本首一つ、枝を落せば腕を斬る』として怖れられると供に、山を失った村人の経済は音をたてて崩れていった。 」

案内板
「 木曽の五木
こうやまき

科目 すぎ科
特徴 耐湿に富み木肌が美しく、
芳香に富む。
用途 風呂桶、建築材、舟材 」

「 木曽の五木
さわら

科目 ひのき科
特徴 水に強い。材質が均等で
加工しやすい。柔らか。
用途 桶、盥、手桶、屋根材、
曲げ物 」

「 木曽の五木
ひのき

科目 ひのき科
特徴 材質が緻密で狂いがない。
耐久性、色調、芳香性に富む。
用途 建築材、家具材、船舶 」

「 木曽の五木
あすなろ
(明日檜〔あすひ〕ともいいます)

科目 ひのき科
特徴 材質は均等だが、ひのきに
おとる。
ひのきに比べて成長が早い。
用途 建築材、家具材 」

「 木曽の五木
ねずこ

科目 ひのき科
特徴 軽量で耐湿、木目が細かく
軽い。
用途 造作材、下駄、家具材 」


【本陣跡 島崎藤村記念館】

13:20 大黒屋
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大黒屋

gifureki.comより

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大黒屋(馬籠宿)概要: 大黒屋は岐阜県中津川市馬籠に位置しています。大黒屋は造り酒屋を営んでいた家柄で、馬籠宿の問屋や年寄役なども勤めていました。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣島崎家とも関係が深く、本陣最後の当主島崎正樹が東京に出てくる際、家財道具を大黒屋に売り渡したと云われています。大黒屋の幕末から明治初期の当主である大脇兵衛門信興は文政3年(1826)から明治3年(1870)まで44年間(記事数:4万2千2百余件)、「年内諸事日記帳」を書留、これが当時の馬籠宿や周辺の宿場町の様子を伝える資料として、屋号から「大黒屋日記」と呼ばれるようになりました。島崎藤村の小説「夜明け前」は「大黒屋日記」に大きな影響を受け、又、藤村の初恋の人とされるおゆうさんの実家が大黒屋でもあった為、「夜明け前」では伏見屋として登場しています。

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この大黒屋が、現在は栗おこわが美味しい茶房を営んでいます。


大黒屋茶房 「ぐるなび」より

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江戸時代から木曽路を行きかう旅人が賞味した栗こわめし。厳選した栗を使用し昔ながらの調理方法が好評

馬籠宿の中央、旧馬籠本陣跡に藤村記念館があります。その隣に位置するのが、文豪の作品ともゆかりの深い大黒屋です。重厚な伝統建築は馬籠宿を象徴する佇まいで、母屋軒先にかかる杉玉は江戸時代から造り酒屋を生業としたシンボルです。ひとたび店内に入れば和モダンで粋な雰囲気。食事茶房コーナーの奥には、工芸品、和小物を中心に展示したギャラリーが開設されています。

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13:20 馬籠宿本陣跡 島崎藤村記念館
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馬籠宿のオフィシャルサイトより

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藤村記念館 資料館

昭和 22年2月17日の藤村誕生日に馬籠の壮青年を中心とした同志の人々が菊地重三郎氏を核にふるさと友の会を結成。同年11月15日この人たちにより落成式。数多くの資料が収蔵されています。馬籠宿の真中に位置しシンボル的存在です。馬籠に来たら必ず見てください。 江戸時代には、本陣・問屋・庄屋を兼ねた旧家です。
本陣は、近世宿駅に設けられた、諸大名の参勤交代、幕府役人、公家衆の通行に備えた宿屋で、その宿の草分け的な名家が選ばれました。
藤村記念館の中庭では本陣の礎石、土蔵の跡に往時の俤を偲ぶことができます。記念館の裏手には島崎家の菩提寺永昌寺の森が見えます。そこには藤村の遺髪・遺爪とともに冬子夫人、夭逝した三人の娘たちが眠ります。
日本文学史に大きな業績を残した文学者としてのみでなく、一人の人間として真摯に生きた島崎藤村を後世に伝えていくことがふるさとの人々の願いです。


【入館料】大人550円 小人(小学生・中学生)100円 ※団体割引あり
【休館日】12月~2月の毎週水曜日

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13:21 木へんの漢字が並ぶ暖簾
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木へんの暖簾(山城屋=ひのきのまな板、桶などを売る店)

椋(むく)

「榀の木」 =シナノキ
木へんに品(こまい=シナベニヤ)

柫(ぶつ) ムクロジ?連枷(からざお= 唐棹は日本の農具の一種で、麦や大豆など、穀物脱穀作業に使用する道具。)

楢(なら)・槇(まき)・栃(とち)・栓(せん) 﨔 (けやき)=欅 ・檜(ひのき)・椹(さわら)
木へんに猟のつくりの字=「𣜌」の 略字
「𣜌」は、くろべ、ねずこ
栂(つが)・槐(えんじゅ)・樿(つげ)
框(かまち)・楓(かえで)


13:22 馬籠郵便局
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【清水屋資料館と枡形】

13:24 清水屋資料館
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案内板
「 木曽馬籠
清水屋資料館

清水屋は島崎藤村の作品『嵐』に出てくる『森さん』(原一平)の家です。この清水屋には、藤村の書簡、掛軸、写眞などをはじめ江戸時代に宿場として栄えたころより文書、書画(尾形光琳、土佐光則、富岡鉄斎)、久谷、伊万里唐津などの陶磁器、輪島の漆器類をはじめ、宿場『馬籠』の生活文化史ともいえる数々の遺品が二階の資料館に展示してあります。
機械文明の流れの中にある今日、遠い昔のわたくし達の先祖が残してくれた素朴なふるさとの心に深い郷愁を感じます。
馬籠を訪れた思い出に
お立ち寄りください。 」


今回はパスしましたが、入館料は大人200円だそうです。

13:26 枡形
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枡形の坂の途中にある水車。馬籠と言えば、この水車を思い出します。
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坂の下から、枡形の坂を振り返る。
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阿弥陀堂白木屋


13:27 阿弥陀堂
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京都大原三千院ゆかりの阿弥陀堂、と石碑に書かれていますが、詳しいことは分かりませんでした。

13:28 道祖神?新しいものかも。棒付きのキャンディーが備えられているのが可愛い。
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13:29 白木屋
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白木屋 案内板
「 五平もち

木曽谷に生まれ、人情に育まれた『五平もち』丹念に、愛情をこめて炊き上げたごはんをつぶし、丸く握り3個ずつ串にさし各家独特の『胡桃醤油(クルミエゴマ醤油)味』を醸しだし、これを木曽地方では古くから伝る爐の火で焼いてお客様をもてなしました。
一度御賞味下さいませ。
(店主) 」

白木屋の窓辺の、看板猫?
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13:30 バス待合所、土産物店前のベンチで雨具を着る。


二度目の中山道19日目の6(馬籠宿から落合宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/10/204509