紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

金沢市 野蛟神社(ぬづちじんじゃ)

j-sampo.comより

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野蛟神社(ぬづちじんじゃ)は、天平3年(731)に創立と言われる古社。御祭神は高皇産靈神、猿田彦神事代主命、野椎神。加賀郡延喜式内社野蛟神社の比定社。
神社の云われについて、「当時神谷内を中心とした付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡くなる人がでた。そうした時白髪の老人が現れ、『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜよう。』と言うので、住民は老人の教える通りに行った処、不思議にも病気が治ってしまった。この老人は『ヌヅチの神である、永く祭祀(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し“龍(アマレリ)”に乗って天上雲間に消えた。そこで住民は、その地に神社を創立して祀ったのが起りである」と伝えられている。
さて、ヌヅチとは何か?「蛟」は「みつち」と呼び、龍や蛇のような水神を指すようだ。当地が水に恵まれた地である証であろう。

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金沢市 尾崎神社

 

案内板

「   

   尾崎神社

当神社は天照大神東照大権現(德川家康)、第三代加賀藩主前田利常を祀る。寛永二〇年 (一六四三)、東照大権現を祀ることを許された みったか 四代藩主光高が、金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立。

徳川家葵の紋がところどころにちりばめられた 十数棟に及ぶ社殿を誇った神域は、『金沢城の江 戸』『北陸の日光』と呼ばれ崇められた。

明治七年(一八七四)、尾崎神社と改称。
明治一一年(一八七八)、金沢城内に駐留した陸軍省の都合により現在地に移築され、昭和二五年に、 本殿、拝殿及び幣殿、中門、透塀等が重要文化財に指定された。   」

 

 

 

 

 

加賀八家 奥村家屋敷跡

 

案内板

「    加賀八家

     奥村家(宗家)屋敷跡 

奥村家は、前田家が尾張(愛知県) 荒子城にあった頃よりの旧臣です。藩政時代は永福から栄滋まで 14代 を数え、禄高は数回の加増ののち1万7000 石を世襲しました。

加賀・能登越中の要衝、末森城(現宝達志水町)城主だった永福は、天正12年(1584) に隣国富山の佐々 成政の侵攻を死守して主家の危機を防ぐという功績を挙げています。

奥村家邸地は、元和6年(1620) 頃今の兼六園の地に始まり、元禄9年(1696)に石引のこの地に移され明治に至りました。面積は1万坪(約3万3000平方メートル)を越えたとみられます。藩主の子女のお宮参りでは、卯辰観音院の帰りこの奥村邸へ立ち寄ることが慣例化していました。 道路沿いに残る土塀は、加賀八家上屋敷跡で唯一現存する建造物で、金沢市指定文化財「奥村家(宗家)上屋敷跡土塀」として保護されています。   」

 

 

 

 

願念寺

 

案内板
「  松尾芭蕉。小杉一笑ゆかりの寺

         願念寺

         野町一丁目三の八二

  蕉門の俳人・小杉一笑の菩提寺

  境内に一笑塚がある。

 また、元禄二年(一六八九年)『おくの細道』で来遊した松尾芭蕉が一笑の追悼 会に出席し、その死を悼み詠んだ 『つかもうごけ我泣く声は秋の風』 の句碑もある。

 一笑が埋葬されていると思われる小杉家の墓は、施主茶屋新七、天明七年(一七八七年)と刻まれ本堂前にある。(小杉家は藩政期茶舗を営んでいた。)

     金沢市観光協会金沢市  」

本長寺 芭蕉句碑

案内板
「   芭蕉句碑

『春もやや 気色ととのふ 月と梅』

元禄6(1693)年1月中旬、許六(注1)の江戸旅亭(井伊藩邸の 中にあった)で描いた俳画の画賛。

許六の『旅館日記』では『梅月』と題されている。この梅が紅梅 である事は『紅梅の画賛也』 とある 『続猿養』 他に収められている 事からわかる。

当山との関連は不明だが、金沢の門弟北枝(注2)の逝去と関係 があるとみられる。

,大正四年建立、自然石に流麗な筆致で刻まれていたが、風化 して剥落が激しく近年文字が読めなくなって来た為、昭和57年 花崗岩の石板に刻み直し埋め込んだ。歌人黒田桜園筆。

注1 森川許六(1656~1715)本名百仲、通称五介。彦根藩士。 芭蕉十哲の一人で六芸に通じ屈指の論客。絵では芭蕉の師。 『統旅養集卷之下 春の部 梅附柳』

注2 立花北枝(?~1718)研屋源四郎。金沢の刀研師。

芭蕉十哲の一人で北陸蕉門の重鎮。『奥の細道』紀行中の 芭蕉を金沢に迎え、兄牧童と入門。体調を崩し芭蕉に同行 できなくなった良に代わって越前松岡まで送っている。 『山中間答』『卯辰集』など    」

 

 

 

 

 

 

 

黒門前緑緑地 旧高峰家

 

 

案内板
「 黑門前緑地〈旧高峰家·旧検事正官舎〉

この黒門前緑地は、平成七年(一九九五)まで、金沢地方検察庁検事 正官舎の敷地であったが、平成十三年(二〇〇一)、官舎の一部とその 土塀を廻らす屋敷構えを保存するとともに、金沢で育ち、アドレナリンや タカジアスターゼで有名な世界的化学者、高峰讓吉博士ゆかりの家屋を 移築し、公園として整備したものである。


【旧高峰家】

明治五年(一八七二)、加賀藩御典医であった 讓吉の父、精一(せいいち)が建てた居宅の 一部で、書斎、茶室としても利用された離れに あたる。

当初、この地に近い梅本町(現大手町)の地に 建てられたが、昭和三九年(一九六四)に解体 され、この離れの部分のみが、その後、湯涌町に あった「江戸村」に移築された。この度、旧 建築地の大手町に近い、この地に再び復元、 移築されたものである。

【旧検事正官舎】

明治四三年(一九一○)に兼六園下に建て られたが、路面電車敷設による道路拡幅とともに 大正七年(一九一八)、現在地に移築された。 洋風下見板張りの応接間、格天井(こう てんじょう)の十畳座敷など、当時の「近代 和風建築」の特徴をよく示している。これら 接客に使われたと思われる部屋を保存し、 旧高峰家の離れとあわせて、一般に公開する ものである。

        平成十三年八月

     金沢市都市整備局緑と花の課 」

 

 

 

 

 

金沢くらしの博物館と金沢市立紫錦台中学校

 

金沢くらしの博物館ホームページより


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【三尖塔校舎(国重要文化財「旧石川県第二中学校本館」)】

博物館の建物は、明治32年 (1899) に石川県第二中学校の校舎として建てられました。入り組んだ屋根、玄関の車寄せ、上げ下げ窓、胴蛇腹、ランプ吊りなど、明治時代の西洋風木造学校建築を今に残した貴重な建物です。 

左右両翼の尖塔、そして正面玄関の上にある屋根を尖塔に見立て、金沢二中時代から 「三尖塔校舎」 と広く呼ば れてきました。

学校時代には講堂などの建物が多数ありましたが、現在は本館のみが残されています。昭和49年 (1974) に金沢 市の文化財に指定され、平成11年(1999) に石川県有形文化財の指定を受けています。

平成27年に創建当初の図面が見つかり、それまで不明であった設計者が当時石川県工師の山口孝吉であることが 判明しました。また、創建当初の姿をよく残していることが分かり、歴史的価値が評価されて平成29年11月28日に 「旧石川県第二中学校本館」 として国重要文化財の指定を受けました。

(中略)


【金沢二中】

石川県第二中学校は明治32年 (1899) 4月に創立されましたが、当初は兼六園内にあった県勧業博物館を校舎と していました。同年9月に三尖塔校舎が完成し、授業が行われました。当時は本館、そして便所などが渡り廊下でつ ながれていましたが、200名以上の生徒を収容するには不十分でした。明治35年(1902) に階段教室や生徒控所が 完成し、さらに講堂などが次々と作られていきました。

戦後の学制改革で旧制中学校 (5年制) は廃止になり、新制高校 (3年制) に引き継がれることに
なりました。このため、昭和23年 (1948) 3月をもって、二中は廃校となりました。後継校の錦丘高校が創立され たのは昭和38年 (1963) で、二中の校歌の 「紫錦が陵 (にしきがおか)の学窓に」 から校名がつけられました。

なお、残された校舎は昭和23年4月から昭和45年 (1970) まで金沢市立紫錦台 (しきんだい) 中学校の校舎とし て活用されました。このため、三尖塔校舎は今も紫錦台中の敷地内にあり、校門を入った正面に立地しています。

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昭和45年(1970)に新校舎が三尖塔校舎の裏手に完成し、中学校の校舎は新校舎に移転し、残された三尖塔校舎は金沢くらしの博物館に活用されることになり、金沢市立紫錦台中学校の正門を入ったところが金沢くらしの博物館であるため、私のように初めて来た人は、どうなっているのだろう、と不思議に思うのです。

大阪の池田小事件以来、小中学校の門は閉ざされて関係者以外立入禁止になっていることが多いのに、ここは門が大きく開けられているので、おや?と思ってしまいます。

 

 

 

 

 

国史跡辰巳用水

 

案内板
「辰巳用水は、江戸時代初めに金沢城の水利改善を主な目的として築造された、延長約11kmに及ぶ 用水です。築造にあたっては、小松の町人であった 板屋兵四郎が登用されたと伝えられています。

上流部は岩盤をくりぬいた隧道となっており、 よこ 壁面には多くの横穴があります。横穴は、隧道内の 出入りや土砂の搬出、採光、換気に使われました。

また、横穴により工区を分割することで、 短縮を実現させました。

下流部では、兼六園から首簡堀で隔てられた 金沢城へ水を送るため、『伏越(せこし)の理(ことわり)』 (逆サイフォン の原理) を利用していました。

辰巳用水は、江戸時代の優れた土木技術を知る うえで非常に重要な用水です。  」

 

 

金沢市 上野八幡神社

 

案内板

「   上野八幡神社

Uenohachimanjinja Shrine

約四百年間の神仏混淆の時代、医王寺と呼ばれていた。

天正年間(一五七三~九二)、能州石動山天平寺の僧・ 空山が後の加賀藩初代藩主・前田利家に内通し、石動 山の麓に建立したと伝えられる。 天正十二年(一五八四)、利家が金沢に移転した後、 文禄二年(一五九三)、金沢の山崎郷(小立野白山町)に 移転した。

享保十六年(一七三一)、現在地に遷座し、明治五年 (一八七仁)、村社となる。また、境内には芭蕉句碑が ある。

ご神体は三十三年に一度ご開帳になるが、御輿は、 年男によって担がれ、市中を練り歩く。 秋まつりには、氏子らが踊りながら餅の曲づきし 秋の実りに感謝する餅つき踊りが奉納される。この 餅つき踊りは、現在金沢市無形文化財に指定されている。     」

 

 

 

一日一句 178

 

2023年6月

 

6/1
ダンス練お互ひ見せ合ふ六月や

6/2
六月の嵐傘ごと飛ばされそう

6/3
朝嵐帰りは爽やか初夏の晴れ

6/4
しっかりと歯みがき虫歯予防デー

6/5
開くと寒く閉めると暑い初夏の窓

6/6
三姫でミッションクリア六月や

6/7
ウッディーと追ひ駆けっこする薄暑かな

6/8
初夏の夜道具と仲良くなる稽古

6/9
種を越えて愛を貫く初夏映画

6/10
エレベーター開いて閉まって初夏の日や

6/11
六月の薔薇気品高きフェルゼン伯爵

6/12
梅の実を運ぶを手伝ふ帰り道

6/13
梅雨舞台「愛してるって言ってみろ」

6/14
草刈りの音と匂ひや梅雨の朝

一日中映画三昧梅雨のオフ

6/15
レッスン休みで動画見る梅雨のオフ

6/16
ワクワクと悲しさの映画梅雨晴れ間

6/17
生きる希望オルテンシア(紫陽花)は咲き続ける

6/18
ヴォイトレの会話も楽しい梅雨晴れ間

6/19
鶴晴れ間空舞ふ君はスパイダーマン

6/20
梅雨晴れ間キティ ダニエルと同じ衣装

6/21
久々にミシン動かす梅雨晴れ間

6/22
手を触れる振り付け復活梅雨の夜

6/23
神木くん初めてのちょんまげ夏至の頃

6/24
兄に起きた事件に動揺梅雨の夜

6/25
駅降りてマスクを外す薄暑かな

6/26
梅雨晴れ間最終回後のオリジナル配信

6/27
梅雨晴れ間映画観ながらホットドッグ

6/28
芭蕉追ひ下野に香るラベンダー

 

雑草の花の愛しさ梅雨曇り

ここはまだ下野に咲く合歓の花

 

6/29
引き上げて引き上げて踊る梅雨晴れ間

6/30
寿司回る水無月晦日の母娘飲み


一日一句179に続く

 

 

 

一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704


一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328

 

 

 

 

陸奥国分寺薬師堂

 

宮城県ホームページより

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指定文化財重要文化財陸奥国分寺薬師堂

陸奥国分寺薬師堂

重要文化財(建造物)

伊達政宗泉州大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。
大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。

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陸奥国分寺跡 芭蕉句碑

 

案内板
「 芭蕉句碑
   (仙台市指定有形文化財 
        昭和五十一年七月一日指定)

『あやめ草足に結ばん草鞋の緒』とある。芭蕉奥の細道の旅の途中、元禄二年(一六八九)五月五日から七日の三日間仙台に滞在したが、その時芭蕉を案内し、翌八日離仙の朝、『紺の染緒つけたる草鞋二足』と餞別の品々を贈り、芭蕉をして『風流のしれ者』と感嘆させた俳人北野加之(画工加右衛門)への感謝の気持ちを詠じた句である。
 この句碑は、天明二年(一七八二)、静岡の俳人山南官鼠が来仙した折に建立したもので、裏面には官鼠自身の句『暮れかねて鴉啼くなり冬木立』と彫られている。

(以下、「望月宋屋句碑」と「大淀三千風供養碑」の説明文 略)     


   平成十二年九月 仙台市教育委員会 」

 

 

 

 

史跡 陸奥国分寺・国分尼寺跡

 

案内板
国分寺国分尼寺の創建は、天平13年(741)に、聖武天皇が仏教によって国を治めていくために、60ヶ国ほどあった国ごとに七重塔を一基造り、僧寺と尼寺を設けるように詔(みことのり)を発したことに始まります?
陸奥国分寺跡は大正11年(1922)に、陸奥国分尼 寺跡は昭和23年(1948)に、国の史跡に指定され ました。
今回は、第一次整備作業として、陸奥国分寺跡の南部を中心として、広場と園路を整備し、寺域の南縁を区画する築地塀・大溝の遺構表示を行い、その南側にガイダンス施設と天平廻廊を作りました。」

 

 

 

 

 

 

つつじが岡天満宮

 

 

案内板
「 正宗が育んだ伊達な文化

つゝじが岡及び天神の御社


『つつじが岡』の一画に位置し、『天神の御社』と『おくのほそ道』 に記された榴岡天満宮の境内には、寛文7年(1667年)建立の 唐門、樹齢が約300年を超えるとされるシダレザクラシラカシの 老樹など、松尾芭蕉が訪れた頃をしのばせる景物が残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てられた数多の句碑もあります。
平成27年3月に国の名勝『おくのほそ道風景地 つゝじが岡及び天神の御社』に指定されました。 」

 

 

 

 

青葉山公園 大手門跡

 

案内板
仙台城大手門は素木造(しらきづくり)二階建、屋根は入母屋造(いりもやづくり)瓦葺である。桁行が 65尺(約19.7m)、側面の梁間(はりま)が22尺3寸(約6.8m)、高さは約12.5m全国的にも最大級の城門であった。正面冠木(かぶき)に菊と桐の金箔押(きんぱくおし)の飾金具をあしらい、棟に鯱(しゃち)を頂いていた。脇櫓(わきやぐら)とともに国宝に指定されていたが、昭和 20年(1945) 7月9日の仙台空襲により焼失した。門の北東の石垣上には『多聞塀(たもんべい)」』と称される桟瓦葺(さんがわらぶき)、漆喰(しっくい)塗の土塀が配されている。この土塀は空襲 で焼け残ったもので、仙台城内に現存する唯一の建築物である。」