紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

松尾芭蕉と相楽等躬

 

須賀川市内あちこちに物語ボックスというものが設置されていました。郷土の偉人を紹介するものらしく、表紙が1枚、物語が4枚、計5枚の紙芝居形式で作られていて、須賀川市公式ホームページによると、市内24ヶ所に設置されています。


私が訪れた軒の栗庭園には、「芭蕉と相楽等躬」が設置されていました。

 

 

 

 

 

 

 

松尾芭蕉七泊八日の旅日記

 

芭蕉七泊八日の旅日記

 

 元禄二年(一六八九)の 春、俳人松尾芭蕉は、門人・河合曽良とともに、 江戸深川から、大垣まで 六百里(约二四〇〇キ口)に亘る「おくのほそ道」の 旅に出ました。

 芭蕉四六歲、曾良四一歳のときです。

  行程のほとんどが未知 の地であり、心許ない旅立ちでしたが、敬慕する 西行や宗祇、義経など先 人の跡を追い、己の俳諧を突き詰めてみたいとい う思いに突き動かされたのでした。

 芭蕉は、みちのくの玄関口、白河の関を越え、途中、阿武隈川を渡り、磐梯山を仰ぎ見ながら、四月二十二日(陽曆六月九日) に須賀川に入り、かつてから親交のあった知人、 相楽等躬宅に草鞋をぬぎ、八日間滞在しました。 

 等躬は、須賀川宿の長であり、問屋業を営んで おり、須賀川俳壇の中心的人物でもありました。 

 当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として経済的、文化的にも繁栄 をきわめており、多くの俳人を輩出し、今もなお、俳諧文化が受け継がれて います。


曾良旅日記による芭蕉八日間の足跡

四月二十二日(陽曆六月九日)

須か川、乍单斎宿、俳有。

 須賀川に入った芭蕉たちは本町の相楽等躬(本名・伊左衛門 )宅に辿り着いた。

 その夜、芭蕉曽良、等躬の三人による三吟歌仙の会をもうけた。芭蕉は、みちのく入りの感慨を込めた「風流の初やおくの田植うた」を詠んでいる。

風流の初やおくの田植うた

 

四月二十三日(陽曆六月十日)

同所滞留。

晚方へ可伸二遊、 

帰ニ寺々八幡ヲ拝。

 夕方に等躬屋敷の一隅に庵を 結ぶ隠遁僧・可伸(俗名、梁井 弥三郎 俳号、栗斎)を訪ね た。

 芭蕉は隠棲する可伸のつまし い生き方に共感を持ち、翌日可 伸の草庵で歌仙の会を催す約束を交わして、帰りに近隣の寺や八幡社などを参拝した。


四月二十四日(陽曆六月十一日)

主ノ田植。昼過ぎより可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。

 この日は、等躬宅の田植の日であった。 昼過ぎより、須賀川俳人たちが芭蕉たちを迎え、可伸の草庵にて七人による歌仙の会がされた。

 この歌仙で、芭蕉は「かくれ 家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠み、この句は後に「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と推敲 される。

 俳席のあと、等雲(吉田祐碩)による蕎麦きりの振る舞い を受けた。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


四月二十五日(陽曆六月十二日)

主物忌、別火。

 二十五日は等躬宅の物忌の日で、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないように 別におこした火を使用するのが習わしだった。


四月二十六日(陽曆六月十三日)

小雨ス。

 小雨模様のこの日は、芭達 は、江戸の杉山杉風宛に旅の状況を認めた書簡を送っている。


四月二十七日(陽曆六月十四日)

曇。

三つ物ども、芹沢ノ滝行。

 二十七日は曇りであった。芭蕉、等躬、曽良による二つの「三つ物」(発句・脇句・第一 旬から成る)『四句』の俳席が もうけられた。その後、芹沢の滝を訪れている。

 

四月二十八日(陽曆六月十五日)

発足の筈定ル。矢内三参良来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅 へ行テ及暮。十念寺諏訪明神へ参詣。朝之内、曇。

 二十八日は出発の日であったが、地元の俳人たちの勧めで、郡山への途次 石河の滝(乙字
ケ滝)に立ち寄ることにした。

 しかし、雨が降り続いていたために水かさが増し、川の徒渡りが難しいことから出立は翌日 に延期された。

 同日、矢内彦三良宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十 念寺、諏訪神社(神炊飯神社)に参詣した。


四月二十九日(陽曆六月十六日)

快晴。

巳中剋、発足。石河滝見二行。

 二十九日は快髄の空のもと、 用意されていた馬にまたがり、等躬宅を後にした。

 途次、「乙の字」の形をなし て雄壮に流れ落ちる乙字ヶ滝(石河の滝)を眺め、郡山へ向かった。


五月雨の滝降りうづむ水かさ哉

 

 

 

 

 

 

 

 

十念寺

 

十念寺(浄土宗)

文禄元年(一五九ニ年)善竜上人の開山で ある。芭蕉が、「奥の細道」の 旅で須賀川に滞在しここの寺 に詣でたことで知られる。政二年須賀川の女流俳人市原 多代女によって、「風流のはじ めや奥の田植唄」の碑が建立されてある。

また、多代女の「終に行く 道はいつこそ花の雲」の辞世 の碑もある。別院の成田山は 節分の豆撒きには善男善女で にぎわう。

なお、東京オリンピックで マラソン第三位となった円谷幸吉の墓がある。

                  須賀川市

 

 

 

 

 

 

神炊館神社 「奥の細道」碑について

    「奥の細道碑」について

「宗祇戾(そうぎもどし)』(柿衛文庫蔵)は、宝暦四(一七五四)年、白河の俳人 和知風光が編集した俳句の本。挿図に松尾芭蕉の肖像と諏訪明神(神館神社)に 奉納されていた芭蕉真筆の句として

「うらみせて涼しき瀧の心哉」

に説明を加えて掲載しています。

(この句は岩波版「芭蕉作句集』(四九二)、加藤桃郎「営業全句」(五二五)に収録されています)

「會良随行日記」(天理大学図書館蔵)は、元禄二(一六八九)年、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に随行した弟子の河合實良が書きとめていた日記。須賀川には四月二十二日から二十九日まで滞在しました。碑に刻まれているのは、二十八日諏訪明神 に参詣した時の一節です。

「二十八日 発足/等定ル。矢内彦三良来而(きたりて)延引ス。昼過ョリ彼宅へ 行而(ゆきて)及暮(くれにおよぶ)。十念寺諏訪明神〈参旗、朝之内、憂」 三基の石灯篭は、芭蕉が参指した元様年間に当神社に奉納されたものです。

    平成十八年十二月

       総鎮守神炊館神社

 

 

 

 

 

 

 

 

須賀川 神炊館神社

案内板

「   総

鎮守 神炊館(おたきや)神社 社記

御祭神 建美依米命・建許呂命·建美名方命・八坂止売命 愛田別命・宇迦魂命(朝日稲荷神社より遷座)

祭日 元旦祭 一月一日(しめ納め一月七日) 春祭五月八日

秋祭九月第二土曜(例大祭 御鋒巴特殊神事) 日曜(渡御祭)

境内末社 市神稻荷(三八)神社・天満神社松尾神社 石清水八幡神社・青麻神社・本馬稻荷神社

由緒

主祭神は建美依米命。同命は、成務天皇の御 代に初代石背国造として当地に赴任しました。 着任するや、社壇を築き収穫された新穀を炊い で天神地祇に捧げて政治の成功を祈願しました。 社名はこの故事に由来しています。その場所

(元西川茶畑町)は、「社壇様」と呼ばれまし 後に社殿が築かれ「神館神社」と名づ けられました。

後世当地を支配した二階堂氏は、城郭内に派 訪社を建立し建美名方命を勧請しました。須賀

川落城後、慶長三(一五九八)年に新たに両神 社を併せた社殿が造営され、諏訪大明神と称さ れました。会津主上杉景勝公は当社を手厚く 庇護し、北門の石鳥居 (東日本大震災により倒 後)を寄進しました。正德二(一七一二)年、 正一位の神階を授けられ、「岩瀬総社諏訪大明神」を称し、末社は郡内八十社に及びました。 松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の途次、当神社 を参拝したのは、元禄二(一六八九)年四月二 十八日でした。(「曾良随行日記」)

明治十一(一八七八)年現在の社名に改称、 須賀川町の総鎮守となり、現在に至っています。

      神炊館神社社務所   」

 

 

 

 

相楽等躬

 

 

案内板

「   相楽等躬(さがらとうきゅう)

寛永十四年(一六三七)~正德五年(一七一五) 
通称伊左衛門 別号 乍憚、乍憚斎、藤躬

楽家は、中世白河の領主、結城氏の子孫にあ たる郷士の家柄です。

等躬は、問屋業を営む豪商であり、陸奥の歌枕 や各地の俳人などの情報にも精通する須賀川俳壇 の中心的人物でした。

元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉は「おくのほ

そ道」の旅の途中、かねてから親交のあった等
躬を訪ね、八日間の長逗留において、須賀川
人々や景観に親しむなどして、この地で「風流の初や奥の田植えうた」などの句を残しています。 

等躬の俳諧系譜は、その後、二階堂桃祖、藤井
晋流、石井雨考、市原多代女、山辺清民へと続
き、明治・大正期には道山壮山、矢部榾郎など 多くの俳人を輩出しながら、今に受け継がれて います。俳句のまち須賀川の礎を築いた等躬は、

須賀川俳諧の祖」と言われています。

    平成三十年 五月十五日

             須賀川市  」

 

 

 

 

円谷英二生誕の地

 

円谷英二

1901(明治34)年-1970(昭和45)年

円谷英二(本名英一)は、当地須賀川市中町 15番地(当時西6丁目2番地) に、代々、 糀業を営む大東屋に生れる。その日は、大空 に満点の星が輝く七夕であった。小学生の時、 祖母が土蔵の2階を英二の部屋に改装してく れる。そこは英二の秘密基地となった。英二 は、ガラクタを持ち込んでは、飛行機や汽車 の模型作りに励み、子供用の映写機で遊んだ。 蔵にいないときは、決まって近くの長松院の 大銀杏によじ登って大空に夢をはせた。将来、 特殊撮影技術監督として羽ばたく発明家小僧 は、空想の翼を大きく大きく広げていた。

誰もが、子供の頃から抱きつづけている夢と ロマンの世界を、いくつかの映像を通して、 表現した、円谷英二

彼の偉大なる 「愛と創造力」 に敬意を表して、 此処に記念碑を設置する。

 

 

 

 

 

須賀川市 可伸庵跡

 

可伸庵跡

 元禄二年(一六八九)四月二十二日(陽曆六月九日)、松尾芭蕉と門人の河合曾良は、おくのほそ道の旅の途中 で、旧知の仲にあった相楽等躬を訪ねました。須賀川に は八日間滞在し、近隣の寺社仏閣を訪れ、また地元の排人たちとの俳諧を楽しみました。

 可伸庵跡は、等躬の屋敷の一隅に隠棲した僧・可伸(栗斎) 庵跡です。

 「おくのほそ道」では、芭蕉が可伸庵を訪ねて、「此宿 の旁(かたはら)に、大きなる栗の木の木陰をたのみて、世をいとふ僧有」と書留めています。

 芭蕉は、可伸の関寂な暮らしぶりに深く心をうたれ、
「隠れ家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠んでいます。

 この句を受け、曽良須賀川俳人(等躬・栗斎・等雲・須竿・素蘭)で七吟歌仙を巻きました。のちに、この句は、

「 世の人の見付けぬ花や軒の栗」と推敲されています。

「軒の栗」の句碑は、文政八年(一八二五)に須賀川俳人石井雨考が建立しました。

         須賀川市

 

 

 

 

 

 

円谷幸吉histry

 

TSUBURAYA KOKICHI

history

円谷幸吉の歩み

1940年(昭和15年)5月13日に、父幸七、母ミツの六男、 7人兄弟の末子として、福島県須賀川市大町に生まれる。

1、呼ばれたら返事を

2.人には挨拶を

3、履き物を揃える(整理、整頓)

4、自分のことは自分でする

を躾の原則として、父の厳格な躾のもとで育てられた。

須賀川一小、須賀川一中、福島県須賀川高校と進み、 1959年3月陸上自衛隊に入隊、八戸教育隊、第6特科連隊

1967年3月、中央大学経済学部産業経済学科を卒業した。

競技歴

1952.10

小六の運動会1分間競争,第5位

1954.11

中学校校内マラソン大会 第3位

1958.5

第9回須賀川牡丹マラソン大会 第2位(高校3年)

1961.11

青森一東京駅伝競走大会(3区間、15人抜き)

1962.10

日本陸上選手権大会 5,000m 第1位 [14′20″8] 大会新記録

10,000m 第1位 [29′59″0] 大会新記録

1963.9

シドニー国際大会 10,000m 第1位 [29′25″2]

1964.6

国民体育大会特別競技 5,000m [14'02"2] 日本新記録

1964.10

オリンピック東京大会 マラソン 第3位 [2,16′22″8] オリンピック東京大会 10,000m 第6位 [28′59″4]

1967.3

第1回円谷幸吉と走ろう青梅報知 30kmマラソン大会第2位 [1,37′50″0] これが青梅マラソンの始まりである

 

 

 

 

 

須賀川 芭蕉七泊八日の旅日記

 

芭蕉七泊八日の旅日記

 

 元禄二年(一六八九)の 春、俳人松尾芭蕉は、門人・河合曽良とともに、 江戸深川から、大垣まで 六百里(约二四〇〇キ口)に亘る「おくのほそ道」の 旅に出ました。

 芭蕉四六歲、曾良四一歳のときです。

  行程のほとんどが未知 の地であり、心許ない旅立ちでしたが、敬慕する 西行や宗祇、義経など先 人の跡を追い、己の俳諧を突き詰めてみたいとい う思いに突き動かされたのでした。

 芭蕉は、みちのくの玄関口、白河の関を越え、途中、阿武隈川を渡り、磐梯山を仰ぎ見ながら、四月二十二日(陽曆六月九日) に須賀川に入り、かつてから親交のあった知人、 相楽等躬宅に草鞋をぬぎ、八日間滞在しました。 

 等躬は、須賀川宿の長であり、問屋業を営んで おり、須賀川俳壇の中心的人物でもありました。 

 当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として経済的、文化的にも繁栄 をきわめており、多くの俳人を輩出し、今もなお、俳諧文化が受け継がれて います。


曾良旅日記による芭蕉八日間の足跡

四月二十二日(陽曆六月九日)

須か川、乍单斎宿、俳有。

 須賀川に入った芭蕉たちは本町の相楽等躬(本名・伊左衛門 )宅に辿り着いた。

 その夜、芭蕉曽良、等躬の三人による三吟歌仙の会をもうけた。芭蕉は、みちのく入りの感慨を込めた「風流の初やおくの田植うた」を詠んでいる。

風流の初やおくの田植うた

 

四月二十三日(陽曆六月十日)

同所滞留。

晚方へ可伸二遊、 

帰ニ寺々八幡ヲ拝。

 夕方に等躬屋敷の一隅に庵を 結ぶ隠遁僧・可伸(俗名、梁井 弥三郎 俳号、栗斎)を訪ね た。

 芭蕉は隠棲する可伸のつまし い生き方に共感を持ち、翌日可 伸の草庵で歌仙の会を催す約束を交わして、帰りに近隣の寺や八幡社などを参拝した。


四月二十四日(陽曆六月十一日)

主ノ田植。昼過ぎより可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。

 この日は、等躬宅の田植の日であった。 昼過ぎより、須賀川俳人たちが芭蕉たちを迎え、可伸の草庵にて七人による歌仙の会がされた。

 この歌仙で、芭蕉は「かくれ 家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠み、この句は後に「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と推敲 される。

 俳席のあと、等雲(吉田祐碩)による蕎麦きりの振る舞い を受けた。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


四月二十五日(陽曆六月十二日)

主物忌、別火。

 二十五日は等躬宅の物忌の日で、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないように 別におこした火を使用するのが習わしだった。


四月二十六日(陽曆六月十三日)

小雨ス。

 小雨模様のこの日は、芭達 は、江戸の杉山杉風宛に旅の状況を認めた書簡を送っている。


四月二十七日(陽曆六月十四日)

曇。

三つ物ども、芹沢ノ滝行。

 二十七日は曇りであった。芭蕉、等躬、曽良による二つの「三つ物」(発句・脇句・第一 旬から成る)『四句』の俳席が もうけられた。その後、芹沢の滝を訪れている。

 

四月二十八日(陽曆六月十五日)

発足の筈定ル。矢内三参良来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅 へ行テ及暮。十念寺諏訪明神へ参詣。朝之内、曇。

 二十八日は出発の日であったが、地元の俳人たちの勧めで、郡山への途次 石河の滝(乙字
ケ滝)に立ち寄ることにした。

 しかし、雨が降り続いていたために水かさが増し、川の徒渡りが難しいことから出立は翌日 に延期された。

 同日、矢内彦三良宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十 念寺、諏訪神社(神炊飯神社)に参詣した。


四月二十九日(陽曆六月十六日)

快晴。

巳中剋、発足。石河滝見二行。

 二十九日は快髄の空のもと、 用意されていた馬にまたがり、等躬宅を後にした。

 途次、「乙の字」の形をなし て雄壮に流れ落ちる乙字ヶ滝(石河の滝)を眺め、郡山へ向かった。


五月雨の滝降りうづむ水かさ哉

 

 

 

一日一句 目次7

一日一句 161

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/162506

 

一日一句 162

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/31/013434

 

一日一句 163

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/31/085708

 

一日一句 164

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/31/130747

 

一日一句 165

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/01/210330

 

一日一句 166

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/02/132936

 

一日一句 167

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/02/154939

 

一日一句 168

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/04/131620

 

一日一句 169

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/04/213145

 

一日一句 170

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/09/072528

 

一日一句 171

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/11/132118

 

一日一句 172

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/11/131923

 

一日一句 173

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/13/064632

 

一日一句 174

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/13/132931

 

一日一句 175

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/13/172301

 

一日一句 176

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/13/185902

 

一日一句 177

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/06/14/215337

 

一日一句 178

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/02/07/094344

 

一日一句 179

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/03/06/123648

 

一日一句 180

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/03/07/185345

 

一日一句 181

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/03/08/174707

 

 

目次8に続く

 

 

 

 

 

 

一日一句 181

2023年9月

9/1
ディズニーのホラー観る九月ファーストデイ

9/2
二年越し初めて会った九月かな

9/3
ヴォイトレもまた越えて行く九月かな

9/4
思ひ出の夏の入院ファイルの色

9/5
オフの日は映画三昧九月かな

9/6
深海魚見に沼津行く初秋旅

9/7
軽やかに踊れた九月の稽古かな

9/8
備へても濡れる台風接近の朝

9/9
重陽や股関節使へばもっと出来る

9/10
頬落とし細長く歌ふ初秋かな

9/11
少しずつ季節は巡りうろこ雲

9/12
チポトレはこれ月見なの?日本の秋

9/13
踊り来る少女らと会ふ九月かな

9/14
ジャズ作品大分仕上がる九月かな

9/15
楽しみにしていたミステリ九月公開

9/16
指挟み冷やしつつ仕事九月かな

9/17
中秋や一日遅れで母の誕生日

9/18
敬老の日いつもと違ふ休日出勤

9/19
ベネチアのミステリー事件秋映画

9/20
初めての経験に驚く九月かな

9/21
熱の日はいくらでも眠れる九月かな

9/22
秋の夜にミュータントタートルズ大暴れ

9/23
雨もよいひんやりとする秋分

9/24
中秋や「最高の教師」も最終回

9/25
秋日和兄が初めてスマホ買ふ

9/26
招かれてゾンビも踊るハロウィン

9/27
ポケモンとジャンピンハロウィン秋暑し

9/28
衣装着て初めて踊る秋の夜

9/29
饅頭を片手に見上げる名月や

魚焼く煙に燻され名月や

9/30
テンポよく動く稽古で九月逝く

 

 

一日一句 182に続く

 

 

一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704


一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328

 

 

 

 

 

一日一句 180

2023年8月


8/1
夏パーク水掛け祭でエキサイト

8/2
冷房の部屋でお昼寝旅疲れ

8/3
木曜は階段掃除酷暑かな

8/4
絆にも涙映画トランスフォーマーの夏

8/5
首冷やしながら清掃夏の午後

8/6
夏の午後夢と絆を問ふ映画

8/7
効きすぎの冷房午後の天気雨

8/8
沼見つつつく法師聞きつつ非常食

黒羽の芭蕉のみ姿秋立つ日

立秋や馬上に見上げる芭蕉

黒トンボ飛ぶ玉藻稲荷にすずみをり

8/9
母入浴終へておやつの残暑かな

8/10
僭越ながらアドバイス残暑かな

8/11
大正のハードボイルド観る山の日や

8/12
老杉に芭蕉の足跡梅雨晴れ間

訪ね来て芭蕉の道に四葩(よひら)咲く

8/13
台風の影響降ったり晴れたりの日

8/14
台風の進路気になるお盆かな

8/15
台風の動向気になる終戦

8/16
美容院の帰りレッドホットチキンの夏

8/17
ダンスでは常に引き上げ晩夏かな

8/18
極悪でやさしい悪魔夏映画

8/19
蟷螂(とうろう)の大きさに驚く掃除中

8/20
首冷やし遠回りする炎天下

8/21
仕事終へマックで涼むおやつ時

8/22
四年ぶり集ふ晩夏の海の家

8/23
しんちゃんの絆に涙夏映画

8/24
コンセプトに沿って踊る残暑の夜

8/25
伝説のGメンになれるか夏映画

8/26
工夫してマスクを着ける残暑かな

8/27
ビール飲み波と戯れ夏が逝く

8/28
残暑の夜空気を抜いて旅支度

8/29
逝く夏をみちのく潮風トレイルで

逝く夏やひよこ仲間でプリンスへ

8/30
逝く夏やせんべい汁はアルデンテ

8/31
足指で掴んでダンス八月逝く

 

 

一日一句 181に続く

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/03/08/174707

 

一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704


一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328

 

 

 

 

 

 

一日一句 179

2023年7月

 

 

7/1
お中元のはちみつ梅で塩分補給

7/2
海風やゆっくり帰ろう薄暑の夕

7/3
本格的暑さはまだこれからと梅雨晴れ間

7/4
アイリッシュパブで気になる梅雨晴れ間

ウッディーとワイワイ踊る梅雨晴れ間

7/5
七月や公開映画にワクワクと

7/6
ピンポイントの筋肉鍛える梅雨薄暑かな

7/7
久々は浦島太郎梅雨晴れ間

7/8
四年ぶり焼き肉を焼く薄暑かな

7/9
ヴォイトレで秋桜(コスモス)歌ふ梅雨の午後

7/10
外は汗だく車内は寒く梅雨晴れ間

7/11
青田飛ぶ白鷺芭蕉翁と見る

黒羽に芭蕉慕ひて薄暑かな

7/12
彼女は何故狂気に走ったか七月映画

7/13
七月やドリアとカボチャで母とご飯

7/14
公開のジブリ新作観る七月

7/15
強風で日傘が差せず顔暑く

7/16
夕刻にやっと生(なま)飲む夏祭り

7/17
海の日の休日出勤で教へられ

7/18
梅雨晴れ間揺れる心の十七歳

7/19
折り畳み日傘を探す梅雨晴れ間

7/20
引き上げて背中クロスに夏稽古

7/21
梅雨明けの金沢の寺の子持ち地蔵

「君ソム」を今日梅雨明けの金沢で

7/22
夏旅の金沢で聞く女優のシャンソン

7/23
金沢の忍者寺見る夏の旅

7/24
暑き日にN95マスク復活の辛さかな

7/25
イーサンが空飛ぶ夏のインポッシブル

7/26
冷房が強過ぎ夏の映画館

7/27
しっかりとテンポをキープ夏土用

7/28
「キングダム3」でエキサイト夏の午後

7/29
使ひやすいバッグに再開夏の午後

7/30
安い鰻重探し求める土用丑

7/31
夏物が早(はや)セールとなり文月逝く

 

一日一句180に続く

https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2024/03/07/185345

 

 

一日一句 目次 1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/02/07/092704


一日一句 目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2023/05/29/195328

 

 

 

 

金沢市 野蛟神社(ぬづちじんじゃ)

j-sampo.comより

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野蛟神社(ぬづちじんじゃ)は、天平3年(731)に創立と言われる古社。御祭神は高皇産靈神、猿田彦神事代主命、野椎神。加賀郡延喜式内社野蛟神社の比定社。
神社の云われについて、「当時神谷内を中心とした付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡くなる人がでた。そうした時白髪の老人が現れ、『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜよう。』と言うので、住民は老人の教える通りに行った処、不思議にも病気が治ってしまった。この老人は『ヌヅチの神である、永く祭祀(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し“龍(アマレリ)”に乗って天上雲間に消えた。そこで住民は、その地に神社を創立して祀ったのが起りである」と伝えられている。
さて、ヌヅチとは何か?「蛟」は「みつち」と呼び、龍や蛇のような水神を指すようだ。当地が水に恵まれた地である証であろう。

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