岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道六十九次歩き15日目の5(宮ノ越宿)

2度目の中山道15日目の5
3月25日(水)の5


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【吉田洞門】

吉田洞門が見えてきました。
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14:30 吉田同門脇の歩道を進みます。
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歩道から見える山
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吉田洞門の脇の歩道、なかなか長いです。
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でも、もしトンネルの中を歩かねばならなかったら危険だし息苦しいし、洞門脇の歩道、ありがたいですね。山も綺麗にみえるし。

14:37 石仏石塔群
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12年前に初めて東海道を歩き始めた頃は、石仏石塔群は、何らかの意味をもってその場所にたくさん建てられたものだと思っていました。鎮魂とか、その場所が神聖であるとか。でも、ほとんどの石仏石塔群は、人間の都合で、道路工事や区画整理などで移動せざるを得なくなった石仏や石塔が、一ヶ所に集められてしまったものなのです。もちろん、意味をもってそこに建てられた石仏や石塔もありますが。

14:40 石仏石塔群
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14:45 吉田橋を渡る
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【旧国道】

14:46 渡ったら、左の旧道へ
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旧道が国道に突き当たり、国道を横断して、その先また旧道に入りました。
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完全に使われていない道なので、真ん中を堂々と歩けますが、落ち葉が積もって、そこに草や木が生えて、荒れ果てていました。
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11年前のブログより

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2009.9.9.

途中、草ぼうぼうの旧国道を歩きました。テンション上がりました。

11年前の旧国道の写真
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14:56 旧国道終点
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14:58 セブンイレブン
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トイレをお借りして、抹茶ミルクもちを買って食べました。


【巴淵】


15:12 句碑
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遥かなる花の薫りや
鴬の声

「時◯」(◯が読めない)という人の俳句と思われますが、この句碑について、特に解説は見つかりません。


森川許六の句碑
  山吹も巴もいでて田うえ哉

がどこかにあるらしいのですが、わかりませんでした。

或いは、「遥かなる花の薫りや鴬の声」の句碑が森川許六の句碑である、という説もありました。

後で調べたら、実は「巴淵」の碑の「巴淵」の字の右側に小さく、「山吹も巴もいでて田うえ哉」と彫ってあるのだそうです。今回私が撮った写真では、碑面が風化して読みにくくなっているので、
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ネットから読める写真をお借りしてきました。(「平家物語への旅http://blowinthewind.net/heike/miyanokoshi.htmから勝手にお借りしました。)
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慕情之碑
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  粟津野に討たれし公の
霊抱きて
巴乃慕情淵に渦まく

千村春潮



15:13 巴淵
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案内板
謡曲『巴』と巴淵

 謡曲『巴』は修羅物の中でも女性を主人公とした唯一の作品です。木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が社の前で泣いている。事情を聞くと『木曽義仲 が討ち死にした場所で、弔って欲しい』という。僧が読経していると、先ほどの女が武装して現れ、『自分は巴という女武者。義仲の供をして自害しようとしたが、女だからと許されなかった』とかたる。巴の霊はその無念さと義仲への恋慕から、成仏できずにいたのだった。
 巴は少女時代、この巴淵で泳ぎ、近くの徳音寺にある乗馬像のように、野山を駆け巡って育った。淵をのぞき込んでいると、そうした巴の姿が彷彿と浮かんでくるようです。

謡曲史跡保存会 」


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案内板
木曽三川 三十六景の一 伝説の残る巴が淵

 歴史が漂うこの渕は、巴状にうずまき、巴が渕と名付けられた。
 伝説には、この渕に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠 の娘として生れ、名を巴御前 と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切々と燃えた愛の証でもあった。巴御前の尊霊は
再びこの渕に帰住したと云う。法号龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔みして並ぶ。
 絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。
 岩をかみ蒼くうずまく巴が渕、四季の風情が魅する巴が渕。木曽川の悠久の流れと共に、この巴が渕の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。

蒼蒼と巴が渕は岩をかみ
黒髪愛しほととぎす啼く

木曽町 」

11年前のブログより

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巴淵は、木曽義仲の恋人、巴御前ゆかりの淵で、エメラルドブルーの水をたたえ、とてもきれいでした。
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巴御前はこの巴淵の近くの出身ですが、この淵に住む龍の化身という伝説もあるそうです。

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15:16 巴橋を渡ろうとしたら、橋の上にいた軽トラが、渡るのか渡らないのか止まるのか、動きが不審で、脇を通り抜けるのが怖かった。
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【南宮神社手洗水から葵橋】

15:17 南宮神社手洗水
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案内板
「 南宮神社 手洗水

往昔木曽義仲公鎮守南宮
神社手洗水也唱来發年歷
事歎今新石船造立仕者也

月 日 願主 村中 」

この漢文は、石碑に刻まれているものです。


15:21 道祖神
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15:23 有栖川宮小休所跡碑
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15:24 徳音寺南バス停(ここを右折)
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15:30 葵橋を渡りました。
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こんな道を歩きます。
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15:36 道祖神
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15:36 義仲館への分岐
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今回は義仲館には行きませんでしたが、11年前には立ち寄りました。

11年前のブログより

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ちなみにその先の義仲館の休憩所で栃餅とコーヒーで休んでいたら、サービスで山盛りの漬け物と茹でトウモロコシ一片出してくれて、美味しくて腹一杯になりました。

その先、宮ノ越宿は、大火で焼けてしまい、昔の面影はほぼ残っていませんが、旅籠田中家が、火事のとき運び出された家具を元に復元されています。

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宮ノ越本陣跡】

15:39 宮ノ越本陣跡(冬季閉館中)
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案内板
宮ノ越宿 本陣 Miyanokosijuku Honjin

宮ノ越宿は、慶長六年(一六〇一)徳川幕府中山道整備の時、藪原宿と福島宿の間が遠いので、江戸から三十六番目の宿 として新設され、明治三年(一八七〇) の宿駅制度廃止まで続いた。
天保十四年(一八四三)の本陣絵図によると、街道に接する間口十二間、奥行二十六間の敷地内に、道に面して本陣問屋を兼ねる主屋、三間離れ位置をずらして大名が休泊する客殿が別棟である。客殿に入るには薬医門 を入って主屋に隣接する庭を十二間入って式台玄関がある。十八畳の大広間の奥に上段の間や控えの間、大広間の隣は廊下を挟んで料理の間があり、整った本陣の造りである。
宮ノ越宿は何度も大火に遭っており、絵図の本陣は元治二年(一八六五)の大火 で焼失したがすぐに再建された。
明治十三年(一八八〇) の明治天皇中山道巡幸の折この本陣に小休止され、明治一六年(一八八三)の大火では主屋 が焼失するが客殿部は残った。 その後生活の場として一部改造されるが、木曽十一宿中で唯一現存し、明治天皇も休まれた部屋がそのまま残る貴重な建物である。

木曽町 」
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15:40 町川用水
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15:41 脇本陣問屋跡
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【田中邸】

15:43 田中邸
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案内板
宮ノ越宿 田中邸

■田中家(旧田中邸)の概要
中山道宮ノ越宿の田中家は、宿絵図に旅籠屋田中忠右衛門と記された旅籠であったが、明治十六年(1883)の上町から下町まで九十戸を焼失する大火で焼失した。
現在の建物は、大火時に搬出された建具類と、隣村から運んだ建物部材を使用して再建されたものと伝えられており、背の高い差鴨居を多用しているので、移築した建物の建築年代は幕末期と考えられる。また、入り口周りの痕跡からみると、間口四間ほどの建物の土間部分を狭くし、間口を縮めて移築したものと考えられる。現在の間口は三間四尺あるので、宿絵図に記された三間より広く、大火により町割の再編がされとことがうかがえる。建物は大きな改築をすることなく住宅として使用されてきたが、平成九年に旧日義村へ寄贈された。
田中家主屋は、間口三間四尺、奥行き八間の二階建てで、二階を三尺張り出した出梁造り(だしばりづくり)の建物であり、一階の格子と二階の障子戸の対比が美しい伝統的な宿場の建築様式を伝えている。
間取りは、大戸の入り口を入ると通り土間があり、片側に一列に十畳、勝手(六坪余)、十畳がある。二階には勝手にある箱階段から上がり、勝手の囲炉裏部分は吹き抜けとして、他は表から裏まで間仕切りの無い一室になっていた。
入り口の持ち送りは、波しぶきの彫もしっかりとしていて、宮ノ越大工の腕の確かさを証明している。
平成二十六年の修復復元工事にあたり、古い部材の再使用など建築当時の姿を保つよう配慮しながら、奥の縁側に階段を新設したほか、入り口の十畳は土間へ改装し、構造補強の壁を追加するなど、交流の場としての活用を目的とした改装を行った。

宮ノ越大工
江戸時代(嘉永元年)の宮ノ越村では、二七九軒のうち六二軒が大工・杣・木挽きであった。隣村である原野村にも大工が多く、彼らは棟梁を中心に七~八人で『一手合』という集団を作り、諏訪や松本などの近隣はもとより、甲州三河駿府などへ出かけ、各地の社寺や民家の建築に携わった。

民家の持ち送りに彫刻を施したものがみられるが、これらは大工棟梁から施主建築主への祝儀として贈られたものであった。

■江戸末期の田中家に関する考証
江戸末期から明治初期の作図と考えられる宮ノ越宿の宿場建物図が残されており、この図から読み解いた当時の田中家の特徴は以下のとおり。

(1)間口は三間(現在は三間四尺)。間口が狭く奥行きの長い町家建築。
(2)周辺の建物では比較的規模が大きく、庭や設備も充実しており、宮ノ越宿下町の中では中心的な旅籠であったと考えられる。
(3)中庭が特徴的で、中庭の奥に厠、湯殿が配置されている。
(4)奥に通じる直線の土間、囲炉裏、流しの位置など基本構成は現在の建物と同様であり、当時の建物利用と建築様式を良く伝えている。
(5)建物内部には壁が少なく、ほとんどが建具で仕切られていた。
おそらく二階建てであったと考えられるが、階段が記載されていないのは、当時階段は家具であったことの表れと考えられる。
おそらく、旅人は街道に面した板の間を通り、勝手にあった箱階段を利用して二階に上ったことであろう。

木曽町 」


この案内板に出てくる「持ち送り」をwikipediaで調べてみました。


持ち送り wikipediaより

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持ち送りまたはコーベル(corbel)は、壁から突き出した石などの構造物で、その上に張り出した重量を支持する。持出し、持送り積み、受け材とも。同じ構造でも木でできたものは、「梁受け (tassel)」と呼ぶ。持ち送り構造 (corbelling) は、一連の持ち送りを壁に深くかみ合わせて、張り出した壁や手摺を支持する技法で、新石器時代から使われてきた。

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連子格子が美しい家
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15:44 明治天皇御膳水
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田中家のすぐ先に井戸が復元されています。

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案内板
「 井戸の由来

この井戸は、江戸末期(一八六六年頃)町内の飲用水を得るために掘られ昭和初期まで近郷随一の名水として永く人々の生活をささえてきました。その後水道の普及により廃止されました。井戸の石積は当時のままの姿を残して降ります(道径一・一m、深さ八・〇m)。明治十三年六月(一八八〇)明治天皇中山道ご巡幸のみぎり、旧本陣にお小休みされた際この井戸水をもってお茶を献上されました。以来明治天皇御膳水と呼ばれるようになりました。現在の建物は町内の旧跡保存の熱意と村の援助により復元されたものです。

     平成七年四月  
宮ノ越 下町組 」


15:46 石仏石塔群
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15:53 宮ノ越の一里塚跡
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案内板
「 宮越 一里塚

 慶長六年(1601)、江戸幕府は江戸と各地を結ぶ五街道を整備し、宿を設置した。街道には日本橋を起点にし、一里(約四km)ことに塚(直径約九m、高さ約二m)を作らせた。一里塚 の土には榎・松・杉などが植えられた。街道の松並木と区別するため余の木を植えよと言ったのを聞き違えて榎を植えたという逸話がある。一里塚に植えられた木が旅人の距離の目安となり、木陰が休み場となった。
 宮越宿 と藪原宿 の間には木祖村吉田に、宮越宿と福島宿 の間には宮ノ越下島と福島上田の出尻の二箇所に一里塚があった。下島一里塚は道路工事で削平され形が残っていない。

平成二十七年三月 
NPO法人木曽ユネスコ協会

説明文 日義中学校三年生 山本世津子 」


16:03 第二中仙道踏切を渡りました。
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16:04 石塔
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16:06 山がきれい
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こちらの写真は、原野駅の近くから見えた雪山。木曽駒ヶ岳と思われます。


16:13 石仏石塔群
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16:14 石仏石塔群
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この付近からも山がきれいに見えます。
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16:21 原野駅
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16:46発に乗って、16:51 に木曽福島
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今夜は木曽福島に泊まります。
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今夜のご馳走。
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本日の歩数 41,504歩 30.44km



2度目の中山道16日目の1()に続く

2度目の中山道六十九次歩き15日目の4(藪原宿)

2度目の中山道15日目の4
3月25日(水)の4


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【御鷹匠役所跡と飛騨街道追分】

13:34 尾州鷹匠役所跡
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案内板
尾州鷹匠役所跡

はじめ尾州鷹匠役所は妻籠宿にあったが、伊奈川にあった鷹の飼育場も統合して享保一五年、ここ藪原に移された。
この役所は明治四年に廃止されるまで存続したが、土地の人々が『おたかじょ』と呼んでいるこの場所がその跡地である。
毎年春になると、尾張藩から鷹匠と役人が出張して来た。
鷹の巣を見つけて鷹の飼育や調教・鷹の公儀献上・巣山の管理および巡視等を、木曽代官山村家の家臣や土地の人々の手助けも得て、行なっていた。
木曽谷中に六十余あった『巣山』といわれていた御巣鷹山木曽川の上流では、味噌川にある池ノ沢・尾頭沢と笹川の押出の三ヶ所であった。
厳しい自然環境のなかに棲みつき育った当地の鷹は優秀であり、生まれた幼鷹とともに鷹狩を好む尾張藩主をはじめ、将軍家に人気があったといわれている。」

13:35 飛騨街道追分
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案内板
「 飛騨街道追分(分岐点)

藪原は中山道の宿駅として発達した。
この場所には十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山に通ずる飛騨街道(奈川道)の追分だった。
左手の細い道が旧奈川道で、小木曽地域を抜けると美濃と信濃の国境であったことから境峠といわれるようになった峠がある。
当時この峠は険しい道で、木曽側は湿地であり板橋を掛けてわたった。いっぽう、奈川側も岩石だらけの悪路で馬を使うことが困難であった。
かわりに、もっぱら尾州陸舟(おかふね)と呼ばれた奈川の牛が飛騨ぶりの魚介物や塩等の荷物の運搬に使われていた。
明治四四年に中央西線が開通すると、この街道は岡谷の製糸工場で働く飛騨の女工達がひんぱんに往来するようになった。 」

右へ折れて左へ折れ、跨線橋
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津島大社
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跨線橋が見えてきました。
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13:38 津島大神水
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13:38 跨線橋を渡ります。
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13:39 葛沢橋
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13:41 藪原本陣跡
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木曽氏の家臣の古畑十右衛門邸の本陣で、木曽11宿で最大の規模だったそうですが、今は「おぎのや」の駐車場になっていて、標柱がなければ昔を偲ぶものはなにもありません。

おぎのやは蕎麦屋さんで、この日は定休日で暖簾が出ていませんでした。
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米屋與左衛門(旅館)
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造り酒屋(湯川酒造店)
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水場
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13:43 防火高塀跡
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案内板
「 防火高塀跡

元禄八年七月(1695)藪原宿のほとんど全部が焼失する大火があった。その後、防火対策として宿再建の際各戸一間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二箇所に四ツ辻の広小路を作った。
文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築きその上に高い土塀を作って防火壁とした。当時、これを『高塀』と呼んでいた。宮田敏の『岨俗一隅』にはその様子が伺える絵図が載っているが、現在、石垣の一部のみが残されている。
消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路の工夫や建物に卯建(うだつ)を付けるとか火除け広場を確保するなどしている。
この藪原宿のような防火高土壁によるのは少ない例である。 」

13:43 街道にぎわい水車
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燕型屋号看板(おおぜにや)
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北原製菓店
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13:45 水場
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宮川漆器
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「しんおおざかや」と「なすや」
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13:47 二又の水
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お六櫛製造 萬寿屋本店(篠原商店)
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13:49 高札場跡
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案内板
藪原宿高札場跡

江戸期になると、幕府中心の幕藩体制が確立した。その情報伝達方法として『高札場』が、都市・宿場・在郷等に設けられました。
初期には法度や掟書きなど老中交替の都度高札として出された。正徳年間以降(1711~)変更のないのはそのまま『定札』として幕末まで維持された。他に『覚』等の高札もあって時期により掲示枚数が違う。
藪原宿の高札場(御判形とも呼んでいた)は高さ二間三尺幅二間四尺の建造物で、この場所にあった。
左にくだる坂道(旧中山道)一帯を出口といって京方からの宿場入り口のあたり、ここが鍵の手(枡形)のような道になっているため人々が集まり目につき易い所だった。掲示の高札は宿場町らしく、定三札(人倫・徒党・切支丹)と駄賃札等が主流だったと思われる。木祖村郷土館には、当宿場に掲示されていた幕末期の 定三札の一つがある。 」


13:50 右の下り坂へ
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13:52 延命地蔵
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13:54 橋を渡りました。
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藪原駅
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13:56 藪原の一里塚跡とD51
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案内板
中山道一里塚

一里塚は江戸時代 主要街道に江戸日本橋を起点として一里(約四粁米)ごとに設けた里程の塚である。
築造は慶長九年(西暦一六〇四)とされ道路の西側五間四方に高さ一丈(約三米)ほどの土を丸く盛り上げその上に榎や松を植えた。
村内の一里塚はこの藪原と吉田(江戸から六十七里 京から六十九里)の二箇所にあった。日本橋京都三条大橋を結ぶ中山道六十九次百三十五里二十三町の凡そ中程にあたり旅人の安息と利便を与えた場所である。
現在は時代の推移により、その原形は見られない。この位置を一里塚と呼びその名をとどめている。
木祖村教育委員会

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14:01 突き当たりの国道26号線を左折し、藪原架道橋(JR中央本線)を潜りました。
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14:05 藪原交差点で国道19号線に合流
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国道から木曽川を見下ろします。
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14:18 左斜めに旧道に入る。
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旧国道。草が生えています。
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14:25 国道19号線と合流
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2度目の中山道15日目の5(宮ノ越宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/08/17/115235

2度目の中山道六十九次歩き15日目の3(鳥居峠)

2度目の中山道15日目の3
3月25日(水)の3


鳥居峠の山道へ】


11:46 分岐 山道へ
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11:52 Y字を右へ
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11:53 信濃路自然遊歩道道
奈良井宿0.30km→
鳥居峠 2.01km
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石畳へ 石標 「上る 鳥居峠 下る 奈良井宿
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熊出没注意の看板
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12:01 木の橋
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12:05 展望台
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ここはわざわざ上ってみましたが、木々がこんもり繁って展望はよくないので、行かなくてよいと想いました。(写真では山がきれいに見えていますが、普通に眺めると山はほとんど見えません。少しでもきれいに山が写るように工夫しました。)

展望台から、峠路に戻ります。
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12:13 木の橋
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12:14 木の橋
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【葬沢・中の茶屋跡】

12:15 葬沢(ほうむりさわ)
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案内板
「 本沢自然探勝園(葬沢)
Honsawa Natural Park

天正十年(一五八二)二月、木曽義昌武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めたとりいとうげの古戦場である。この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。 」

12:16 中の茶屋
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「 中の茶屋

奈良井宿 →1.15km
For The Naraijuku

鳥居峠 ←1.16km
For The Torii Pass 」

中の茶屋の小屋の中に、このような看板があるそうですが、私は中を確認しませんでした。

看板
菊池寛恩讐の彼方に鳥居峠

 『恩讐の彼方に』の鳥居峠での場面は、静かな中に一瞬凄絶を極める
 そして ここから遠く青の洞門へと舞台は移ってゆく。
 この鳥居峠には作品として最も重要な動機が設定されているのであるが  
 思えば、その動機の背景をこれほど見事にふさわしく偲ばせるところも
 ないのである。 鳥居峠の貫禄というものであろう。
  鳥居峠、時に奈良井側からの峠の、あの山の背を這うようにしてゆく
 崖道は、険阻そのものであると同時に、中山道全街道を通じて
 最も深い趣をもつといっていい。
  兎も角、幾百年の歴史の道は、その風格とも併せて春秋ただ
 素晴らしいの一語につきる。 」
         

12:21 木の橋
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12:26 木の橋風ですが、多分コンクリートの橋だと思います。
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鳥居峠一里塚跡】

12:31 鳥居峠一里塚跡
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案内板
鳥居峠 一里塚

鳥居峠は標高一一九七メートル、木曽川奈良井川分水嶺である。江戸時代の五街道の一つ、中山道の宿場町である奈良井宿と藪原(やぶはら)宿の境をなし、旅人には難所として知られていた。
戦国時代に、木曽義元が松本の小笠原氏と戦ったときに、この峠の頂上から、御嶽を遙拝し、戦勝を祈願した。その功あって勝利を得ることができたので、峠に鳥居を建てた。以来、この峠は『鳥居峠』と呼ばれるようになったという。
一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに会同の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、鳥居峠一里塚はその面影をとどめていない。場所も、古老の話や古地図、文献などによって『ほぼ、この辺り』としたものである。

平成二十五年十月
NPO法人木曽ユネスコ協会
説明文 楢川中学校一年
宮原 瑞季


12:33 木の橋
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12:35 木の橋
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12:38 未舗装車道(旧国道)を左へ
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中部北陸自然歩道道
奈良井宿 2.0km →
JR奈良井駅 3.0km →

← 100m 鳥居峠
← 3.4km JR藪原駅


「熊出没中」の看板
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【中利茶屋跡】

中利茶屋跡
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中利茶屋跡前の句碑
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12:40 休憩所の右側の道を旧国道進行方向を見ながら斜め左へ
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鳥居峠

12:40 鳥居峠看板
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案内板
中山道鳥居峠

御岳山眺望所まで 180m
明治天皇駐蹕所石碑まで 200m
御嶽神社(御嶽遙拝所)まで 600m 」

12:43 御嶽講 明覺霊神碑
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案内板
「 御嶽講 明覺霊神碑
Monument to the Ontake-ko

御嶽を信仰する講社が建てた霊神碑。当時の御嶽信仰の盛大さが伺える。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」


12:45 景色が広がりました。この辺りが鳥居峠
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12:46 明治天皇駐蹕所碑
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案内板
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)所碑
Monument to Emperor Meiji's visit

明治13年明治天皇がこの地を巡幸されたことを記念して建設された。碑の裏面には、大正2年に木祖村長であった横澤雄次郎が建立したと記してある。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」


【峠の下り道】

12:51 遊歩道の階段を下ったら車道を右へ
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12:52 旧国道が横切る十字路に出ました。
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12:53 藪原方面への遊歩道へ(左斜め後ろに折れる)
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道標 御嶽神社(御嶽山遙拝所 470m)方面に向かいます。
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12:53 熊除けの鐘
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案内板
「 熊除けの鐘
Bear Alert

熊は臆病で、音や匂いに敏感です。
熊が歩道に出ることはまれですが、念のため、鐘を鳴らして、人間がいることを伝えましょう。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

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【子産みの栃】

12:56 子産みの栃
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案内板
「 子産みの栃(トチ)
“Baby-bearing” Horse Chestnut

昔、この木の空洞に捨て子があり、子宝に恵まれな い村人が育てて幸福になった事から、この木の皮を 煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

これが子産みの栃でしょうか?11ねんまえに来たときは、もっと「いかにも」という幹の太い、穴が空いた木があった気がしたのですが、その季は倒れてしまったのか、以前もこの木だったのを、私の記憶が勝手に木を巨大化していたのか。
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鳥居峠トチノキ群の標柱
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どの木がトチノキなのか、よくわからないので写真は撮りませんでした。この辺り、お六櫛の原材料のミネバリも植えてあるそうで、どの木がそうなのかわかりませんでした。

12:59 2つ目の熊除けの鐘
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13:00 分岐(JR藪原方面へ向かいます。)
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道標にある丸山公園に行けば、芭蕉句碑などがあったのですが、行きませんでした。

丸山公園への道標
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11年前のブログを見てみると、当時歩いた道と少し違うので、これはガイド本の違いからでしょうか。

11年前のブログより

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2009.9.8.

再び熊除けの鐘があり、鳴らして下ると、御嶽神社鳥居の前に出ます。

木曽義元が松本の小笠原氏との合戦の際、峠の頂上から御嶽山を遙拜し、戦勝を祈願したところ、見事勝利を納めたので、鳥居を寄進したということで、鳥居峠の地名由来となっています。

鳥居を下って行くと、丸山公園。御岳手洗水鉢があり、湧水は飲めます。(2009年当時)

湧水の上に、義仲硯石水井戸があります。

木曽義仲が平家追討の旗揚げで、戦勝祈願の願書をしたためた時に、墨をするのに使った石と水だそうです。

さらに下ると、森林測候所跡地に休憩所とトイレがあります。

つづら折りを下ると、緩やかな下りの石畳になります。

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11年前に見た湧き水も、義仲硯石水井戸も今回は見ませんでした。


御嶽神社

御嶽神社
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案内板
御嶽神社
Ontakejinja shrine

北から木曽路へ入り、初めて御嶽山を望むことのできる場所として御嶽神社(御嶽遙拝所)がある。神社の境内には御嶽を信仰する講社の人々が建立した石碑、石仏、石塔がある。

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

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案内書き
「 駅長おすすめ
中山道69次『藪原宿

浮世絵中山道69次の作者の一人、渓斎英泉の作。浮世絵は御嶽山が見える鳥居峠で休憩する旅人がモデル。松の横には木曽義仲の硯水(すずりみず)の松尾芭蕉句碑があり、このあたりを版画にしたもの。 」

下り道
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13:13 供養塔
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かなりガンガン下りました。


13:15 未舗装車道を横断
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13:15 熊除けの鐘
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13:16 鳥居峠の案内板
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案内板
鳥居峠 Toriitoge Pass

鳥居峠は、木祖村と旧楢川村(塩尻市)の境にある海抜一一九七メートルの峻嶺で、木曽川信濃川上流の奈良井川分水嶺をなしている。
峠路の開通は歴史が古く、和銅年間に官道『吉蘇路』として開かれた。このころ峠は『懸坂』といい、中世においては『ならい坂』あるいは『藪原峠』と呼ばれた。明応年間に木曽領主であった木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時、この峠から西方はるかに御嶽権現を遙拝し、戦勝を祈願したところ、霊夢によって勝利を得たことからここに鳥居を建立、それ以降は『鳥居峠』と呼ばれるようになったと言われている。
峠からの眺望は非常によく、西に霊峰御嶽山、南に駒ヶ岳雄峰が眺められる。中山道の道筋に当たる峠路は新緑紅葉ともに美しく、トレッキングコースとして最適で、昭和四十六年長野県より『信濃路自然歩道』、平成七年環境省と県より『中部北陸資源歩道』として指定されている。また、平成二十八年には『木祖村史跡 鳥居峠』『鳥居峠トチノキ群』が日本遺産の構成文化財に認定された。

平成三十年三月 木祖村

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

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案内板
「 おねがい

木祖村ヒメギフチョウは、村の天然記念物として保護しています。ヒメギフチョウ及びウスバサイシン、吸蜜植物のカタクリ等 採らないでください。
(天然記念物は文化財であり、採取すると刑罰法令に触れる場合があります。)

木祖村教育委員会
木曽警察署

平成29年度
日本遺産魅力発信推進事業」

石畳の道
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13:20 杖置き場
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杖置き場の後ろの案内板
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石畳の道
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13:24 車道を横断して、消防署近くのトイレをお借りしました。
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オレンジの服の人(消防署員さん)が走っていました。


13:30 天降社
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木祖村blogより

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木祖村史跡 木祖村天降社

薮原宿の北端にある。境内には石碑と祠があり、祠は拝殿神明造りである。境内に石碑があり「天降太神・津島太神・蚕玉太神」と刻まれている。大正4年の建立。

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木曽観光サイトより

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【 天降社のオオモミジ(木祖村天然記念物)】

この木は村内藪原地区 原町地域の青年の家のすぐ隣にある天降社境内の一画にあります。この神社の森は古来「大神宮の森」と称し、楓(かえでの老木が群生し、街道筋に当たるため有名であったといわれています。現在は森という観には乏しいですが・・県内には楓(かえで)の巨木はあまり多く見られないといわれていますが、この楓は村内唯一の巨木であります。(樹高約14m・目通り幹周囲2.45m・枝張り約10m)道路沿いにただ一本、樹幹に注連縄(しめなわ)が張られていて、その姿はいっそう重々しく、また紅葉の時期は見事です。村では昭和52年7月1日に木祖村天然記念物として指定されました。

木祖村誌編纂委員会発行 『木祖村誌』より抜粋)

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13:31 原町清水
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案内板
「 原町清水

この水は峠を越える旅人が喉をうるおしたもので今も飲み水として使用されています。 」


2度目の中山道15日目の4(藪原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/22/173805

2度目の中山道六十九次歩き15日目の2(奈良井宿)

2度目の中山道15日目の2
3月25日(水)の2


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奈良井宿入口】


10:40 馬頭観音
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10:41 「ならい」の文字の植え込み(躑躅でしょうか)
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10:42 「ならい」植え込みの上から川を見下ろしました。
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10:43 奈良井踏切
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10:46 丸山漆器大谷石
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塩尻市観光協会「時めぐり」より

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奈良井駅北側に建ち、石造三階建、切妻造、妻入、桟瓦葺である。大谷石積みで栃木県宇都宮大谷から運び、石工を招いて建築された。妻にペディメント表し、2階と3階の妻面には石造の庇がついた窓を設けており、特徴的な外観かつ丁寧に施工された石蔵である。国登録有形文化財

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10:50 奈良井駅 トイレを借りました。
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10:55 奈良井宿入口
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案内板
「 国選定重要伝統的建造物群保存地区
長野県塩尻市奈良井

所在地 長野県塩尻市奈良井
面積 約17.6ha
選定年月日 昭和53年5月31日

奈良井宿は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十七宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。
選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。
奈良井宿は、中山道最大の難所と言われた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く、『奈良井千軒』とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。
建物の大部分は中二階建てで、低い二階の全面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど、鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある町並みを構成している。 」


11年前のブログより

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奈良井宿は、江戸時代にワープしたような町並みです。卯建(うだつ)が上がる家々が並んでいました。

奈良井宿は標高約940mと、中山道中、最も高いところに位置しています。

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【水場と奈良井宿町並み】

10:58 下町水場
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あぶらや
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町並み
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湯筒屋
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漆器
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民宿「豊飯豊衣(ほいほい)」
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町並み
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民宿「しまだ」
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11:00 水場
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町並み
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11:02 茶房
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抹茶オレホットを飲もうと、中に入ろうとしたら満席でした。

町並み
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越後屋で昼食】

11:03 越後屋 昼食
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ラーメン500円
五平もち350円(胡麻味噌2個、蕗味噌1個)
そば茶とお漬け物
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勘定書の裏側に書いてありました。
「ありがとうございました。
又御出かけください。
奈良井宿
越後屋
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11:29 出発
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煙草屋
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11:30 横水 水飲み場
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町並み
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松坂屋
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食事処たなかや
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美しい連子格子
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旅館 越後屋
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せんべい 会津
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町並みf:id:asiandream0804:20200715121629j:plain


【上問屋跡】

11:35 上問屋跡
上問屋資料館
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奈良井宿観光協会ホームページより

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国指定重要文化財
上問屋資料館は古文書・陶器・漆器など400点余りの諸道具を展示しており、国の重要文化財に指定されています。
昔宿駅には幕府の役人や諸大名・その他の旅行者用のために、幕府の定めた一定数の伝馬(てんま・宿駅用の馬)と歩行役(人足)とを定備しておき、旅行者の需に応じていました。これを宿駅制度(宿場・伝馬制度)といいます。
木曽11宿には1宿につき25人の歩行役と25疋の伝馬を用意していたといいます。

この伝馬と歩行役を管理運用していたのが「問屋(といや)」です。問屋の下には数人の年寄役があって、問屋を補佐していました。
奈良井宿の上問屋は慶長年間(1602年)から明治維新までのおよそ270年間継続して問屋を務めました。時には庄屋を兼務することもあったようです。

その永い間に残された古文書や日常生活に使用した諸道具等を展示したのがこの資料館です。
往時を偲ぶよすがとなれば幸いです。

入館料:大人300円/子供200円
(団体割引あり/30名以上 1割引

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明治天皇御駐輦所・明治天皇奈良井宿行在所
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【鍵之手】

11:37 鍵之手(枡形)
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11:37 不動堂
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鍵之手水場
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鍵之手の店
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鍵之手を振り返る。
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【中村邸など】

町並み
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駒屋
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11:39 中村邸
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奈良井宿観光協会ホームページより

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元櫛問屋

元櫛問屋・市指定有形文化材
漆櫛の商いをしていた中村邸は、奈良井宿の典型的な民家造りの家です。
現在も昔のまま資料館として一般に公開されています。

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戈田(ほこた)屋漆器
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竹仙堂
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町並み
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【高札場跡・鎮神社】

11:42 高札場跡
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11:42 宮の沢の水場 奥に庚申塔道祖神があります。
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11:42 鎮神社
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案内板
「 鎮神社 shizumejinja shrine

奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ )寿永から文治(12世紀後期)のころ中原兼遠が鳥居峠に建立、天正年間(一五七三~九二)にいたり、奈良井氏が現在地に移したとつたえる。また、元和四年(一六一八)に、疫病流行を鎮めるため、下総国香取神社を勧請したことから、鎮(しずめ)神社と呼ばれるという。本殿は、寛文四年(一六六四)の建築で、村指定有形文化財。社叢は、村指定天然記念物。 」


奈良井宿も終わる頃、鎮神社があり、その奥の石段が鳥居峠の登り口です。


11:43 楢川歴史民俗資料館
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塩尻市観光協会ホームページより

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木曽の生活・暮らしを知る 鳥居峠の登山口にあるこの資料館には、木曽谷に暮らした人々の生活を偲ぶ数々の品物や生活道具が展示されています。 宿場当時の江戸時代から、明治〜大正〜昭和へと時代の流れに沿って変化していく暮らしを見ることができます。奈良井宿の概要を知るのには必見の資料館です。伝統的な奈良井宿のお祭りのことについても知ることができ、こちらで奈良井宿の切り絵のオフィシャルグッズも購入することができます。

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楢川歴史民俗資料館前にある句碑
「 お六櫛
つくる夜なべや
月もよく

山口青邨


石仏石塔群
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何の碑でしょうか。碑面が読めません。
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11:46 分岐の方へ上る(山道へ)
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2度目の中山道15日目の3(鳥居峠)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/17/184833

2度目の中山道六十九次歩き15日目の1(贄川宿2〜旧平沢村)

2度目の中山道15日目の1
3月25日(水)の1


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仕事が減ってしまったり、エトセトラ後から旅が増えましたが、1月から計画していた本命の青春18きっぷ旅は、今回の中山道歩き。

今日は木曽路贄川〜奈良井〜鳥居峠〜藪原〜宮ノ越、そして本当は木曽福島まで行きたかったのですが時間切れで、原野駅まで、41,504歩、約30キロ歩きました。


贄川関所を見下ろして】

前夜、日野(東京都)のホテルに泊まり、日野駅、朝4:43発の電車に乗って、高尾、大月、甲府塩尻で乗り換えて、8:30に贄川着。

新府駅付近では富士山が右に見えたり左に見えたり、それも、思っていたより大きく富士山が見えました。

新型コロナウィルス感染防止のため、しょっちゅう送風があり、寒いです。これで風邪ひいたら、余計新型コロナウィルスに感染しちゃうんじゃないかなあ。

贄川駅でトイレを済ませて、8:33に出発。
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8:37 贄川関所とトンネルを見下ろしました。
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12月に贄川関所に来たときには、閉館間近だったため、「また3月に来ます」と言いましたが、関所&木曽考古館の開館は9:00で、まだ開かない時間だし、もしかしたら今は新型コロナウィルスの影響で閉館中の可能性もあるので、残念ながらパス。
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8:38 メロディ橋
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贄川宿

8:40 贄川宿へ入ります。
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8:41 水場
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8:42 贄川本陣跡
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今回は「贄川本陣跡」の看板が出ていましたが、11年前には何もなく、どこか分からずに通りすぎてしまいました。

11年前のブログより

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2009.9.8.

贄川宿の街は、昭和5年の大火で多くの建物が焼失してしまいました。

公民館が本陣跡でしたが、看板も標示もありませんでした。

その中で、深沢家住宅は江戸時代末期に建てられたものが保存されていて、平成17年に国の重要文化財に指定されました。

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往時の本陣跡は焼失しましたが、ずっと本陣を務めていた千村家が今も贄川宿にお住まいなので、今の千村家の門前に「本陣跡」の札を出しているらしいです。

脇本陣も焼失しましたが、脇本陣を務めた贄川家も、今も贄川宿にお住まいのようです。


8:43 麻衣廻(あさぎぬの)神社
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案内板
「 麻衣廻(あさぎぬの)神社

天慶年間(九三八〜九四七)に創立。天正十年(一五八二)に戦火により焼失し、元禄年間(一五九二〜九六)に現在の地に再建したと伝える。祭神は建御名方命で、毎年春の祭りに加え、六年目ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。


観音寺

高野山金剛峯寺を本山とする真言宗の寺院で、本尊は十一面観音。山門は寛政四年(一七九二)に再建された楼門で、楢川村有形文化財に指定(昭和六十年) 」


8:43 津島神社
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8:45 まるはち漆器
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8:46 水場 津島神社秋葉神社
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8:46 国重要文化財深沢家住宅
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案内板
「 国重要文化財 深澤家住宅三棟

所在地 長野県塩尻市大字贄川
一六二二番地
所有者 深沢辰夫(千葉県流山市)

主屋 桁行10.6メートル 梁間17.3メートル
二階建、切妻造、
東面便所及び廊下附属、鉄板葺
北蔵 土蔵造、桁行3.3メートル、
梁間9.1メートル、
二階建、切妻造、鉄板葺
南蔵 土蔵造、桁行3.4メートル、
梁間8.4メートル、
二階建、切妻造、鉄板葺
附・家相関連資料 五点(家相図 四枚、 地理家相建物之断書 一冊)

宅地 564.47平方メートル 一六二二番地
右地域内の石垣を含む


深澤家は、屋号を加納屋と称し、行商を中心とする商家を営み、文化年間には、京、大阪などにも販路を伸ばし、幕末には、名字を許されるなど贄川屈指の商人となった。中山道に西面した短冊形の敷地に中山道に面して主屋が建ち、その背後に中庭をはさんで北蔵と南蔵が並ぶ。主屋は嘉永五年(一八五一)の大火後の再建で、同七年に竣工したと伝え、北蔵は文政四年(一八二一)、南蔵は文久二年(一八六二)に建築されたものである。
深澤家住宅は、各建物の建築年代がほぼ明らかで、保存状態もよく、江戸時代末期の木曽地方における宿駅の町家の姿を忠実に留め、主屋の規模の大きさ、独特な正面外観、整然とした架構、洗練された細部によって重厚で落ち着いた室内を構成し、木曽地方の町家建築の到達点を示す建物で価値が高い。

塩尻市教育委員会

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8:48 右折
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8:49 左折
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8:50 跨線橋で線路を渡る
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贄川のトチ】

8:52 中山道 贄川のトチ
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案内板
「 長野県天然記念物
贄川のトチ
昭和四十四年七月三日指定

トチは、トチノキ科・トチノキ属でヨーロッパ・北米・東南アジア等に約二十四首が知られているが、日本ではただ一種の落葉高木である。
北海道から九州北部まで広く分布し、山野に自生する。特に東北地方に多いが、本県においても古来夏緑広葉樹の代表樹である。また実は、あくぬきをして『トチモチ』を作ることでも知られる。

この樹は、樹令約千年と推定され根もとの周囲が十メートル以上あり、コブの上(約一メートル上)では、八・六メートルの巨木であり、県内に現存するトチの木として最大でのものである。
また、コブの上約三メートルから太枝が分かれ、さらに五本に分岐して茂り、枝張りも、樹姿、樹幹の美しさにおいても県下第一のものであろう。
地元では、樹木の下にまつられる小祠(ほこら)(ウエンジン様)にちなみ、『ウエンジンサマのトチの木』と呼び昔から大切にしているものである。

長野県教育委員会


天然記念物に指定されている中信地方の樹 (昭和62年3月現在)

県天然記念物

大塩のイヌサクラ...北安曇郡美麻村
(S.37.7.12 指定)
梓川のモミ.........南安曇郡梓川村
(S.37.9.27 指定)
乳房イチョウ.......南筑摩郡生坂村
(S.40.4.30 指定)
石原白山社のスギ...北安曇郡小谷村
(S.40.4.30 指定)
千手のイチョウ.....松本市山辺
(S.40.7.29 指定)
妻籠キンモクセイ..木曽郡南木曽町
(S.43.3.21 指定)
大野田のフジキ......南安曇郡安曇村
(S.43.5.16 指定)
贄川のトチ..........木曽郡楢川村
(S.44.7.3 指定)

(指定年月日順) 」


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このトチを間近に見るために設置された鑑賞台(物干し台か、別荘のベランダみたいな木の柵のようなもの)が壊れていて載ることが出来ず、足元に気をつけて木の根本から見上げました。

勇壮な巨大なトチの木。中山道を行き交う旅人をずっと見下ろしてきたのでしょう。


9:07 石仏石塔群(桜宮跡)
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道路の右側を歩いていたら、左の脇道に入れず、旧道の出口でやっと合流出来ました。

脇道を少しだけ戻ると、一里塚跡があります。


【押込一里塚跡】

9:18 押込一里塚跡
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案内板
「 押込一里塚

一里塚のある桃岡地区は、江戸時代に押込村に属していたため、押込一里塚と呼ばれた。
一里塚は京都から江戸までおよそ一里ごとに街道の両側に土を盛り上げて塚を築き、榎や松の木を植えて旅人の目安としたものであるというが、押込一里塚は鉄道と国道十九号線の敷設で面影をとどめてなく、片側の塚は現在畑になっている。
押込一里塚から北に向かうと、木曽十一宿北端の贄川宿に入る。宿場内の中町には本陣と脇本陣があったが、本陣の建物は現存していない。
江戸時代に贄川宿の北のはずれに、『女改め』と、木材の監視・統制をする『新良貴改め』の役割を担った贄川関所があった。昭和五十一年に当時の姿を忠実に復元した贄川関所が再建された。

平成二十七年三月 NPO法人木曽ユネスコ協会

説明文 楢川中学校三年生 北原眞悠 」


9:19 国道に合流
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奈良井川の橋を渡ります。
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9:25 左斜めへ
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こんな道を歩きました。
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9:32 長瀬集会所 長瀬バス停
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9:35 国道と合流
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9:41 セブンイレブン塩尻木曽平沢
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トイレをお借りして、R-1ヨーグルトを買って飲みました。

9:48 右、県道へ
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【木曾平沢】

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案内板
「国選定重要伝統的建造物群保存地区 長野県塩尻市木曾平沢

全国有数の漆器産地である木曽平沢は、北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落です。慶長3年(1598)、奈良井川の左岸にあった道が右岸に付け替えられ、この道沿いに居住することにより成立したと考えられています。この道は、慶長7年(1602)、徳川幕府により『中山道』の一部として整備されます。

木曽平沢は、木曽11宿の一つである奈良井宿の枝郷でした。近世前期に「木曽物」で知られた木曽の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていましたが、近世後期になると『平沢塗物』の名で流通するほどに発展します。明治以降も技術革新によって成長し続けました。木曽平沢は現在でも日本有数の漆器生産地として、その地位を維持し続けています。保存地区は、東西約200m、南北約850mの範囲です。

南北に本通り(中山道)と金西町の街路が縦断し、この2本の街路に面して、奥行き深い短冊状の敷地が並びます。

木曽平沢では寛延2年(1749)に大火があり、復興にあたり防火対策として行われた町割りが、現在の町割りの基盤になっているとされています。主屋は街路との間に若干の空き地を取って配されます。中庭を介して漆塗りの作業場であるヌリグラが置かれ、その奥に離れや物置が続きます。主屋を敷地間口いっぱいに建てず、隣家との間に余地を残して塗り蔵への通路とするのも木曽平沢の町の特徴です。伝統的な形式の主屋は中二階あるいは二階建て切り妻平入りで、かつては板葺き石置き屋根でした。間口は三間を標準的規模とし、通り土間にそって、表からミセ、オカッテ、ザシキを並べる基本平面を取ります。塗り蔵は二階建て置き屋根の土蔵造りで、湿度と温度を保ちやすく、通常の土蔵よりも開口部を大きく取るなど漆器の作業に適した造りとなっています。このような作業蔵は漆器生産で生計を立ててきた木曽平沢を特徴付ける建物と言えます。

塩尻市木曽平沢伝統的建造物地区は、近世後期の地割をよく残すとともに、近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となって、漆器生産の町としての特色ある歴史的風致を良く伝えています。このことが評価され、平成18年7月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。」

10:05 諏訪神社
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右の道に入ったのですが、どうも違うみたいです。
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中山道ではないみたいですが、方向は大丈夫そうなので、この道をこのまま進みます。
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10:13 旧平沢村
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古い面影を遺す素敵な町並み。ほとんどが漆器店です。
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10:21 津島神社
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10:25 漆器店の先から、右斜め下り坂へ
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10:26 JRのガード下を潜りました。
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【土手の道】

10:27 土手の道
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10:31 対岸に、橋戸の一里塚跡
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10:34 楢川小学校の裏側
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11年前に来たときには、遠くから楢川小学校が見えて、正面側から見ることが出来たのに、今回はたどる道が違うみたいです。

私が間違えたのか、ガイド本が変わると、大筋は同じ道でも、少しずつ違う道が紹介されているのか、どうなのかなあ。

奈良井川橋が見えてきました。
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10:38 自然石の道標
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10:38 奈良井川橋を渡ります。
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2度目の中山道15日目の2(奈良井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/15/174518

2度目の中山道六十九次歩き14日目の5(贄川宿の1)

2度目の中山道14日目の5
12月28日(土)の5


【只今の気温0℃】

国道19号線に戻り、

15:22 「只今の気温 0℃」の電光掲示
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15:25 贄川駅前の水場
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15:26 贄川駅 トイレを借りました。
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贄川メロディ橋】

15:33 メロディ橋
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鉄琴風で、叩くと木曾節のメロディを奏でます。

以前は叩くための槌のようなものがありましたが、見当たらないので、スマホの充電器で叩きながら歩きました。左側が木曾節前半、右側が木曾節後半です。

ただし、木曾節を知らないと、伸ばし方、跳ね方が分からないので、木曾節に聞こえないかも。

木曾のなー なかのりさん
木曾の 御嶽なんじゃらほい
夏でも寒い よいよいよい
よいよいよいのー よいよいよい

これが、

きーそーのーなーーあ なかのりさーんー
きーそーのーおーんーたーけー
なんじゃらほいー
なーつでーもー さーむーーい
よいよいよい
よいよいよいのー よいよいよい

こんな感じかな。

10年前に来たときには、小学生の女の子が叩いて見せてくれました。

今日は他に誰もいない。

ところで、贄川メロディ橋は、実は老朽化で解体が予定されているらしいのです。

市民タイムスより

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塩尻市は本年(2019年)度、贄川のJR中央西線をまたぐれんが造りのアーチ橋「メロディー橋」の撤去方法の検討を始める。明治42(1909)年に建設されて老朽化が著しく、れんがが貨車に落ちる事故も起きており対策は急務だが、撤去するには工法の難しさや巨額の費用といった課題がある。

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この記事に、「れんが造りのアーチ橋」とありますが、自分で渡っていると、そうは見えないので、ネットから写真を拾ってきました。こんな橋なんだ!
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メロディ橋に掲げられた木曾節の歌詞前半
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「木曽の ナー 中乗りさん
木曽の御嶽 ナンチャラホイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ

袷 ナー 中乗りさん
袷やりたや ナンチャラホイ
足袋そろえて ヨイヨイヨイ

木曽の ナー 中乗りさん
木曽の名木 ナンチャラホイ
ひのきにさわら ヨイヨイヨイ

ねずに ナー 中乗りさん
ねずにあすひに ナンチャラホイ
こうやまき ヨイヨイヨイ

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後半
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人は ナー 中乗りさん
人はみめより ナンチャラホイ
ただ心 ヨイヨイヨイ

心 ナー 中乗りさん
心細いよ ナンチャラホイ
木曽路の旅は ヨイヨイヨイ

男 ナー 中乗りさん
男伊達なら ナンチャラホイ
この木曽川の ヨイヨイヨイ

流れ ナー 中乗りさん
流れくる水 ナンチャラホイ
とめてみろ ヨイヨイヨイ

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木曾節の3番と4番は木曽の五木のことを歌っています。

ひのき、さわら、ねずこ、あすなろ、こうやまき

この五木のことを歌っています。


贄川関所】

15:35 贄川関所
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塩尻市観光協会ホームページより

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贄川関所

中山道の人と物の往来を監視するために置かれた贄川口留番所で、女改め、白木改めなどの役割を担った。
明治はじめに取り壊されたが、多くの文献をもとに昭和51年に復元された。
実際の場所は鉄道敷地内になっている。
中山道の交通に関わる資料などを展示。

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案内板
贄川関所

贄川関所は明治二年福島関所とともに廃止され、建物も取り壊されました。現在の建物は、寛永4年の『覚』○○○明治九年発行『贄川○誌』の『古関図』を元に復元したものです。
なお、当時の関所○○の位置より西側に○○東を向いて建っていました。 」


JAPAN WEB MAGAZINEより

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贄川駅から歩いてすぐ、中山道贄川宿の北の端にあるのが、贄川関(贄川関所)だ。木曽路の最初の宿場である贄川宿において、福島関の補助的な関所として設けられ、1869年(明治2年)に関所が廃止されるまで、江戸時代を通して女改めや白木(木材)などの流通の監視など、重要な役割を果たした。

贄川の集落は、昭和5年に起きた大火で大半が焼失。この贄川関所は、昭和51年に様々な文献を元に関所があった場所のそば(実際の場所は現在のJR敷地内)に間取りや敷地面積も忠実に復元されたもので、現在、関所関連の資料を展示するほか、階下の木曽考古館では縄文時代の土器・石器なども展示している。

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【上段の間】

見学受付は本当は15:30:までで、もう5分過ぎていましたが、もう今日が最後で明日から休業だからと、特別に案内してくれました。

15:47 上段の間
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床の間の掛け軸は杜甫の詩で、
当時のものだそうです。
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15:47 武器の部屋
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武器は押さえるもので、
脅したりはしなかったそうです。
林業の人達が使う鳶口も
ありました。

いろりの部屋
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贄川駅から帰宅】


15:58 贄川駅に戻ってきました。
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贄川駅 16:06発の予定が遅れてきて、16:08発
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16:20 塩尻着 トイレへ行って、着替えもしました。

待合室で、コナンのパンシリーズの、キッドのホワイトジュエリーパンを食べました。

車内で食べる用にキオスクでおにぎりも買いました。

塩尻発16:59

19:00頃、車内でおにぎりを食べました。

19:48 大月着 19:54発 高尾行きに乗り換え、高尾で中央線、八王子で横浜線に乗って帰りました。


2度目の中山道15日目の1(贄川宿2)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/09/225142

2度目の中山道六十九次歩き14日目の4(是より南木曽路)

2度目の中山道14日目の4
12月28日(土)の4


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日出塩前で線路を渡れなかった話】

13:06 日出塩分岐
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日出塩の桜の名所がすぐ近くにありました。

線路脇の道
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10年前に来たときは、線路左脇の道が正解だったし、ガイド本もこの道を行くように示していましたが、10年前に渡った踏切が見当たらないまま、

13:15 日出塩駅
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ここまで線路の左の道を来てしまうと来すぎなので、戻ることにしました。

13:18 以前は渡れたけれど、今は閉鎖された踏切跡
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と、この時は思って、写真1の分岐まで戻って、新しくできたらしい、線路を渡る道から日出塩に入ったのですが、日出塩の青木(洗馬の肘懸松と並び称される名所)を見ることが出来なかったのです。

しかし、後からよくよく地図を眺めると、多分もっと手前に線路を渡れる踏切があったのではないかと気づきました。

目印がオレンジのカーブミラーなのですが、行きすぎてしまった私がその先で見たのもオレンジのカーブミラーだったのです。

ひとつ前のオレンジのカーブミラーに気づいていれば、踏切も渡れたし、日出塩の青木も見ることが出来たはずです。


日出塩一里塚跡】

13:22 やり直しの道
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さっきも書いたように、本来もっと早く線路を渡れる渡っているはずでした。

先ほどは写真の左側の道(線路の左脇の道)を進みましたが、今度は写真の右の道、線路を渡る道を進みました。

13:27 日出塩一里塚跡
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日出塩の一里塚跡
木の標柱
「 一里塚跡

六十一里塚 江戸より六十一里
京へ七十一里 両側に榎を植えた 」
側面
「平成四年九月吉日 日出塩区建之 」


13:29 長泉寺
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六地蔵が笠地蔵みたいでした。
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【旧道が山の中みたいになってくる】

13:34 筆塚・道祖神秋葉大権現
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国道19号線高架を振り返る
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13:38 中北道標
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13:38 下りていく道
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【初期中山道と桜沢トンネル】

13:51 初期中山道説明板
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初期中山道

suwako.jp(諏訪湖周辺観光情報サイト)より

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初期中山道は、
下諏訪から牛首峠を通って桜沢に至るまでの全長約26kmの街道でした。
この初期中山道は作られてから約十数年で利用されなくなりました。

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案内板(右下)
「初期中山道
中山道は江戸時代の五街道の一つで、初期中山道は慶長6年(1601)に大久保長安によって整備されました。牛首峠を越し小野宿を経て三沢峠へ抜ける道が整備され、元和元年(1615)頃まで利用されました。
当時、中山道の道筋制定に当たって、長安が考えていた一つは、木曽路の山林開発を促進するための経済道路としての構想だったようであり、そのため諏訪と木曾を結ぶ近道として、下諏訪から岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、それより牛首峠を越して木曾の桜沢をくだって贄川に至る道路を選んで開削し、小野街道と称して中山道の本道としました。
長安が没すると諏訪から塩尻峠を越え塩尻に出る道路に変更され、それ以降、小野街道あるいは初期中山道などと呼び、小野を中心にして諏訪・木曾・伊那方面に往来する道路となりました。
辰野町

案内板
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「中部北陸自然歩道

木曾工芸の里峠越えのみち 17.1km

起点― 楢川村 桜沢
終点― 木祖村 藪原

沿線の風景
『是より南木曽路』の石碑が建つ桜沢は、その碑文のとおり、木曽路の北の玄関口です。そこからいくつかの集落を経ると、木曾11宿の北端で、木曽福島関所の副関として重要であった贄川宿に入ります。南へ向かうと木曾漆器の産地・平沢があり、匠の里モデル工房が7軒あります。ここでは帰そ漆器の製造行程や作品を直接見ることができ、漆器を制作する体験コースもあります。奈良井川の清流に沿って行くと木曾11宿で最も繁栄した宿場の奈良井宿があり、300年にわたる街道文化を今に伝えています。ここから鳥居峠へ登る道は、石畳の道が復元され、峠に立つと木立の間から、奈良井宿藪原宿を眼下に望み、遠くに御岳山、木曽駒ヶ岳乗鞍岳が眺望でき、まず、ここは、木曽川信濃川の支流奈良井川分水嶺です。かつては難所といわれたこの峠道も、今は歩道として整備され、どなたにでも気軽に大自然を満喫する体験ができます。峠から3km程で、藪原宿に到着します。

13:54 建設中の新トンネル(桜沢トンネル)
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私はてっきり現在トンネルを掘っているのだと思ったのですが、貫通式がつい先日、12がっかり15日に行われたそうです。まだトンネル内工事が残っており、実際に通行できるのはまだ先のようです。

このトンネルは全長1.5km、現在作っている国道19号線バイパスは全長2.1km。

現在はカーブが多く、災害時の事故も起きていますが、完成すれば直線の4車線になるそうです。


13:55 「是より南木曽路」の道路標識
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【「是より南木曽路」】

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案内板
「 是より南木曽

この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和一五年に建立。裏に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とある。 」

ここから突然山道!
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木曽路はすべて山の中

国道がはるか下に見えます。
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【山道にて】

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14:06 石塔群
三面六臂馬頭観音
明和九年(1772)建立の名号碑
道祖神

この三面六臂馬頭観音を、もっと手前にある馬頭観音と勘違いしたため、この石塔群から右下に下りて国道に出るのに、まだ山道だと思ってしまい、昔の桜沢道をしばらく歩きました。
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トンネルやガードレールや、廃バスや、ベンチも2台ありました。今の季節だから枯れ草を踏みしだいて歩けるけれど、緑が繁る季節だったら藪こぎだなあ。

この辺りの景色、好きです。
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しかしこの先、写真を撮る余裕がなくなりました。

網が張ってあって、それを避けて上へ行ってみたり下へ行ってみたり。

でも、この先とても進めないと思い、その時点では、山道を諦めて国道に出よう。正解をどなたか中山道ウォーカーにSNSで聞いてみよう、と思っていました。

14:28 旧ガードレール。
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やっと写真を撮る余裕が出来ました。この近くに廃バス。これは怖くて撮りませんでした。


三面六臂馬頭観音庚申塔

14:32 三面六臂馬頭観音まで戻ってきました。
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無事のお礼と、これからの旅の安全をお願いしました。

こちらの写真は、三面六臂馬頭観音のアップ。
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右下の急坂を下りて、国道19号線に合流。

暫くは、あの先の山道の正解を知りたくて、左上の山道ばかり見ていました。どこかに山道から下りてくる口があるのではないか、と。

でも、地図を何度か眺めるうちに、私が手を合わせた三面六臂馬頭観音から国道19号線に下りてくる道が正解で、私が暫しさ迷った山道はただの時間の無駄であったことに気づきました。

あの時、山道を諦めて三面六臂馬頭観音まで戻ってよかった!

14:43 白山神社
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14:46 庚申塔
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【旧片平村】

14:49 旧片平村への分岐
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中北道標
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14:52 旧片平村を振り返る
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14:54 桜沢トンネルの出口
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暫くは国道の歩道を歩きます。

【若神子一里塚跡と水場】

14:57 若神一里塚跡
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工事中で歩行者迂回で、遠くからしか見られませんでした。

私の写真では案内板の文字が見えないので、探してきました。

案内板
「 若神子一里塚

塩尻市指定文化財 60.3.15.
楢川村文化財(史跡)指定

一里塚は、街道の里程の目安として一里ごとに道の両側に設置された塚で、榎や松が植えられ往時の旅人の休息の場ともなっていた。
この若神子一里塚は、中山道に設けられた一里塚のうち、楢川地域内の5箇所の一里塚の内のひとつで、江戸時代には道の両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。
塩尻市教育委員会

14:59 中北道標
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旧若神子村へ
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15:01 若神子バス停の所の水場
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実際に生活に使われている、飲み水です。


【旧道を行く】

15:03 若神子の第二の水場
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15:04 石塔群
道祖神文三年(1534)建立
廿三夜待供養塔 明和二年(1765)建立
馬頭観音

15:06 Y字路の右の上り坂へ
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中北道標
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2度目の中山道14日目の5(贄川宿の1)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/07/06/182034