紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

承知川橋の記

 

案内板
「 承知川橋の記

 この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
 輝石安山岩 重量約拾参屯 
 伝説によると永禄四年武田信玄川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず 信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き『神のお告げ承知仕り候』と申上げ帰国したと言う。
 爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
 この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
 表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。 この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。

   昭和五十二年                              久保海道町 」

 

 

 

 

 

赤彦の墓

案内板
「  赤彦の墓
    徒歩約10分です。
     (上り坂300m)

  ここより300メートルほど細い道を登ると島木赤彦の墓があり、その下段には、赤彦(本名:久保田俊彦)にゆかりのある久保田家の共同墓地があります。
 赤彦が亡くなったのは大正15年3月のことでしたが、 赤彦の墓が建立されたのは七回忌にあたる昭和6年の 11月になります。墓碑銘はアララギ派歌人でもあった 日本画家の平福百穂(ひらふくひゃくすい)によるも のです。
 赤彦の墓の隣には妻であり、同じくアララギ派歌人であった久保田不二子(昭和40年没)の墓や子息の墓も建てられており、赤彦ゆかりの木である“アセビ”や“イチイ(別名アララギ)”などの木々に囲まれ、今日も諏訪湖をながめています。    」

 

 

 

 

島木赤彦住居

案内板
「 下諏訪町指定文化財
   建造物
 島木赤彦住居(柿蔭山房・赤松・胡桃)

 赤彦は明治三十三年久保田家の養嗣子となり、大正十五年三月 死去迄この家を根拠に生活したが、大正七年東京のアララギ発行所から帰郷以来ここで起居、自ら『柿蔭山房』と命名した。間口八間半、奥行五間半、士族の家作りとしても評価が高い。
 書斎は西向き八畳の上座敷であったが冬は寒く夏は暑かったので大正十四年東南の一部に日当たりのよい書斎を新築した。庭の赤松は樹齢三百年余、目通周二米(メートル) 又門口の胡桃は樹齢百三十年余、共に赤彦の特に愛惜した老木である。なお津島社前に歌碑、裏山の中腹に赤彦と夫人不二子の儚がある。

・雪ふれば山より下る小鳥多し
 障子の外にひねもす聞ゆ  赤彦

  昭和五十七年三月二十六日
       下諏訪町教育委員会  」

甲州道中五十二里塚


案内板
「 甲州道中五十二里塚

甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より三十六町(一里、約四Km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里塚とした。ここに一里塚ができたのは慶長十五年(一六一〇)頃と言われている。この塚は江戸から五十二里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。  

       諏訪市教育委員会 」

吉田のマツ


案内板
「 吉田のマツ
   諏訪市天然記念物

種名 クロマツ(マツ科)
推定樹齢 二七〇~三〇〇年(平成七年現在)
大きさ 目通り幹周1m45㎝
    地上30㎝ 幹周2m13㎝

高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(一六九〇)から享保八年(一七二三)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。代々吉田家の庭に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、市内の最年長樹である。
 クロマツの特徴は樹皮が末端まで暗黒色、下部樹皮が亀甲状に割れ、葉は濃緑色で強剛、新芽の鱗片は白味を帯びる。諏訪地方に見られるクロマツは栽植されたものである。

 指定 昭和五十四年二月十五日
       諏訪市教育委員会   」

上諏訪温泉 お手湯 上諏訪温泉と精進湯 上諏訪温泉の歴史 

案内板
「 上諏訪温泉と精進湯

  上諏訪温泉の歴史

上諏訪温泉に関する最も古い記録は、嘉禎三年(一二三七)成立とされる『祝詞段』という史料で、当時の上諏訪宿にあった神社の名前を列挙した中に『湯ノウ権現』というお宮が登場するのがそれだとされています。また、諏訪湖御神渡りを記録する『当社神幸記』嘉吉三年(一四四三)の部分に『平湯渡』と出てきます。いずれも正確な場所はわかりませんが、恐らく現在の諏訪市湯の脇付近にあったものとみられ、少なくとも鎌倉時代には何らかの温泉の存在が知られていたようです。また、市内の温泉湧出地や湧出跡から縄文土器が発見された例があり、その歴史はもっと古いという説もあります。

上諏訪宿は諏訪宿とともに温泉地として知られていました。江戸時代の儒学者貝原益軒が宝和六年(一七〇九)に書いた紀行文『岐蘇路記(きそじのき)』に『下の諏訪に温泉三処あり。上の諏訪に四所有』という一文があります。この四ヶ所とは小和田(こわた)の湯、精進湯、虫湯、湯の脇の湯のことだと考えられています。小和田の湯は温泉が豊富に湧く小和田村の中にあり、武士や庶民が利用したほか、家老の湯屋敷もありました。虫湯は高嶋城の登城口にあって、殿様も利用しました。高温で、蒸気を利用した『蒸湯』があったとみられます。湯の脇の湯も地名が示すとおり古くから温泉が豊富で、内湯のある旅籠などがありました。 」

上諏訪宿問屋跡

 

案内板
「  上諏訪宿問屋跡

 上諏訪宿は甲州道中最後の宿場であり、その中でも問屋は荷物の継ぎ立とそのための人馬を手配する所で、宿の中心であった。問屋は初めここよりも上諏訪駅側の本町にあったが、承応三年(一六五四)にここ中町に移り、貞享二年(一六八五)からは代々小平家が問屋を勤めた
 本陣は高貴な方々が宿泊するところであったが、上諏訪宿は問屋が本陣も兼ねていた。

     諏訪市教育委員会     」