紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

高山彦九郎皇居望拝之像

高山彦九郎皇居望拝之像

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案内板
高山彦九郎 皇居望拝之像

江戸時代、ここ三条大橋東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年~1793年)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
18歳の時以来、前後5回、上洛したが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
その姿は
大御門(おおみかど)その方(かた)向きて橋の上に
頂根(うなね)突きけむ真心たふと
                          橘(たちばな) 曙覧(あけみ)
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士
気概は高山彦九郎
京の三条の橋の上
遥かに皇居をネ伏し拝み
落つる涙は鴨の水アサノサ
と謡いつがれた。

京都市観光部振興課
高山彦九郎大人顕彰会寄贈 」

粟田口刑場跡

粟田口刑場跡

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案内板
「 粟田口刑場跡

この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠から続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。
元文元(1736)年には五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間には、車道(くるまみち)に車石(くるまいし)舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶応3(1867)年には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。
また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられいました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者よって、何基もの供養塔が建てられました。明治5(1872)年には、この刑場後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。
しかし、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や 現代にいたる開発によって供養塔や、経王塔が破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8〜10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6〜8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁璧には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。

九条峠町町内会・京都市

車石広場

車石広場
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車石モニュメント説明板

「平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
本事業の完成を記念して、三条通りの舗石として敷設されてきた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。

平成十六年一月 京都市

諸羽(もろは)神社

諸羽(もろは)神社
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京都Naviより

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天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。

 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。

 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。

 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。山科区四ノ宮中在寺町

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車石案内板

車石案内板

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案内板
「この車石案内板は
旧東海道をこよなく愛されている皆様に大津歴史博物館・車石研究会のご意見を参考に、お役に立てればと当家にて作成致しました。
昔この近辺には茶店や水車のある米屋が点在していました。
時代の経過で風景は変わりましたが歴史の一環として参考に為れば幸いです。
皆様の旅の安全をお祈り致します。 」

旧東海道をお歩きの皆様へ

以前この地は近江の国藤尾村横木と言われました。その横木とは牛車や大八車が泥濘で通行に大変な苦労したので、堅い丈夫な木を横に引き詰め荷車の通行に役立っていたので、その名前がついたと言われています。が荷物の重さで直ぐに取り換えなくては成らず、以後花崗岩等の石に取り換えられ車石が出来ました。」

案内板
「 車石

大津と京都を結ぶ東海大学前は、米をはじめ多くに仏者を運ぶ道として利用されてきました。 江戸時代中期の安永8年(1778)には牛車だけでも年間15,834輛の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に1万両の工費で、大津八丁筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを車石と呼んでいます。」

大津菓子調達所㈲鶴里堂(かくりどう)

大津菓子調達所㈲鶴里堂(かくりどう)

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滋賀・びわ湖観光情報より

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鶴里堂(かくりどう)という屋号は、昔、比叡山より望んだ大津の里が細長く弓形(ゆみなり)で、鶴が翼ひろげてまさに飛び立とうとする姿に似ていたことから「鶴の里」とよばれていたことに因んでいます。
大津菓子調進所という名が表す通り、京菓子と並び称された「大津菓子」の流れを伝える和菓子の老舗として、一世紀以上にわたり、東海道上京町(かみきょうまち)に店を構えています。戦時経済下も、皇室来県時の御用菓子屋として特別に砂糖の供給を受け、唯一営業を許可されておりました。釜の火を落とさずに済んだことが、大津菓子の伝承に大いに寄与したことは想像に難くないところです。誠に幸運であったと言えるでしょう。
弊舗の菓子は、大津の四季の移ろいを表現した上生菓子を中心に、全国の「音百選」に選定されている「三井の晩鐘」の伝説に因った大津干菓、御井(みい)や、伝教大師最澄縁りの比叡山の千年杉を、相伝の技を伝える本煉羊羹に映した比叡杉羊羹(ひえすぎようかん)など、大津ならではの大津菓子です。江湖各位をはじめ、御用を承る三井寺さんや近江神宮様、比叡山延暦寺様など寺社方のほか、各流のお茶人方にもご贔屓にあずかっています。

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露国皇太子遭難地の碑

露国皇太子遭難地の碑

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案内板
「 露国皇太子遭難地の碑

明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡費がサーベルで切りつけた 『大津事件』の発端となった場所。 当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。 大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。 しかし、大津地裁で開かれた大審院法定では、謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を下し、『司法権の独立』を買き通しました。

大津まちなか元気回復委員会」