2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧
案内板 「 明治天皇御膳水 江戸時代、明和九年(一七七二年)甲州街道最高地で、富士山頂を見渡すここ富士見ヶ原に、一軒茶屋が開かれて以来、原の茶屋集落が発展し、明治九年には近隣住民により森深く暗渠を通して湧水が整備され、明治十三年の明治天皇行幸に…
案内板 「 公園由来 明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。 この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌…
案内板 「 富士見町指定有形文化財 透間の馬頭観音像 ここは、旧甲州街道(道中)近くの通称観音窪と呼ばれる地籍である。 透間(とうかん)は宝永二年(一七〇五)、乙事村(おっことむら)三井伊左衛門の長男に生まれ、通称は藤助といい、晩年には茂右衛門と名乗っ…
案内板 「 この水は七里ケ岩から出る湧水であり明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。 その御膳水と、あと二箇所の湧水を使用して、明治三十九年頃、蔦木宿の街道筋に、十六箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和二十六・七年頃まで使用され…
案内板 「 甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革 蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(一六一一)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板…
案内板 「 富士見町指定史跡 日蓮上人の高座石 文永十一年(一二七四)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の…
案内板 「 町指定文化財(史跡) 山口関所跡 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(一五四六)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。『甲斐国志…
案内板 「 ③修験 智拳寺跡 山岳宗教と仏教が習合された信仰的宗教が修験である。奈良時代に役小角を開祖として始まったといわれている。室町時代には、天台宗系本山脈、真言宗系を当山脈としていた。 甲斐国誌によれば、県内の本山脈は八十五院当山脈が二百…
石碑「甲州台ケ原宿とお茶壺道中」「 甲州台ケ原宿とお茶壺道中 お茶壺道中とは、江戸時代に将軍家御用達の新茶を京都宇治から江戸城まで運んだ行列である。行列の格式は極めて高く御三家の大名行列さえ道を譲っていた。また、庶民にとってもズイズイズッコ…
案内板 「 ④ お茶壺道中と当社の由来 お茶壺道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。 行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て…
案内板 「 甲州街道 台ケ原宿 荒尾神社と田中神社荒尾神社は、もと中山の麓の根古屋にあった。祭神は罔象女命と日本武尊である。 甲斐国誌に「荒キ尾白川ニ臨ムノ意ニテ荒尾ト名付クト云」とあり、尾白川の氾濫などから村人が、台ヶ原などに移り住むようにな…
案内板 「 山梨県有形文化財 北原家住宅四棟 主 屋 桁行18.1m、梁間18.7m、一重一部二階 切妻造 銅版葺 附 表門及び両脇屋根塀 奥便所 桁行3.8m、梁間2.6m、一重 切妻造 銅版葺 主屋間の渡り廊下を含む 文庫蔵 土蔵造、桁行7.3m、梁間…
案内板 「 登記所跡 この登記所は、明治二十四年二月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するために開庁された。 はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大…