案内板
「 富士見町指定有形文化財
透間の馬頭観音像
ここは、旧甲州街道(道中)近くの通称観音窪と呼ばれる地籍である。
透間(とうかん)は宝永二年(一七〇五)、乙事村(おっことむら)三井伊左衛門の長男に生まれ、通称は藤助といい、晩年には茂右衛門と名乗った。農業を営むかたわら、近村の麻などを買い集めて、甲府の問屋などに送っていたが、後には甲府に出て詫間屋という商家の養子となり、酒・醤油などの物産商を営み、諏訪地方との交易も多かった。
同時原之茶屋付近の甲州街道は現在より西寄りを通っていたが、道路状況が悪く、ことに春先にはぬかるみおなって人馬の通行が難渋した。透間はこの改修を思い立ち、自分は甲府に住んでいたので乙事村の弟達の連名をもって藩から改修の許可を受け、安永九年(一七八〇)、私財を投じて工事を始めた。特に現在の塚平(つかだいら)から原の茶屋北口までの間は新道を開くなどして、改修工事は翌天明元年(一七八一)六月に完成した。透間は竣工にあたって、改修の記念と人々の道中安全を祈願して新道の途中に馬頭観音を建立した。これが今に残る石仏で、総高一四六センチ、二段の台石の上に三面六臂(ろっぴ)の憤怒(ふんぬ)像の観音様が安直されている。
台石の裏に
乙事村
三井伊左衛門 同 藤右衛門 同 重左衛門
同 権左衛門 五味三郎兵衛 一嶽信翁庵主
甲斐無禅透関居士
天明元辛丑六月上澣
と刻まれており、一族がこぞって改修に協力したことがうかがわれる。また、乙事三井家所蔵の諸費用帳には『馬頭観音七両二百九文石工其他共、道がかり五拾参両二分十九文、切石ツケ馬〆百一匹、人足千八百六十人、飯炊き百十二人』との記録が残されている。
平成十七年三月
富士見町教育委員会 」