紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-04-15から1日間の記事一覧

天長院

天長院案内板 案内板 「 地久山天長院(臨済宗妙心寺派)当寺の往古は、室町時代木曽家祈願所として真言宗に属し、木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてありましたが、天文年間(一五四〇~)武田軍或いは山賊の焼き討ちにより廃絶してしまったと…

岩出観音

案内板 「 岩出 観音 奉仏 馬頭観世音菩薩別名を伊奈川観音又は橋場観音といい、口伝によると三百余年前須原の一老父が馬の省を作り商いをしていた。 或日一人の威厳ある馬上の侍が馬の省を求めたが折り悪く片足分しかなかつたのでその旨を伝え、不足分を早…

常勝寺

案内板 「 常勝寺 昭和二十七年三月二十九日 重要文化財指定 嘉慶年間木曽家第十四代の源親豊公が木曽川辺りに開創し、その後木曽川の洪水による流失の後、当地に慶長三年(一五九八)に移建したものが現在の諸堂宇で、山門、本堂、庫裏何れも桃山建造物として…

須原宿枡形 鍵屋の坂

須原宿枡形 鍵屋の坂 案内板 「枡形は宿場の京方(京都側)に設けられ反乱を起こした敵を防ぐためのものである。道路を直角に曲げ、攻めにくくなっている。通称『鍵屋の坂』ともいう。須原宿の枡形は形態がよく残されており、規模も大きく枡形の典型的な遺構と…

清水医院跡と須原ばねそ発祥の地 および、須原ばねそ歌詞

清水医院跡と須原ばねそ発祥の地 案内板 「 清水医院跡文豪 島崎藤村による『ある女の生涯』の舞台となった清水(蜂谷)医院跡。 現在、明治の医院建築として、愛知県犬山市明治村に移築され保存されている。」 須原ばねそ発祥の地 おおくわナビより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓…

須原宿 脇本陣西尾家

案内板 「 旧脇本陣西尾家の沿革旧脇本陣西尾家の祖は代々菅原の民を名乗る族柄にして大永、天文年間(1522年-1554年)の頃此の地信濃の国須原に住し地域の開拓に力を尽す西尾家は木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣ととして重きを為す殊に西尾丹波守は馬術又…

須原宿について

おおくわナビより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓歴史的概要 木曽谷の中では一番古くに栄えた宿場町で須原から野尻宿までは1里24町、宿の延長は4町35間。問屋二軒・本陣一軒・脇本陣一軒・旅籠三十五軒の当時としては平均的な宿場でした。宿のはじまりは戦国時代で、正徳年間に洪…

榎と紅葉の合体木

案内板 「 榎(えのき)と紅葉(もみじ)の合体木一里塚 は江戸時代の徳川家康 のときから作られたが、そこに何か木を植えようということになり、家康の家臣が、どの木にしようかと家康に伺ったところ、「ええ木を植えよ」との答え。それが家臣には「えのき…

荻原の一里塚跡

案内板 「 荻原一里塚跡 Ogiwara Ichiri-zuka ―上松町指定文化財指定―この一里塚は、上松宿内の一里塚か らちょうど一里(約四キロメートル) 南へきた荻原集落の入口にありま した。集落の北の入口であるこの一 里塚には、左右両方とも榎が植え られていま…

小野の滝

案内板 「 小野の滝 Ononotaki-warterfall 名所 (木曽八景のひとつ)広重と英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松は、この小野の滝の絵です。 明治四十二年鉄道の鉄橋がこの上に架けられ、残念ながら往年の面影はなくなりました。 かつて…

浦島太郎伝説と寝覚めの床

長野県の情報【E-cure】より↓↓↓↓↓↓↓↓」上松町は、浦島太郎が晩年を過ごしたといわれる場所。 現世に戻って、諸国を旅した浦島太郎は、上松の里が気に入って住みつき、毎日寝覚の床で釣りを楽しんだという伝説が残っています。(中略)浦島太郎は竜宮城から地上…

臨川寺 弁財天堂

案内板 「 弁財天堂 Benzaiten-do尾張藩主四代徳川吉通が、正徳元年(一七一一年)寝覚めの地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁財天堂を建てるよう上松の役人に命じ、翌正徳二年に完成したお堂です。 現存する上松町の建築物では最も古いもので、大工…

謡曲と木曽路の寝覚の床

] 案内板 「 謡曲と木曽路の寝覚の床 木曽路随一の景勝地寝覚の床は、昔役の行者 が修行した地で、不老長寿の霊薬が採れたとの伝承から、浦島太郎 や三帰の翁 の不老長寿の伝説が生まれた。 謡曲「寝覚」では、長寿の薬を三度飲んで三度若返り千年生きたとい…

越前屋そば店

以前の越前屋そば店 現在の越前屋そば店 越前屋そば店ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓越前屋の歴史当店は寛永元年(1624年)に創業しました。現在分かっている限りで日本で二番目に古い蕎麦屋と言われております。 当時からさまざまな旅人が宿場に立寄り、立場茶…

上松宿 諏訪神社

案内板 「 諏訪神社 Suwajinja Shrineこの神社は、上松の鎮守の神様として古くからこの地にあり、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)の二神で、祭日は九月六日・七日ですが昔は七月二十六日・二十七日であったといいま…

上松宿 本町一里塚跡

案内板 「 本町一里塚跡 Honmachi Ichiri-zuka江戸時代には、本町(枡形の町並み)の角を曲がり、中町に入った所の左右の二基の一里塚がありました(碑より三十メートル下方)。 一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向かって右側を下の山と呼び、…

上松宿北入口

案内板 「 中山道上松宿北入口○上松宿高札場跡 高札場は、幕府や領主が木目田法度(はっと)や御定書(おさだめがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲示した施設で、主要な街道の交差点や村の入り口など、人通りの多い場所に設置されていました。 …

木曽森林鉄道と鬼淵鉄橋

案内板 「 木曽森林鉄道と鬼淵鉄橋 Kiso forest train & Onibuchi railway bridge大正時代になって、日本の鉄橋(トラス橋)は鋼材や製作が全て日本の技術で作ることができるようになりました。木曽森林鉄道 の鬼淵鉄橋は現存する国産最古のトラス橋だといわれ…

沓掛一里塚跡碑

案内板 「 沓掛一里塚 Kutsukake-ichirizuka …上松町史跡指定…この 一里塚は上松の北の入口である沓掛にあります。昔は中山道の両側にありましたが、明治四十三年(一九一〇年)中覆う本線の鉄道敷設工事の折に、山側(西側)の一基は取り壊され川側(東側)…

沓掛馬頭観音

案内板 「 沓掛馬頭観音 Kutsukake Batokannon霊験あらたかで有名なこの馬頭観音 の縁起によれば、昔、木曽義仲 公の名馬は、人の言葉がわかりました。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり目算で「七十三間とべ」と号令をかけました。馬は命ぜられるまま正確に…

御嶽遙拝所

案内板 「 御嶽遥拝所 木曽の路筋の内、御嶽山の仰がれるのは鳥居峠の外はこの地だけで有る。遥に王滝川の渓谷を通して仰ぐ御嶽の雄姿は其の信仰心をそそった事で有ろう。遙拝のため、鳥居が建設された此の鳥居は寛永九年壬申毀損の記録が有るから相当古くか…

ここは中平です

案内板 「 ここは中平(なかだいら)です元禄七年(一六九四)の『岩郷村御役木惣百姓中ヨリ出ス高之覚』には、中平は『長吉・長兵衛』の二人の名がでているが、享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には、中平の部落名はでてこない。明治十一年の『福島村…

塩渕(しおのぶち)の地名由来

案内板 「 ここは塩渕(しおのぶち)です 天正十二年(一五八四)の木曽義昌朱印状には、『上塩渕』、『塩渕中屋』、『塩渕彦三郎』の名がでてくる。 享保九年(一七二四)の『岩郷村家数書上帳』には『家数拾四軒塩渕』とある。 シオという地名はかわの曲流部につ…

木曽福島宿 上の段の町並み

案内板 「 古い町並みが残る上の段 古い町並みが残るこの竹を上の段という。 宿場 は江戸幕府の命により防塞の施設としても作られており、敵の進入を阻むため道を『鍵の手』に折り曲げたり、急な坂道や道の両側に石垣を作ったり、いわゆる『桝形』を設けてお…

高瀬資料館

木曽おんたけ観光局より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓関所資料館のすぐ隣りにある高瀬資料館は、江戸時代の侍で、薬「奇応丸」を製造していた武士の家であり、文豪・島崎藤村の姉が嫁ぎ、小説「家」のモデルとなった旧家です。 写真や手紙など藤村関係の資料の他、薬の製造に使…

木曽福島関所跡

文化遺産オンラインより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓福島関跡福島関跡は、木曾谷のほぼ中央、駒ヶ岳の北支脈が木曾川に迫る突端の根の井山(関山)麓の崖上に所在する。明治以降の文献資料や写真等を総合すると、国道の改修、JR中央線の開通や宅地化により、その面影はほと…

出尻の一里塚跡

日野製薬ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 2013.03.09出尻一里塚跡の石碑除幕式 国道19号の坂道を少し上がって行ったら、石碑があり、参列者と新聞記者が集まっていました。しばらくしたら、石碑に刻む銘文の最優秀作品を書いた小椋春奈さんとご家族の方たちが来…

手習神社

案内板 「 手習(てならい)天神このお宮は、古くは山下天神と呼び、 木曽義仲を養育した中原兼遠(かねとお)は義仲の学問の神として 勧進したものと伝えられます。 源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し、 養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で…

石作 駒石(いしづくり くいし)

案内板 「 石作 駒石 (いしづくり くいし)寛保元年(1741)山村代官家臣井沢喜兵衛の二男で生まれる。名前を貞(てい・貞一郎)字(あざな)は士幹(しかん)。後に姓を石作と改正し、号を駒石とした。18才の時父が亡くなり家を継ぎ、良由(たかよし・蘇門)御側役(お…

中山道中間地点

案内板 「 中山道中間点ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方 から六十七里ニ十人町(約二六六キロ)に 位置しています。 中山道は、東海道とともに江戸と京都を 結ぶ二大街道として幕府の重要路線で あったことはいうまでもありません。 木曽路というと深…