案内板
「 甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革
蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(一六一一)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄十五年(一七〇二)、延享三年(一七四六)、明和八年(一七七一)、寛政六年(一七九四)、文化六年(一八〇九)、元治元年(一八六四)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。
この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治四十年(一九〇七)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和五十年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(一八四六)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。
この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治三十八年(一九〇五)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(一九九〇)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。
かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(一九九二)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。
本陣表門の構造形式(概要)
棟門、銅版葺、背面腰高片袖付、支柱付、西側面袖塀付、平面桁行一間半、一間菱格子付板扉内両開、半間潜板扉内開、軸組土台に柱を立て上部を棟木で繋ぐ、一軒疎垂木、妻千鳥破風造り、屋根銅版葺に樋棟を乗せて、中陰蔦紋で飾る。
平成六年三月吉日
富士見町教育委員会
上蔦木区 」