案内板
「 芭蕉の句碑
早苗にも 我色くろき 日数かな はせを翁
松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が、「おくのほそ道」紀行において、白河を越えて詠んだ句である。葉の色が若々しい早苗の時期でありながら、自らは旅立ち から日数を経て、日焼けで黒くなっているという様子を詠んでいる。
この句は、芭蕉に同行した曽良の「俳諧書留」に記されている。
芭蕉の百五十回忌である天保十四年(一八四三)に、乙丸(白河藩士太幡六郎)ら、白河の俳人によって建立された。
宗祇(そうぎ)戻しの碑
室町時代の連歌師、宗祇(一四二二~一五〇二)にまつわる伝承の碑である。
文明十三年(一四八一)、白河の領主結城政朝(ゆつきまさとも)は一日一万句の連歌興行を催し た。参加しようとした宗祇はここで会った女性に興行の終了を告げられ、ここか ら引き返した。その際、戯れに宗祇が女性の持つ綿を売るかと聞くと「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかと言えるわたはありけれ」と、「売るか」と「胰(うるか)、(鮎のはらわた)、「綿」と「腸」を掛けた歌で返された。宗祇は、奥州では庶民 でも即興でこのような歌を詠めることに感心したという。
また、芭蕉の門人、曽良の日記では別の内容が伝わる。連歌興行で句が難しく、続く句が三日出なかったのを、白河にいた宗祇が聞きつけ会場に向かうと、この 地に現れた女性が自分が解決したと言い姿を消し、宗祇もこの場を去ったという ものである。道路改修によってこの場所が忘れられることを惜しみ、昭和九年 (一九三四)に白河川柳能因会によって建てられた。
白河観光物産協会 」