紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

松尾芭蕉七泊八日の旅日記

 

芭蕉七泊八日の旅日記

 

 元禄二年(一六八九)の 春、俳人松尾芭蕉は、門人・河合曽良とともに、 江戸深川から、大垣まで 六百里(约二四〇〇キ口)に亘る「おくのほそ道」の 旅に出ました。

 芭蕉四六歲、曾良四一歳のときです。

  行程のほとんどが未知 の地であり、心許ない旅立ちでしたが、敬慕する 西行や宗祇、義経など先 人の跡を追い、己の俳諧を突き詰めてみたいとい う思いに突き動かされたのでした。

 芭蕉は、みちのくの玄関口、白河の関を越え、途中、阿武隈川を渡り、磐梯山を仰ぎ見ながら、四月二十二日(陽曆六月九日) に須賀川に入り、かつてから親交のあった知人、 相楽等躬宅に草鞋をぬぎ、八日間滞在しました。 

 等躬は、須賀川宿の長であり、問屋業を営んで おり、須賀川俳壇の中心的人物でもありました。 

 当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として経済的、文化的にも繁栄 をきわめており、多くの俳人を輩出し、今もなお、俳諧文化が受け継がれて います。


曾良旅日記による芭蕉八日間の足跡

四月二十二日(陽曆六月九日)

須か川、乍单斎宿、俳有。

 須賀川に入った芭蕉たちは本町の相楽等躬(本名・伊左衛門 )宅に辿り着いた。

 その夜、芭蕉曽良、等躬の三人による三吟歌仙の会をもうけた。芭蕉は、みちのく入りの感慨を込めた「風流の初やおくの田植うた」を詠んでいる。

風流の初やおくの田植うた

 

四月二十三日(陽曆六月十日)

同所滞留。

晚方へ可伸二遊、 

帰ニ寺々八幡ヲ拝。

 夕方に等躬屋敷の一隅に庵を 結ぶ隠遁僧・可伸(俗名、梁井 弥三郎 俳号、栗斎)を訪ね た。

 芭蕉は隠棲する可伸のつまし い生き方に共感を持ち、翌日可 伸の草庵で歌仙の会を催す約束を交わして、帰りに近隣の寺や八幡社などを参拝した。


四月二十四日(陽曆六月十一日)

主ノ田植。昼過ぎより可伸庵ニテ会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。

 この日は、等躬宅の田植の日であった。 昼過ぎより、須賀川俳人たちが芭蕉たちを迎え、可伸の草庵にて七人による歌仙の会がされた。

 この歌仙で、芭蕉は「かくれ 家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠み、この句は後に「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と推敲 される。

 俳席のあと、等雲(吉田祐碩)による蕎麦きりの振る舞い を受けた。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


四月二十五日(陽曆六月十二日)

主物忌、別火。

 二十五日は等躬宅の物忌の日で、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないように 別におこした火を使用するのが習わしだった。


四月二十六日(陽曆六月十三日)

小雨ス。

 小雨模様のこの日は、芭達 は、江戸の杉山杉風宛に旅の状況を認めた書簡を送っている。


四月二十七日(陽曆六月十四日)

曇。

三つ物ども、芹沢ノ滝行。

 二十七日は曇りであった。芭蕉、等躬、曽良による二つの「三つ物」(発句・脇句・第一 旬から成る)『四句』の俳席が もうけられた。その後、芹沢の滝を訪れている。

 

四月二十八日(陽曆六月十五日)

発足の筈定ル。矢内三参良来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅 へ行テ及暮。十念寺諏訪明神へ参詣。朝之内、曇。

 二十八日は出発の日であったが、地元の俳人たちの勧めで、郡山への途次 石河の滝(乙字
ケ滝)に立ち寄ることにした。

 しかし、雨が降り続いていたために水かさが増し、川の徒渡りが難しいことから出立は翌日 に延期された。

 同日、矢内彦三良宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十 念寺、諏訪神社(神炊飯神社)に参詣した。


四月二十九日(陽曆六月十六日)

快晴。

巳中剋、発足。石河滝見二行。

 二十九日は快髄の空のもと、 用意されていた馬にまたがり、等躬宅を後にした。

 途次、「乙の字」の形をなし て雄壮に流れ落ちる乙字ヶ滝(石河の滝)を眺め、郡山へ向かった。


五月雨の滝降りうづむ水かさ哉