案内板
「松尾芭蕉は元禄二年四月五日(陽暦五月二十三日 一六八九年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと、人々をいざない山道を賑やかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。
『おくのほそ道』に『かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば石上(せきしゃう)の小庵(せうあん)岩窟にむすびかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
木啄(きつつき)も庵(いほ)は破らず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し』とある。
仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったという。また参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に『たて横の五尺にたらぬ草の庵(いほ)むすぶもくやしあめなかりせば』があり、芭蕉が山居の跡をみようとしたいわれの歌でもある。
芭蕉は、樹下石上の小庵をなつかしみつつ、さすがの木啄も、この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬという礼讚(らいさん)の歌を柱に残して惜別した。
芭蕉の里 くろばね 」