紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き25日目の3(垂井宿から関ヶ原宿への道)

二度目の中山道25日目の3
2020年10月12日(月)


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【松島稲荷神社】

8:55 前川橋
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8:57 松島稲荷神社
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案内板
「 松島稲荷神社 の由来

祭神 倉稲魂命
創建 天保十年(一八三九年)
祭事 初午 三月第一日曜日
越 年 篝 火
 稲荷は古くから、農耕の神であった。松島稲荷の本社は伏見稲荷 である。この稲荷社は古代に、全国の開拓をすすめた渡来豪族の秦氏 が建てた。それからずっと今も商工農など、ひろく人々の信仰をあつめている。
 その昔、稲荷神の別の名を御饌津神といい、三狐神とも書いた。また『神仏は同じ』の考えから、稲荷神は狐の霊の茶枳尼天 という仏だといわれた。こうして中世になると、狐は稲荷明神の使いと信じられるようになった。
 松島は江戸期に、中山道の松並木沿いの小さな村であった。昔は限られた土地や小村を、島と呼んだ。その美しい『松のある島』松島に、伏見稲荷をお迎えし、お祀りしたのである。

平成十九年三月吉日 」

9:04 JR東海道本線出屋敷踏切を渡りました。
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日守歩道橋は工事中で中が狭かった。(ちょっと冒険っぽくてワクワクしました。)
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9:10 地蔵堂
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【日守の茶所

9:10 日守の茶屋
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案内板
「 日守の茶所

江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中がを通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。
また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。
垂井町


【垂井一里塚跡】

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案内板
「 史跡 
垂井一里塚 

昭和五年十月三日指定

 徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六〇四)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四㌔弱)ごとに、五間(約九㍍)四方、高さ一丈(約三㍍)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで二基ずつ築かれた。
垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。
旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれとの二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。


関ヶ原の戦い
浅野幸長陣跡

 幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。
戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

平成十八年十一月

垂井町教育委員会

垂井一里塚跡
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浅野幸長陣跡
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9:15 日守西交差点を渡りました。
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見覚えのあるカーブ
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9:18 「ここは中山道垂井宿」
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9:19 「是より中山道(関ヶ原宿野上)関ヶ原宿」標柱
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9:27 伊富岐神社
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この辺りは、松の木が冠木門みたいです。
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9:31 野上「七つ井戸」
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案内板
「 野上『七つ井戸』

 ここ野上は、中山道:垂井宿 と関ケ原宿 の間の宿でした。江戸時代の頃から、僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に利用されてきました。街道筋の井戸は『野上の七つ井戸 』として親しまれ、旅人には、喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったでしょう。近年は、水道事業が整備されて放置されてきましたが、先人が残した遺産の再発見の見地から休息所を兼ねて修
復・再現しました。
 この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができます。但し、飲まないで下さい。また、汲む時は安全に充分ご注意下さい。 」

野上「七つ井戸」の案内板の下に、道標がありました。

壬申の乱(672年)
大海人皇子行宮跡(推定地)
↓南へ300m 徒歩5分 」

「 しゃもじ塚平安中期の豪族
平忠常の墓(1031年)
↑北へ150m 徒歩3分
(JR踏切東) 」

ここを通るのは3回目なのですが、今まで大海人皇子行宮跡もしゃもじ塚も行ったことがなかったので、今日は行ってみることにしました。

まずは大海人皇子行宮跡へ。新幹線の高架橋をくぐり、さらに奥へ奥へ、山に入って行きます。
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9:38 野上行宮(のがみあんぐう)跡
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案内板
「 野上行宮跡

 古代最大の内乱と言われる壬申の乱
(六七ニ)において、大海人皇子は野上
の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地に
行宮を興して本営としました。
この地は高操にして、眺望良く、朝
鮮式土器も出土しています。乱後行基
が行宮廃材で南方六坊を建てたという、
ここ別通称寺社屋敷が、行宮跡地と伝
えられています。

関ヶ原町 」

中大兄皇子は粘着質の性格、大海人皇子は竹を割ったような性格だったそうで、私は大海人皇子贔屓です。
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学生時代に指導教授から、壬申の乱の道を歩きませんか?と誘われ、いつか行きたいと思いつつ、結局行かなかったことを、中山道を歩きながら後悔しました。

一旦、野上「七つ井戸」に戻り、今度は北側へ。

畑の中の狭い道をくねくね行くと、越保踏切。

踏切前に手作りの案内板がありました。
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案内板
平安時代の上野介、平忠常の終焉の地『おしゃもじ塚』

平安中期、東国の上野介に任命された平忠常安房国司を殺害、房総半島を手中にし国家に反抗しました。朝廷は忠常討伐隊を派遣し3年に及ぶ戦闘の末、ついに忠常は降伏し、都に護送されることになりました。途中、病にかかり何も口にすることができないまま、野上の地に着きました。哀れに思った住民が食べ物を『しゃもじ』にのせ、差し出すと忠常は一気に食べそのまま息を引きとりました。
野上の住民はここに塚を築いて弔いました。
以来ここを『おしゃもじ塚』と呼び、毎年地元で供養をしています。 」

9:51 おしゃもじ塚
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おしゃもじ塚から少し離れた辺りに一群彼岸花が咲いていて、おしゃもじ塚を見守るようで、もののあわれを感じました。
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9:57 野上「七つ井戸」に戻りました。
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二度目の中山道25日目の4(関ヶ原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/14/090155


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003