紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-04-16から1日間の記事一覧

赤いよだれかけ

「日本文化研究ブログ Japan Culture lab」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓よくお地蔵さんには赤いよだれかけがかけてあったり、お菓子がお供えしてあったりします。お地蔵さんは子供を守る神様として信仰される事が多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけを奉納…

藁馬の「いんきょ」

藁馬の「いんきょ」 妻籠観光協会ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓おみやげ・特産品「いんきょ」いんきょオリジナル民芸藁馬は、専用田からの藁と稲穂を使い動きのある藁馬を一つ一つ作りあげています。又体験学習、各地発送も致します。最近では祝馬、花馬、香り…

尾又 おしゃごじさま

尾又 おしゃごじさま 案内板 「 尾又(おまた) 木曽路(中山道)から、伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝曆年間(一七六〇頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南…

寺下地区の復元保存工事

「 寺下地区の復原保存工事妻籠宿 は全国でも初めての集落保存に着手し、長野県の明治百年記念事業として、昭和四十三年から四十五年にかけて寺下地区を中心に二十六戸の解体復原工事等を実施した。これによって江戸時代の面影をそのまま残すことができた。…

ふじさん柿 「つとっこ」

妻籠観光協会ブログ2014/11/6↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓熟すまでお待ち下さい。……「つとっこ」 今日も穏やかな秋晴れの妻籠宿となりました。スッキリ晴れた青空がとても気持ちのいい朝です。しかし土曜日からお天気も下り坂になるようです・・・近頃、何故か週末にかけてお…

妻籠宿 寺下の町並み

案内板 「 ー寺下の町並みー妻籠宿 は全国で初めての集落町並み保存に着手し、昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、江戸時代の面影を残すことができました。生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、学者の三者一体で始めたとこ…

妻籠宿 延命地蔵堂

案内板 「 延命地蔵堂享保十年(一七二五)の書上げには、『地蔵堂』と記されている。堂内には直径が二メートルほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化十年(一八一三)五月十日頃、河中(蘭〔あららぎ〕川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石…

妻籠宿 寒山拾得

案内板 「 石仏「寒山拾得」像 この石仏は、昭和五十九年の長野県西部大地震で、石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な像が彫られているので、道祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀ってきた。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積み直された…

妻籠宿 枡形と町並みの保存

案内板 「保存の原点『寺下の町並み』この先50m枡形 徳川家康が慶長6年(1601)に宿場を制定した際に、外敵の侵入を少しでも遅らせるために設けた構造物です。全国に先駆けて 町並み保存に取り組んだ妻籠宿。その保存工事が最初に行われた寺下地区は、この先で…

妻籠宿 観光案内所

観光案内所 「ぶらり南木曽」(南木曽町観光協会HPより)↓↓↓↓↓↓↓↓↓観光案内所 観光案内所の建物は、明治30年に旧吾妻村警察署として建てられたものです。その後旧吾妻村役場、南木曽町役場吾妻支所として使用されていましたが、昭和54年に無料休憩所・観光案内…

妻籠宿のギンモクセイとキンモクセイ

妻籠のぎんもくせい 妻籠観光協会公式Webサイト(ブログ)より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓妻籠観光案内所横の階段を上まで上がると「ギンモクセイ」の老木があります。この木は長野県の天然記念物に指定されていますよ。開花は9月下旬から10月初旬。白くてかわいらしい小さ…

郵便局と郵便資料館

郵便局と郵便資料館 案内板 「 妻籠郵便局と 郵便史料館 妻籠郵便局は、明治六年三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。 当時の取扱所は、本陣にありました。その後、名称も場所も変わりましたが、現在のところに移ったのは、昭和五十四年一月です。 …

妻籠宿 島崎本陣跡

島崎本陣跡 案内板 「 妻籠宿本陣妻籠宿の本陣は代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から『ぬい』が馬籠の正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤…

妻籠宿 人馬会所

人馬会所 案内板 「 人馬会所(じんばかいしょ) 問屋場(とんやば) 宿場には、公用の旅客に人馬を提供するのが第一の仕事でした。妻籠宿には、本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交替で勤めました。 人馬会所には、問屋、年寄(としより)、帳付(ちょうづけ)、…

妻籠宿 林家住宅

林家住宅 南木曽町観光協会公式ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓◆妻籠宿「林家住宅(はやしけじゅうたく)」国の重要文化財に平成13年6月15日付で南木曽町博物館で「脇本陣奥谷」として公開されている「林家住宅」の主屋、文庫蔵、土蔵、侍門が国の重要文化…

妻籠宿 奥谷脇本陣跡

案内板 「 南木曽町(なぎそまち)博物館脇本陣跡奥谷(おくや)(国重要文化財) 木曽檜をふんだんに用いて、明治 十年に建てられた豪壮な建物です。 同13年には明治天皇の御小休所(お こやすみしょ)になりました。島崎 藤村の詩「初恋」に詠われたおゆふ さんの…

妻籠宿と馬籠宿

妻籠宿と馬籠宿yawamelogより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓現在、妻籠宿は長野県木曽郡南木曽町にあります。また、馬籠宿は岐阜県中津川市にあります。馬籠宿の方もかつては長野県にありましたが、2005年に超県合併が行われた際に岐阜県に編入したそうです。 かつては、江戸と…

妻籠口留番所跡

案内板 「 口留番所跡江戸時代の初期、このあたりに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。 従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された 正保三年(一六四六)と推定される史料に、『妻子(隠)…

妻籠宿 鯉ヶ岩

案内板 「 鯉ヶ岩の由来昔当地(妻篭)城山に木曽義仲の後裔義昌が砦を築いていた其頃武将が此の岩の附近で恋の物語をさヽやきたりと云ふ伝説あり其後部落の地名も恋野となり現在も其の儘残っている中仙道筋の旅人を驚かせたり悦ばしたりしている 信濃道中記 …

妻籠宿 御宿大吉

御宿大吉 御宿大吉ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓信州木曽・妻籠宿。その 宿場街のにぎわいからほんの少し離れた街道筋に御宿 大吉はあります。通りから見ると平屋と見まがうそのたたずまいは、木曽には多く見られるかけや造りの二階建て。格子窓、くぐり戸、吊…

妻籠城址(県史跡)

案内板「 妻籠城址(県史跡)妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝(たかかつ)が籠って、…

妻籠宿 郷土環境保全地域

案内板 「 妻籠宿 郷土環境保全地域 この地域は、中山道妻籠宿周辺一体の歴史的自然環境を守るために指定されたものです。 南木曽町の林家住宅、藤原家住宅、妻籠のギンモクセイなどは、県の文化財に指定されています。 優れた文化財と一体となったこの自然…

良寛碑

案内板 「 良寛碑 木曽路にて この暮れの もの恋しさに わかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも この歌は手まり 上人と言われた 良寛が木曽路 を通った折に 詠まれた二首の 内の一首です。 」 碑面 「 幾そち耳天 この久礼乃 毛の可奈之起耳 和可久さの 川ま…

上久保の一里塚跡

案内板 「 上久保の一里塚(町史跡) The Milestone of Uwakubo一里塚 は、慶長九年(1604)から一七年(1612)にかけて、一里(約四粁)ごとに築造されたものである。一里塚の基準は、五間四方(約九米)、高さ一丈(約三米)で、塚上に榎や松を植えた。街…

袖振りの松の水舟

案内板 「『 袖振りの松』の水舟木曽義仲 が弓を射るのに邪魔となった松を巴御前 が袖を振り、なぎ払ったと云われる「袖振りの松」は、松くい虫の被害により平成二十一年に伐採されました。 この松は、地域の皆さんにより、長さ約七m という通常の倍以上の大…

かぶと観音

案内板 「 南木曽町史跡かぶと観音 かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曽義仲 が、以仁王や源頼政の平家打倒の呼び掛けに応じ、治承四年(一八O)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷 の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建…

南木曽SL公園

案内板 「 SL公園 機関車D51351機関車は昭和15年3月から30有余年の長い間日本海沿いに、或いは中央西線木曽谷沿いに走り続けて地域の産業経済文化等の発展に多大な貢献をして来ましたが、国鉄の近代化(電化)に伴って廃車となりました。 この馴染み深い『デゴ…

園原先生碑

案内板 「 園原先生碑園原旧富(ふるとみ)は、三留野村和合(わごう)の東山神社の神官の家に元禄十六年(一七〇三)に生まれ、長じて京都に遊学し、吉田兼敬(神祇管領長)に師事して神学を学び、『神学則』を著すまでになった。その後も『木曽古道記』『神心問答…

三留野宿本陣跡

案内板 「 三留野宿本陣跡この長野地方法務局南木曽出張所跡地は、三留野宿本陣があったある。本陣の建物は、明治十四年七月十日の三留野宿の大火災の際焼失してしまった。ちなみにこの時の被害は、家屋七十四軒、土蔵拝見に達した。 しかし、庭木の枝垂梅(…

三留野宿脇本陣跡

三留野宿脇本陣跡 案内板 「 三留野宿脇本陣 木曽十一宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ置かれていた。本選は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。 脇本陣はその名の通り凡人を補完するためのもので…