案内板
「 八幡大神社
所在地 本庄市大字牧西五五七番地
祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)神功皇后・中比売神(なかつひめのかみ 応神天皇后)の三柱
当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(一四七一) 五十子合戦(いかつこかっせん)のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(一六一二)ごろ信州佐久群依田荘(よだそう)の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田(しんでん)五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神饌幣帛料共進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)の指定があった。
なお、当社奉納の宮崎組神楽(かぐら)は、市の指定文化財になっている。
この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており神を喜ばせる舞楽(ぶらく)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起こりについてはまだ明らかではないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(一七一一年〜一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(ざ 出し物)は今二十五座伝えられている。
昭和六十一年三月
埼玉県
本庄市 」