紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

諏訪大社下社春宮

諏訪大社下社春宮】

結びの杉
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案内板
「この杉の木は先で二又に分かれているが、根元で一つになっていることから『縁結びの杉』と呼ばれている。」

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案内板
「 神楽殿

御神前に御神楽を奉納するための建物で落成は江戸時代前期天和年間(一、六八一~一、六八四)ころのものである 」

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案内板
上諏訪神社(末社)

御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
上の諏訪つまり上社の神をお祀りしている
例祭日 七月十五日 」

若宮社 案内板、写真が不鮮明で読めません。


春宮一之御柱
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案内板
御柱(おんばしら)

御柱は寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられるご神木で社殿の四隅に建立されています。この春宮一之御柱は長さ十七米 直径一米の樅の樹で霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され数十人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり次回は平成三十四寅年に行われます。

諏訪大社

平成三十四年は令和四年です。


諏訪大社下社春宮 幣拝殿・左右片拝殿
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案内板
「 下社重要文化財建造物

春宮
幣拝殿・左右片拝殿
(昭和五十八年十二月二十六日指定)

秋宮
幣拝殿・左右片拝殿
楽殿
(昭和五十八年十二月二十六日指定) 」

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案内板
諏訪大社下社春宮
幣拝殿・左右片拝殿
重要文化財
昭和五十八年十二月二十六日指定

諏訪大社建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祀り、上社は建御名方神(彦神)を、下社は八坂刀売神(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・切妻造、平入の簡素で古風な形式をもち、寅申の七年ごとの御柱大祭で新築する式年造替制度がとられている。右のような社殿形式は諏訪大社に特有なものであり、またその幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は、安永八年(一七七九)に完成したと考えられる。大工棟梁は、高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(延享四年・一七四七~寛政十二年・一八〇〇)であった。
幣拝殿は、間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設ける。二階は四方が吹放ちで、屋根は切妻造、平入の檜皮葺で、正面は軒唐破風をつける。
左右の片拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は、片流れの檜皮葺である。
幣拝殿の建築様式の特徴は、各所につけられた建築彫刻の数の多さと躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子・唐破風内部の飛竜・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。

信濃國一之宮 諏訪大社
下諏訪町教育委員会