紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-03-30から1日間の記事一覧

新町 八坂神社

案内板 「 新町 八坂神社八坂神社は、明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主(いりしおみ)が新羅国(しらぎ)牛頭山(ごずさん)に祭られる素戔嗚尊(すさのう)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造…

中山道案内板

案内板 「 中山道中山道は江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。 金窪村(現上里町字金久保)は、江戸から二十三里余。文政期(一八一八から)の家数は一六二軒。絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路がで…

畑時能供養祠 陽雲寺

案内板 「県指定旧跡 畑時能供養祠一基 昭和三十八年八月二十七日指定 参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能(はたときよし)の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方…

金久保神社

案内板 「 金久保神社 1962年2月22日指定 上里町指定文化財金久保神社は大永5年(1525) 金窪城主斉藤盛光が 鎌倉の鶴岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、 神流川合戦で金窪城の落城とともに焼失しました。その後、 元和年間(1615~24)に 村民よ…

泪橋 石碑

石碑 「 泪橋の由来此の地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先 仲山道に、泪橋なる橋ありき。 昔徳川幕府は、大名諸役等通行の砌、 街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり。 農繁期の最中に又酷寒風雪の日にも伝馬の人々この橋に憩い、家族を偲び身のはかなさを嘆じ…

浅間山古墳

案内板 「 浅間山古墳(せんげんやまこふん)町指定文化財 昭和37年2月22日指定浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は直径約38メートル、高さ約6メートルの円墳と考えられます。主体部は…

金鑚神社

案内板 「本庄新八景 本庄まつりと金鑚神社十一月二日、三日に行われる本庄まつり、山車の引き回しは北関東随一といわれる豪華なもので、本庄市民の自慢の一つだ。金鑚神社は第二十九代欽明天皇のころの創建と伝えられ、社殿は極彩色つるし塗りの権現造りで…

蔵の町本庄

「彩の国 埼玉」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓これらの蔵は明治43年から平成21年まで酒問屋小森商店の本庄支店の蔵として使われていた。 小森商店は本店は騎西にあり、現在は株式会社釜屋として埼玉の地酒で有名な「力士」を販売している。 一の蔵(板張り、元は黒漆喰)は…

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

案内板 「 国有形登録文化財 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫この建物は、明治二十九年に建された旧本庄商業銀行の寄棟(よせむね)瓦葺二階建煉瓦造の倉庫です。かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄…

傍示堂跡

「彩の国 埼玉」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓傍爾堂村(本庄市傍示堂) ちょっと変わった地名である。 傍爾堂村から中山道は大きく南に道をとるが、ここから北西に分岐する街道は、上野国の前橋・沼田を通って越後方面へと達していた(五料道)。 傍示とは境界を示すこと…

金鑚神楽(かなさなかぐら)宮崎組

案内板 「 本庄市指定文化財 金鑚神楽(かなさなかぐら)宮崎組神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話がその起こりとされており、神を喜ばせる舞楽(ぶらく まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽 宮崎組についてはまだ明らかで…

宝珠寺

案内板 「 宝珠寺所在地 本庄市大字牧西五三九番開基開山年代は不詳。延命山地蔵院宝珠寺と称し初代廣源(こうげん)は寛永十二 年(一六三五)三月二十三日示寂(しじゃく)している。慶安二年(一六四九)八月 二十四日には徳川三代将軍家光より御朱印石高一〇石を…

本庄市 八幡大神社

案内板 「 八幡大神社所在地 本庄市大字牧西五五七番地祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)神功皇后・中比売神(なかつひめのかみ 応神天皇后)の三柱当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡…