紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

金鑚神社

f:id:asiandream0804:20210330104521j:plain
案内板
「本庄新八景
本庄まつりと金鑚神社

十一月二日、三日に行われる本庄まつり、山車の引き回しは北関東随一といわれる豪華なもので、本庄市民の自慢の一つだ。金鑚神社は第二十九代欽明天皇のころの創建と伝えられ、社殿は極彩色つるし塗りの権現造りでおごそかに鎮座している。 」

f:id:asiandream0804:20210330105109j:plain
案内板
「 金鑚(かなさな)神社
所在地 本庄市千代田三―二

金鑚神社の祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおとみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)の三神である。
社伝によると、創立は欽明天皇の二年(五四一)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。
境内はケヤキイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(一七二四)、拝殿は安永七年(一七七八)、幣殿は嘉永三年(一八五〇)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺(のぶみね)の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。

昭和六十年三月
埼玉県
本庄市

f:id:asiandream0804:20210330105157j:plain
f:id:asiandream0804:20210330105220j:plain
案内板
「 鎮守の森のご案内 その1

クスノキ[楠・樟]

クスノキ科 ニッケイ

埼玉県指定文化財で御神木。
樹齢はおよそ400年で、幹周りは6m、樹高は約 30m,四方へ約15mずつ平均に伸びた堂々たる 風格を持っている。当地が生息の北限で、県内巨木誌にも掲載されている。

本庄市総鎮守金鑚神社氏子総代会
鎮守の森を守る会
平成25年設置 」

f:id:asiandream0804:20210330105247j:plain
f:id:asiandream0804:20210330105317j:plain
案内板
「 埼玉県指定文化財(記念物・天然記念物)

金鑚神社のクスノキ

昭和四十四年三月三十一日指定

金鑚神社のクスノキは、本庄城主であった小笠原信嶺の孫の政信が、寛永一六(一六三九)年、金鑚神社の社殿を寄進した際に献木したものと伝えられます。
樹高約三〇メートル、目通り幹周約六メートル、根回り一〇メートル、枝張りは南北三三メートル、東西三〇メートルの 大きさがあり、樹齢は約三五〇年と推定されています。
生育環境が良好に維持されているため、現在も樹勢が盛んで、枝が大きく広がり、美しい樹形を保っています。
県北地方においては、暖地性のクスノキの巨樹は希少で、神社の御神木として大切に管理されています。

令和元年十二月二十日

埼玉県教育委員会
本庄市教育委員会

f:id:asiandream0804:20210330105350j:plain
f:id:asiandream0804:20210330105424j:plain
案内板
「鎮守の森のご案内 その2

カヤ[榧]

イチイ科 カヤ属

本庄市指定文化財、江戸時代初期の寛永16年 (1628年)頃、社殿新築を記念して植えられたク スノキ、モミと共に鎮守の森を形成している。 残念ながらモミは平成の初めに枯れてしまった。 このカヤは樹齢約400年の古木である。

本庄市総鎮守金鑚神社氏子総代会
鎮守の森を守る会
平成25年設置 」

f:id:asiandream0804:20210330105508j:plain
案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念

金鑚(かなさな)神社 御由緒

本庄市千代田三―二―三

□御縁起(歴史)
本庄の市街地の中心部を東西に貫く県道勝場・本庄線は、かつての中山道である。日本橋から十番目の宿場にあたる本庄宿は、中山道最大の宿場であった。宿場の西端近くに鎮座する当社は、本庄宿の総鎮守として広く知られている。
社記によれば、当社の創建は、欽明天皇の二年(五四一)のことで、社地は日本武尊がかつて駐軍した古跡であるという。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つである児玉党武士によって信仰され、とりわけこの地を在所とした本庄氏崇敬が厚かった。
句だって天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国に伴い、小笠原掃部大夫信嶺が本庄城主となったが、同氏もまた当社を厚く崇敬し同年九月に本庄城に入るや翌十月には当社の社伝に装飾を加え、武運長久を祈願している。
小笠原氏は、信嶺の猶子信之の代に下総国(現茨城県)古河城に移封され、更にその嫡男の忠貴は関宿城に移るが、忠貴は本庄城に生まれた縁故により、当社への信仰が特に深く、寛永十六年(一六三九)に社殿の改築を行った。天然記念物として保護されている三本の神木(楠・榧・樅)はこの時植樹されたもので、忠貴はほかに自筆の額や祈願状(市指定文化財)を奉納している。
投射は明治五年に村社になったが、由緒があり信仰圏も広い故をもって、同十七年に県社に昇格した。

□御祭神
・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
・素盞嗚尊(すさのおとみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

□御祭
(以下略) 」

f:id:asiandream0804:20210330105536j:plain
案内板
「 埼玉県指定文化財(有形文化財・建造物)
金鑚神社社殿

平成二十九年三月二十四日指定

金鑚神社は、中山道本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。本庄実忠が弘治二(一五五六)年に本庄城を築いたら際に、社殿の改造と神田の寄進を行ったらと伝えられており、その後、本庄氏に代わって城主になった小笠原氏も当社を厚く信仰しました。当社には、小笠原氏が古河、ついで関宿へ転封となった後の寛永十六(一六三九)年に、関宿城主小笠原忠貴が社殿を建立した際の祈願文が残されています。
現在の金鑚神社の社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、本殿は享保九(一七二四)年、拝殿は安永七(一七七八)年、幣殿は嘉永三(一八五〇)年の建築と伝えられています。建築年代の古い本殿は一間社流造で、壁面に彩色を伴う穏やかな表現の彫刻が、空間をもたせて配置されています。建築年代の下る拝殿は、入母屋造で、力強く密度の高い極彩色の彫刻で飾られています。幣殿は両下造で、その格天井には、武正南盧や小倉紅於ら幕末期の本庄で活躍した文人たちの天井画が描かれています。
埼玉県内の近世社寺建築は、彫刻装飾を多用する点に特色がありますが、この本殿は壁面に彫刻が付く早い例で、県内における彫刻装飾の変遷を示す一つの指標として、高く評価されています。

平成三十年三月二十五日

埼玉県教育委員会
本庄市教育委員会