紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

深谷の煉瓦

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深谷市ホームページより

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「 レンガのまち深谷」のレンガ史は、渋沢栄一翁が明治20年につくった日本煉瓦製造会社(後の日本煉瓦製造株式会社)の工場に始まります。

 日本煉瓦製造会社の工場は、ドイツ人技師チーゼを招いて操業を始めました。ホフマン輪窯(わがま)6号窯、旧事務所、旧変電室、備前渠鉄橋が国の重要文化財に指定されています。現在は、市に寄贈され保存されています。

日本煉瓦製造会社でつくられたレンガは、明治時代の代表的レンガ建築である、司法省(現法務省)・日本銀行・旧東京裁判所・旧東京商業会議所・赤坂離宮・旧警視庁・旧三菱第2号館・東京大学・東京駅などに使われました。
 また、ここで製造したレンガを輸送するため、工場から深谷駅まで4.2キロメートルにわたって引き込み線が敷設されましたが、途中の福川に架けられた鉄橋はポーナル型プレートガーダー橋として現存する日本最古(明治28年)のもので、現在も大切に移設保存されています。

 深谷市では、この日本煉瓦製造会社の設立をはじめ、日本近代産業の指導者であった渋沢栄一翁の功績を顕彰するため、翁の生地に近い、下手計に「渋沢栄一記念館」を設置し、翁の肉声テープをはじめ、多くの資料を展示しています。

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JUGEM」より

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職人が遺した仕事

かつて世の中には、すご腕の技術を持った職人がいました。
人の営みの移り変わりにつれ、いつしか仕事がなくなり技の伝承も廃れました。
市井の名もない、その道の職人たちが遺した仕事を拾いました。

レンガ積み職人が遺した建造物 ~ 埼玉県編 (Ⅰ)  大きなレンガ製うだつの上がる塚本商店(深谷市

深谷市本住町の旧中山道沿いに伝統的な町屋建築にレンガの大きなうだつがある「塚本燃料商会」の建物があります。

うだつとは、町屋が隣り合って連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐために造られた袖壁をいい、レンガの防火機能をうまく利用して両側を防御しています。

塚本商店の店舗は大正元年(1912)に建てられた木造2階建てで、梁は秩父の山から切出した石を使用しているほか、うだつの側面を鉄枠で耐震補強し花崗岩の隅石を設置するという頑丈な造りをしています。

防火壁として取り付けられるようになったうだつも、江戸時代中頃になると建物の装飾としての意味合いに変容していったようです。

上方では自己の財力を誇示するかのように商家の屋根には競って立派な装飾性のうだつが上げられたといいます。ですからうだつのある家は、経済的に恵まれた裕福な家ということになります。

地位、境遇が向上しない、あるいは思うように出世しないときなどに「うだつが上がらない」といいますが、こうしたことから派生した慣用句になります。

塚本燃料商会は、上敷免にあったレンガ製造の最大手の日本煉瓦製造工場に粉炭を中心とした燃料炭を納入していたといいますので、このうだつも同社製レンガを使用したものと思われます。

うだつの大きさに目を奪われがちですが、レンガの積み方も随所に装飾を施し市内のレンガ建造物ではユニークといえます。

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