一里塚
指定年月日 昭和二十九年十一月三日
所在地 熊谷市大字新島
この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ十二メートル、樹齢三〇〇以上のけやきの大木が残っています。
慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道・中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里(約四キロメートル)ごとに一里塚を設けました。
当時は、中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎などが植えたといわれますが、西側の石原分の塚は現在残っていません。
宝暦(ほうりゃく)六年(一七五六)の『道中絵図』には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、『榎二本づつきづく』とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。
案内板
「 一里塚のケヤキ
平成22年9月及び平成30年9月の豪雨により、市指定文化財・史跡である一里塚のケヤキの枝が折れ、樹木の大半が失われてしまいました。その後、樹木の補修を行いましたが、樹勢が回復することは無く、根元から伐採せざるを得ない状況となりました。在りし日のケヤキを懐かしく思い起こしながら、一里塚の歴史を後世に伝えていきましょう。