紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

新島の一里塚跡

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案内板
熊谷市指定文化財史跡

一里塚

指定年月日 昭和二十九年十一月三日
所在地 熊谷市大字新島

この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ十二メートル、樹齢三〇〇以上のけやきの大木が残っています。
慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里(約四キロメートル)ごとに一里塚を設けました。
当時は、中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎などが植えたといわれますが、西側の石原分の塚は現在残っていません。
宝暦(ほうりゃく)六年(一七五六)の『道中絵図』には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、『榎二本づつきづく』とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。

平成十二年九月 熊谷市教育委員会


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案内板
「 一里塚のケヤキ

平成22年9月及び平成30年9月の豪雨により、市指定文化財・史跡である一里塚のケヤキの枝が折れ、樹木の大半が失われてしまいました。その後、樹木の補修を行いましたが、樹勢が回復することは無く、根元から伐採せざるを得ない状況となりました。在りし日のケヤキを懐かしく思い起こしながら、一里塚の歴史を後世に伝えていきましょう。

令和元年11月 熊谷市教育委員会