紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

うとう峠の一里塚跡

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案内板1
「 市指定史跡 
中山道うとう峠一里塚

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめたた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。
美濃を通る中山道では、慶長九年(一六〇四)に大湫(おおくて)宿、同十一~十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(一六三四)には加納宿、元禄七年(一六九四)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。
また、この間、寛永年間(一六二四~四四)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
各務原地域を通る中山道は、慶安四年(一六五一)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野(ぜんじの)から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ、うとう峠を越
えて太田宿へ至る道に付け替えられました。
うとう峠の『うとう』とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、『不案内・よそよそしい・気味の悪い』などの意味があると考えられます。
このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8㌔)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、『うとう坂』と総称されていました。
うとう峠の『一里塚』は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ『北塚』・『南塚』が残っています。
北塚は直径約一〇メートル・高さが約ニメートルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。
かって各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。
一塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。
  平成六年二月吉日  
各務原市教育委員会
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案内板2
「 うとう坂の一里塚と中山道


 江戸時代につくられた『鵜沼村絵図』(寛政5年6月)『中山道分間延絵図 』(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里
塚より、東の坂を『乙坂 』『長坂 』とか
『うとう坂 』と呼んでいました。
『鵜沼の東坂』とか『うとう坂』という呼び方は昭和になってからです。
 うとう坂にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕籠の乗り賃支払いのめやすとなり日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられました。ここでは片側だけが残り幅10m、 高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられました。
 江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の『前渡坪内氏御用部屋記録 』を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています 。 これによると1日の距離は、9里 (36Km)から10里(40Km)が多く関東平野に入ると14里(56Kin)という場合もあります。1日の距離数から、当時の交通事情が推測できます。 」