紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

新加納高札場跡・新加納立場

新加納立場
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案内板
中山道新加納立場

各務原市那加新加納町


 慶長五年( 1600年) 関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行なった。
 中山道東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長百三十四里(約五三六km)の間に六十七の宿場が設けられた。
各務原市内には鵜沼宿 が置かれていたが、鵜沼宿加納宿 の間は四里十町(約一七km)と距離が長いため立場 (たてば)〔建場茶屋〕と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
 皇女和宮 の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿加納宿の、ちようど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の『間の宿』として栄えていたのである。


平成二十五年度
新加納まちづくり会 」