紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

御射山神戸の一里塚

案内板

「富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚


 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、慶長七年(一六〇二)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。甲州街道(道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、慶長十五年ころになって下諏訪(中山道)まで延長整備された。
 街道には、往来する人々のために宿場や一里塚が設けられた。一里塚は道中の目安のため一里(約四キロメートル)ごとに街道の両脇に盛られた塚で、大きさは五間(約九メートル)四方といわれ、そこにケヤキやエノキなどが植えられた。
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。

    平成十年三月 
       富士見町教育委員会 」