案内板
「富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚
関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、慶長七年(一六〇二)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。甲州街道(道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、慶長十五年ころになって下諏訪(中山道)まで延長整備された。
街道には、往来する人々のために宿場や一里塚が設けられた。一里塚は道中の目安のため一里(約四キロメートル)ごとに街道の両脇に盛られた塚で、大きさは五間(約九メートル)四方といわれ、そこにケヤキやエノキなどが植えられた。
この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。
平成十年三月
富士見町教育委員会 」