紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

垂井一里塚跡・関ヶ原の戦い 浅野幸長陣跡

垂井一里塚跡・関ヶ原の戦い 浅野幸長陣跡

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案内板
「 史跡 
垂井一里塚 

昭和五年十月三日指定

 徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六〇四)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四㌔弱)ごとに、五間(約九㍍)四方、高さ一丈(約三㍍)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで二基ずつ築かれた。
垂井一里塚は、南側の一基だけがほぼ完全に残っている。
旅人にとっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休所となった。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれとの二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。


関ヶ原の戦い
浅野幸長陣跡

 幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。
戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

平成十八年十一月

垂井町教育委員会