「彩の国 埼玉」より
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傍爾堂村(本庄市傍示堂)
ちょっと変わった地名である。
傍爾堂村から中山道は大きく南に道をとるが、ここから北西に分岐する街道は、上野国の前橋・沼田を通って越後方面へと達していた(五料道)。
傍示とは境界を示すことを意味し、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。
前橋方面への分岐点であることから、この辺りには、茶屋が4軒ほどあり、飯・酒・菓子などを商っていた。
現在の傍示堂集落センターにある小さな御堂が傍示堂で、隣には天王祠が祀られている。
1615年の参勤交代の制度化により五街道が整備され、本庄も宿場町として発展したが、 それまでは深谷方面から来た大名などは、傍示堂村から本庄宿ではなく北西に分岐する街道を(現在の群馬県玉村町方向に)進んだらしい。
「徳川時代之武蔵本庄」によると、「本庄には旅館の設備がなかったため、江戸参勤の大小名は傍示堂より五料村(現在の玉村町五料)に転じ、加賀藩前田家は上州川合(現在の玉村町川合)河岸に本陣(旅館)を設けていた云々」とある。
傍示堂(右側)
急 カーブを左に曲がり、元小山川の石橋を渡って右カーブを進むと国道17号に出る。
資料(中山道分間延絵図)によると、当時はこの辺に「御料傍示杭」があり、ここから「本庄宿」に入る。
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