紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

百庚申

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案内板
「 百庚申

百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されてのは幕末、万延元年の庚申の年(一八六〇)で、岡の有志十三人により計画され、翌年の万延二年にかけて完成を見た。
このことは、庚申塔群の中に大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、『田島新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、坂爪治兵衛、小暮弥一右衛門、小暮半次郎、小林常七、小林□(不明)兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助。』という人々であったことがわかる。
もともと、この場所には、享保元(一七一六)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府大老井伊直弼江戸城桜田門外において水戸浪士たちにより、暗殺されるという大きな自見があったり、黒船来航により永い鎖国の夢を破られた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。

平成三年三月
埼玉県
岡部町 」