紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2022-08-01から1ヶ月間の記事一覧

甲州道中五十二里塚

案内板 「 甲州道中五十二里塚甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より三十六町(一里、約四Km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里…

吉田のマツ

案内板 「 吉田のマツ 諏訪市天然記念物 種名 クロマツ(マツ科) 推定樹齢 二七〇~三〇〇年(平成七年現在) 大きさ 目通り幹周1m45㎝ 地上30㎝ 幹周2m13㎝ 高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(一六九〇)から享保八年(一七二三)藩主忠虎の大阪城守備に…

上諏訪温泉 お手湯 上諏訪温泉と精進湯 上諏訪温泉の歴史 

案内板 「 上諏訪温泉と精進湯 上諏訪温泉の歴史上諏訪温泉に関する最も古い記録は、嘉禎三年(一二三七)成立とされる『祝詞段』という史料で、当時の上諏訪宿にあった神社の名前を列挙した中に『湯ノウ権現』というお宮が登場するのがそれだとされています。…

上諏訪宿問屋跡

案内板 「 上諏訪宿問屋跡 上諏訪宿は甲州道中最後の宿場であり、その中でも問屋は荷物の継ぎ立とそのための人馬を手配する所で、宿の中心であった。問屋は初めここよりも上諏訪駅側の本町にあったが、承応三年(一六五四)にここ中町に移り、貞享二年(一六八…

上諏訪 伊東近代美術館の解説

美術collectionより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓伊東近代美術館は、伊東酒造の創業者伊東充の収集した約330点の日本画と彫刻を展示する美術館。昭和47年、郷里諏訪湖の畔に開館。 昭和61年に富士見高原に移転。平成20年に諏訪市に移転、伊東酒造の自社蔵の隣にあった大正時代…

足長神社

『日本の神々』より 「 足長神社は桑原城跡の山腹に鎮座する。境内は古松・老杉に囲まれ、諏訪湖とその周辺を樹間に眺望 できる秀景の地である。祭神は足摩乳神で、諏訪上社の末社の一つとして、また、上桑原郷の産土神と して古くから崇敬されてきた。社記…

甲州道中五十一里塚

案内板 「 甲州道中五十一里塚 江戸時代の初めに、幕府は「 五街道 」の改修を行って 一里塚 の制を敷き、江戸日本橋を起点として三十六町(一里、約四km)ごと道の両側に塚を築いて、エノキかケヤキの木を植えさせた。ここ神戸には日本橋からの五十一里塚が築…

火燈(ひとぼし)公園

案内板 「 火燈(ひとぼし)公園 神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い『火とぼし場(火燈場)』で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい『麻がら』で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所…

茅野市 弥生通りから出土した大石について

案内板 「 弥生通りから出土した大石についてこの石のいわれ ──平成22年2月、茅野駅西口(駅前)土地区画整理事業工事中、弥生通りの地下3メートルの地点から思いもよらぬ巨大な球状岩石が出土した。工事の障害物として破壊、除去されようとしたが、丸い巨…

青柳宿の御射宮司社

案内板 「 青柳宿の御射宮司社(みしゃぐうじしゃ) 高島藩は、一六五〇年頃より、新田開発を奨励し、金沢地区でも、大沢、大池、木舟新田を始め、宮川沿いの青柳宿のまわりも新田が開発されました。新たに田畑が出来ると検知を行って、石高を決めていました。…

権現の森

案内板 「 市指定史跡 権現の森 昭和五十八年四月二十六日指定 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(一六一〇)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川…

金沢宿 如意輪観音の由来

石碑文 「 如意輪観音の由来金沢宿本陣問屋、三代目小松三郎左衛門は、金沢山をめぐる金沢町と千野村との山論においてその中心となって働いた人である。延宝六年(一六七八)藩奉行所の裁許状に村、金沢町の立場を強く主張したが、奉行所では駅伝馬の遅れを裁…

旧甲州街道案内(金沢宿)

案内板 「 →旧甲州街道案内 (小松三郎左衛門桟敷場~権現様~御射宮司・焼け屋敷) この先に小松三郎左衛門の遺徳を偲び、公徳を称える如意輪観音像(にょうり様)と川の東側に桟敷場(さじきば)があります。この看板から川沿いを少し進むと石仏が並んでいる旧宮…

中馬宿 馬宿

案内板 「 中馬宿 馬宿 (ちゅうまじゅく うまやど) 宿場の任務は三つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、通信業務でした。幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。江戸中期以降商業が盛んになり、…

旅籠 松坂屋 (はたご まつざかや)

案内板 「 旅籠 松坂屋 (はたご まつざかや) 甲州街道沿いにある金沢宿は、江戸時代~明治四〇年頃まで、薪を買い、自分で食事の支度をする安価な木賃宿(きちんやど)と、朝晩の食事が出る旅籠(はたご)が十七軒くらいあり、宿場町として栄えておりました。 松…

金沢宿 旅籠屋 丸屋

案内板 「 旅籠屋 丸屋(はたごや まるや) 甲州街道は、江戸時代初期の慶長七年(一六〇二)頃から整備されました。江戸日本橋から甲府までを表街道、甲府から中山道下諏訪宿までの間(韮崎~台ケ原~教来石~蔦木~金沢~上諏訪)を裏街道と呼ばれました。 丸屋…

青柳ゆるぎ石

案内板 「 青柳ゆるぎ石(あおやぎゆるぎいし) 畑の中に見える巨石は、古来より『ゆるぎ石』と呼ばれています。この石は向かい側JR中央線を越えた先の御狩野集落にも『ゆるぎ石』があります。共に夫婦岩とも呼ばれ、毎日米一粒分ずつ双方歩み寄るという言い伝…

御射山神戸の一里塚

案内板「富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、慶長七年(一六〇二)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。甲州街道(道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、慶長十五年こ…