紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

火燈(ひとぼし)公園



案内板
「  火燈(ひとぼし)公園

 神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い『火とぼし場(火燈場)』で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい『麻がら』で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ『かがり火』を上げた。
 この鳥居火は、『太古からの仕来り(しきたり)』で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化十五年(一八一八)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼天正六年(一五七八)の御柱祭に、上社及び下社の大規模な御造宮をしており、この時上社の御造宮にあたった番匠(ばんじょう=大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
 鳥居火の鳥居は、笠木(かさぎ)の長さ約一〇〇m、貫(かん)の長さ約八四m、脚の幅約六六mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明(たいまつ)を大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
 現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
 この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が『太古からの仕来り』を想う意味からも『火燈し公園』と名づけた。   」