案内板
「 旅籠屋 丸屋(はたごや まるや)
甲州街道は、江戸時代初期の慶長七年(一六〇二)頃から整備されました。江戸日本橋から甲府までを表街道、甲府から中山道下諏訪宿までの間(韮崎~台ケ原~教来石~蔦木~金沢~上諏訪)を裏街道と呼ばれました。
丸屋はこの頃開業しました。屋号の丸屋は、関西、伊勢方面に類似の名称が多く見られることから、祖先はその方面の出身者ではないかと推測されます。蔵の古文書によると、江戸時代より、名主『七左衛門』の名も含め、十六代にわたり引き継がれていることが記録されています。
現在の建物は、度重なる大火のためか、至って簡素ですが、旅籠屋の格子戸がみられ、元は、正面間口十間、奥行きは八間あり、当時の旅籠屋としては大きい建物でした。正面街道沿いには長い縁側があり、宿場関係者や通行人など、人々の語り合い交流の場でもありました。
信州金沢の古文書によると、天保十四年(一八四三)には、『金沢宿旅籠屋は、松坂屋を始め、大 二軒、中 七軒、小 八軒(計十七軒)』と記されています。
金沢宿は、金沢峠を越え伊那市高遠町、飯田方面への高遠街道とつながり、人的・物流の宿場町として栄えておりました。また戦国時代には、武田軍遠征の要路でもありました。金沢村史によると、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇御巡幸の際には、丸屋に二十七名の御一行様にお立ち寄りいただきました。中でも明治政府の重職、
・山田 顕義 参議 日本大学学祖 司法大臣
・寺島 宗則 参議 日本の電気通信の父
外務卿
の両名が、お食事、ご休憩をされています。
(共奉者名前札 現存)
令和二年八月吉日
金沢地区コミュニティ運営協議会
金沢の未来を考える研究会 」