紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

金沢宿 旅籠屋 丸屋


案内板
「  旅籠屋 丸屋(はたごや まるや)

 甲州街道は、江戸時代初期の慶長七年(一六〇二)頃から整備されました。江戸日本橋から甲府までを表街道、甲府から中山道下諏訪宿までの間(韮崎~台ケ原~教来石~蔦木~金沢~上諏訪)を裏街道と呼ばれました。
 丸屋はこの頃開業しました。屋号の丸屋は、関西、伊勢方面に類似の名称が多く見られることから、祖先はその方面の出身者ではないかと推測されます。蔵の古文書によると、江戸時代より、名主『七左衛門』の名も含め、十六代にわたり引き継がれていることが記録されています。
 現在の建物は、度重なる大火のためか、至って簡素ですが、旅籠屋の格子戸がみられ、元は、正面間口十間、奥行きは八間あり、当時の旅籠屋としては大きい建物でした。正面街道沿いには長い縁側があり、宿場関係者や通行人など、人々の語り合い交流の場でもありました。
 信州金沢の古文書によると、天保十四年(一八四三)には、『金沢宿旅籠屋は、松坂屋を始め、大 二軒、中 七軒、小 八軒(計十七軒)』と記されています。
 金沢宿は、金沢峠を越え伊那市高遠町、飯田方面への高遠街道とつながり、人的・物流の宿場町として栄えておりました。また戦国時代には、武田軍遠征の要路でもありました。金沢村史によると、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇御巡幸の際には、丸屋に二十七名の御一行様にお立ち寄りいただきました。中でも明治政府の重職、
・山田 顕義 参議 日本大学学祖 司法大臣
・寺島 宗則 参議 日本の電気通信の父
          外務卿
の両名が、お食事、ご休憩をされています。
(共奉者名前札 現存)

   令和二年八月吉日
     金沢地区コミュニティ運営協議会
     金沢の未来を考える研究会   」