案内板
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旧甲州街道案内
(小松三郎左衛門桟敷場~権現様~御射宮司・焼け屋敷)
この先に小松三郎左衛門の遺徳を偲び、公徳を称える如意輪観音像(にょうり様)と川の東側に桟敷場(さじきば)があります。この看板から川沿いを少し進むと石仏が並んでいる旧宮川大橋跡があります。そこから、国道(大橋)に出て橋を渡り、右側の川沿いを五十メートル程進んだところで左に権現様が見えます。権現様から国道を渡ると甲州街道案内板があります。そこから二百メートル程進むと、御射宮司・焼け屋敷があります。
(参考・・小松三郎左衛門)
今から約三百五十年前の千六百五十六年(延宝六年)千野村(宮川)との山論争(山の地形と傷害事件)で金沢山の権利を主張する村民の願いを一身に背負って訴訟の先頭に立った小松三郎左衛門(四代目)は、不幸にして敗れ、その責めを受け四十三歳で磔(はりつけ)の刑となり、一族ことごとく追放される悲しい事件がありました。
千六百五十六年から高島藩主・諏訪忠垣の裁定で内山となっていたが、千六百六十八年入山し、境に関する傷害事件をおこし、それをきっかけに、入会山となってしまいました。千六百七十六年、小松三郎左衛門は、江戸に行き、直訴すると噂が流れ、高島藩に捉えられ、下町二と金沢台の境(宮川河川敷)で村民に見せしめとして磔(はりつけ)の形となりました。(桟敷場)
その後、山に依存して生きる金沢に苦難の長い年月が過ぎ悲願やる方ない村民の願いを込めて二百年が経過した明治十三年、子孫縁者が宮城上等裁判所に提訴し、誠意と真実に心を動かされた裁判所によって勝訴の判決がおり、ようやく鳴沢山が宮沢より分離され金沢村のものとなり、鳴沢山に唐松の苗が植林されました。
平成三十年十月吉日
金沢地区コミュニティ運営協議会
金沢の未来を考える研究会 」