紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き11日目の1(和田宿から東餅屋)

二度目の中山道11日目の1
2020年7月31日(金)

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【唐沢の一里塚】


5:30 起床

6:30 朝食 美味しかった!

7:00 出発 ご主人に車で大出バス停まで送ってもらいました。

7:12 大出バス停 歩き始めました。
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7:20 昨日来た、国道142号線との合流地点
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ゴミ無し僮地蔵
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すのはら牧場
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11年前に来たときは、牛がいたような気がしますが、廃屋でした。調べたら、設楽製作所として高崎に移転したそうです。

扉峠道追分
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扉峠口バス停(茅葺き屋根)
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旧道分岐 右へ。
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一之橋
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灯籠
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旧道左へ。
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草が雨に濡れていて、靴も濡れました。ここから、今日は草の道が多かった。
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分岐
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木の橋
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唐沢の一里塚跡
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案内板
「 歴史の道中山道 唐沢一里塚

この塚は、江戸より五一番目の一里塚です。
一里塚は、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに道の両脇に五間(約九キロメートル)四方の塚を築き、多くはその上に榎や松を植えて旅人の目じるしとし、さらに、憩いの場所ともしたものである。
和田、下諏訪宿間に一里塚は六ヵ所あったが、これはその一つである。
この塚は、なかせんどうの一部路線変更により山中にとり残されたもので、天保二年(一八三一)の絵図面ではすでに路線からはずれている。
現在種目は残っていないが、塚は二基ともほぼ原形をとどめている。

文化庁 長野県 和田村 」

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国道142号線に出ました。

観音沢バス停
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男女倉(おめぐら)口バス停
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男女倉口 標高1,100m
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分岐 右へ
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中山道入り口
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クマの出没注意
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休み茶屋跡
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【三十三体観音】

三十三体観音
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案内板
「 歴史の道中山道 三十三体観音

かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和四八年(一九七三)の調査発掘により二九体が確認されここ旧道ぞいに安置された。内訳は、千手観音一三体、如意輪観音四体、馬頭観音一〇体、不明二体で四体は未発見である。
峠の難所を往来する人馬の無事を祈ってまつったものである。

文化庁 長野県 和田村 」

廃車
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木の橋
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木の橋が壊れ、梯子で作った橋
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道路に出ました。
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【接待茶屋跡】

接待茶屋跡
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案内板
「 歴史の道中山道 接待(和田峠施行所)

 江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿 とこの和田宿 に五〇両づつ下付し、文政一一年(1828)に設置された施行所の一つである。
 十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
 その後、山抜けにより流失したが嘉永五年(1852)現在地に再建され明治三年までつづけられた。

文化庁 長野県 和田村 」


殉職警官近藤谷一郎君之碑
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案内板
「 『殉職警官近藤谷一郎巡査之碑』について

近藤谷一郎巡査は、慶応三年一〇月二〇日、新潟県北蒲原郡において
近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治二二年二月四日長野県巡査を拝
命し、同年三月九日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰と
なった。
 上田警察署丸子分署に勤務中の明治二二年八月二二日、窃盗犯人を下
諏訪警察分署へ護送する途中、当接待地籍において、やにわに逃走した
犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受
けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。
享年二二歳。
 犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主
人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかっ
た住民二人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届
け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌八月二三日捜索隊によっ
て谷川の中で発見された。
 治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の
霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年八月二二日の命日に、村民を
あげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から四八年過ぎた昭和一二年、丸子警
察署庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に「殉職警
察官近藤谷一郎君之碑」の慰霊碑が建立された。
 慰霊祭は、例年八月二二日の命日に和田村民の手によってしめやかに
開催されてきたが、昭和六三年の百回慰霊祭をもって和田村主催から、
和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々
が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。

平成一四年八月

和田村役場 丸子警察署 」

道標
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木の橋
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近藤谷一郎巡査殉職の地

先ほど碑があった近藤谷一郎巡査が実際に刺された殉職の場所が、この下の谷川だったそうです。

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避難小屋
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石畳
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木の橋三ヶ所
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広原の一里塚跡】

広原一里塚跡
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案内板
「 歴史の道中山道 広原一里塚

このあたりを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂る原であった。
冬の降雪期には山頂より吹きおろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、五間(九メートル)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。
この塚は江戸より五二番目の一里塚にあたる。

文化庁 長野県 和田村 」

炊事場 和田峠青少年旅行村キャンプ場
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石畳風の道
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道路に出ました。
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10:17 東餅屋
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案内板
「 歴史の道中山道 東餅屋

標高一五三一メートルの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり人馬の休息所となっていた。
この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寬永年間(一六二四~一六四三)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外家はなく)石垣を残すのみである。

文化庁 長野県 和田村 」


本日の2(和田峠)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/194000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

二度目の中山道歩き10日目の5(和田宿)

二度目の中山道10日目の5
7月30日(木)の5


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【和田中学校周辺】


13:38 和田中学校
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11年前のブログより

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2009.4.20.

和田小学校、和田中学校と隣り合って広い敷地の学校がありました。小学校は新しそうな建物で、塔があったり、夢堂みたいな何角形かの建物が両翼についていました。

中学は、桜の花の中に、昔ながらの木造校舎がありました。

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和田神社鳥居
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祝言道祖神と水場
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祝言道祖神は平成3年建立だそうです。

「富士ヨット学生服」
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今日は閉まっていますが、11年前はこの店でボールペンを買いました。

11年前のブログより

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2009.4.30.

バスから見えた、学生服の看板が出ていた店…Yシャツや上履きを売る店…にボールペンを買いに行きました。忘れてきてしまい、不便だったので。ボールペンは置いてはいたけれど、かなり昔に仕入れたきり、売れなくてほったらかしにされているので、書けないと思う、と言われましたが、粘り強く試し書きをさせてもらい、7本目で書けるものと巡り会い、買ってきました。100円でした。

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【かわちや】

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中山道歴史の道資料館 かわち屋
奥に、黒曜石記念館も見えています。
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かわちや案内板
「 歴史の道 中山道

かわちや(歴史の道資料館)
 文久元年(1861)三月十日の大火で焼失したか その年の十月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。
 和田宿 の旅籠のうちだは規模が大きい方である。出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている。
 昭和五六年度、歴史の道整備事業の一環として総工費一〇〇〇万円で、延床面積四二二平方メートルを復元し、「歴史の道資料館」としたものである。

文化庁 長野県 和田村 」

今回は見学はしませんでしたが、11年前は結構いろいろ見学しました。

11年前のブログより

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2009.4.30. 

中山道ウォーキング 11日目 

和田宿散策 

11:19のバスで上和田まで移動。

前回来た時は閉まっていた、「和田宿農家レストランかあちゃんや」が営業していたので、山菜そばを食べました。煮物と自家製そば羊羮が付いていました。

前回来た時、やはり休館だった、歴史の道資料館かわちや、に行き、入館料300円を支払ったら、共通券で見られるものが何軒かありました。

かわちやは旅籠ですが、文久元年(1861)年の大火で和田宿117軒中107軒が焼失した中にかわちやも含まれていて、その後すぐに再建されたのですが、旅籠なのに上段の間がある珍しい造り。本来は、本陣、脇本陣以外の庶民の建物に、上段の間はいけなかったはずなのになぜ?
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ちょうど、皇女和宮がお通りになるとのことで、大火からの再建が急を要され、本陣脇本陣だけでは間に合わないとの判断から、かわちやにも上段の間を作ったと考えられるそうです。

急な階段を上った二階は、真ん中辺りの天井と、街道沿い側の天井の高さが違っています。街道側が天井が低いのですが、これは、大名行列が通った時、二階から矢を射れないように(二階の窓際で、腕を大きく振り被れないように)幕府からこのようにするよう決められていたのだそうです。
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階段部分は二階の床は大きく切り取られ、手摺も柵もない。酔った旅人が何人か、絶対落ちたよなあ…

共通券で見られる、黒曜石石器資料館と、旅籠大黒屋と、本陣を見学。

本陣に上段の間がないなあ、変だなあ、と思っていたら、本陣建物は、大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と、本陣の所有者が生活する「居室棟」に分かれており、この建物は「居室棟」に当たるのだそうです。

上段の間がないから、そうかあ、とは思うものの、居室棟と考えると、すごく広い!

でも、湯殿は、安中の奉行役宅に似ていて、冬は寒かったろうなあ、と思いました。

本陣の前の、もうひとつ共通券で見学できる羽田野は、さっき山菜そばを食べた農家レストランかあちゃんやではありませんか。

もう一回入るのは、なんだか入りにくい。でも、表から裏への9間半の通り抜け土間を見たい。

よし、通り抜け土間だけ見よう、と、突撃。

ちょうどご夫婦連れがお蕎麦を食べていました。

とにかく9間半の通り抜け土間の写真だけ撮って退散。

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「山木屋(下の問屋)・大黒屋」

中野和田宿公式サイトより

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奥の建物が山木屋で問屋跡、出桁造りで格子がついています。
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手前の建物が旧旅籠「大黒屋」です。
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安政年間以降は昭和初期まで穀物商を営んでいましたが、最近、修復が完了。現在は戸閉めとなっています。
明治に入って道路を下げたため、前面が石垣になっていますが、江戸のころは街道が石垣の 高さまでありました。

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そばや 徳田
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日本の観光スポットをめぐる旅「Guide Memoより」

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韃靼そばが食べられる蕎麦屋 徳田

和田宿本陣の前には、韃靼(だったん)そばが食べられる、徳田というお蕎麦屋さんがあります。

韃靼そばとは、苦味がある韃靼蕎麦粉をつかった蕎麦のことを指します。

古民家を改装した蕎麦屋・徳田では、韃靼そばと田舎蕎麦、さらしな蕎麦を楽しむことができます。

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【本陣跡と旅籠石合跡】

本陣跡
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案内板
中山道和田宿本陣 御入門

中山道和田宿本陣は文久元年(一八六一)三月の大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度『潤いのあるまちづくり』優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。
また、座敷棟については同じく敷地等の石に関係から、復元することはてまきなかった。
長和町教育委員会

「石合」 中山道和田宿公式サイトより
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「石合(いしあい)」

中山道の一つ江戸よりの長久保宿本陣である石合家から分かれて10代目ないし11代目と なる家柄といわれています。 旅籠屋を営み、和田宿の「年寄り」であったと伝承されています。 本陣の斜め向かいという和田宿の中心部に位置し、町並み景観上も重要な位置にあり、 典型的な旅籠屋の外観を今に伝える貴重な建造物のひとつです。

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米屋鐵五郎
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しあわせ信州 長野県魅力発信ブログより

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「 米屋鐵五郎本舗」、文政時代に「米屋」という屋号の商家があった場所で、江戸時代にも米屋鐡五郎という者が問屋を営んでいたとのことです。その木造2階建ての建物が空いていたため、この空き家を県の「地域発 元気づくり支援金」をご活用いただいて、和田宿の活性化を進める地域住民等で構成される「和田宿のあした―住みよいふる里を考える会」(通称:和田宿あしたを考える会)の皆さんの手で地域の交流拠点施設として改装・整備されたものです。

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【本亭旅館について】

なが井(旧本亭旅館)
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中山道和田宿公式サイトより

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「なが井」

何軒も残っている出格子造りの家の中でひときわ目立つのが昔庄屋で、近年は旅館として 人気を集めていましたが、今年(2012)になり営業を停止し、新たな装いで再出発の予定です。 「中山道和田宿旅人御宿本」の看板がかけてあり、広間の高札や槍がこの家の歴史の古さを 伝えています。

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現在は「なが井」、2012年に廃業した旅館、本亭旅館には、11年前に泊まりたかったのですが、泊まれませんでした。

11年前のブログより

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2009.4.20.

(長久保宿から和田宿へと歩いてきて)12時40分に和田宿のバス停に着きました。

しかし、鉄道の駅まで出るバスがない。朝には上田行きバスがあるのですが。

国道まで出ると和田宿ステーションというところがある、と書いてあるので、そこまで出れば、別のバス便があるのかも、と思い、行ってみましたが、ない。ここは道の駅で、食堂は定休日。聞く人もいない。

再びさっきのバス停に戻り、よくよく調べたら、14:36の長久保行きバスが長久保で上田行きに接続しているとのこと。

汗で濡れた服を着替え、待ち時間に他の方法はないか調べてみました。

タクシーもいないし。

14:36のバスで長久保→上田と行けば、今夜家に帰れることは確実ですが、夜、ミュージカルの練習があるのには間に合わない。

14:36の前のバスは、11時台だったので、望月から歩いてきたのでは、かなり健脚でも無理だと思います。

どうせ、ミュージカルの稽古に間に合わないのなら、いっそ今夜は和田宿に泊まって、明日、和田峠越えをして下諏訪まで行こうか、とも思いました。

今日一旦帰宅したら、次回また和田宿まで来るのは大変なので、下諏訪まで行っておけば楽だよね。

で、バス停の目の前にある、本亭旅館に電話してみましたが、御用意が出来ない、とのこと。…これは、神様が、今日のところは帰りなさい、と言っているんだ。

私自身も疲れてるし、明日は天気が悪いみたいだし。

次回来るなら、ちゃんと本亭旅館に予約を入れた上で、1日目は余裕をもって、上田からバスを乗り継いで、その日は泊まるだけにして…

2日目に和田峠越えをして下諏訪まで行く、という計画を立てよう。

東海道は、結構行き当たりばったりでも宿はとれたけど、中山道はこれから先、ちゃんと予約をとらなきゃだめだし、昼食のこと、飲み物の調達も考えておかなきゃだめだな。

上田までのバス代、950円でした。

上田駅16:02初のあさま号で帰宅しました。

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その10日後に再び和田宿までやって来たのですが、本亭旅館の予約は取れず、長久保宿の濱田屋旅館に泊まり、 朝、バスで和田宿まで来て、和田峠越えをしました。

本亭旅館は残念ながら休業してしまったそうです。
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中山道遊山旅」より

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本亭旅館
  脇本陣の向かいに《本亭旅館》がある。何軒も残っている出格子造りの家の中でひときわ目立つ旅館で、中山道を旅する人に大変人気のあった宿だったが昨年(2012)、営業を停止したとのこと。これにより和田宿での宿泊は不可となってしまった。

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本亭旅館に泊まった方のブログを紹介します。

konoha-house.comより

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 望月の山城屋に次ぐ古い旅館に巡り会えて,この和田宿でも幸せな一夜を送れました。
本亭は古い庄屋を旅館に改造したもので,内部の構造は昔のままです。もちろん街道に
面しており,長久保行きのバスもここから発車します。向かいは,そのバス停とちょっとした
公園そして脇本陣があり,部屋からの眺めも当時を彷彿させるものでしょう。
 料金は安いが,料理はしっかりしてもので旅の疲れは吹き飛んでしまいます。ぐるりと
回廊を回り込むと,裏に面して浴室と洗面所。大きな浴槽で家族全員ゆったりと入れました。
何と言っても驚いたのが,翌日の昼食を聞かれたこと,そうなんです,この先は山道,この宿に
コンビニもなく,昼食の用意がなければ峠を越せません。何と気の利いた宿でしょう。しっかり
おにぎりを一人前300円で用意してくれます。これが大きな手作りのおにぎりで旨いのなんの。
山小屋へ泊まると,必ずある昼食がこんな町場の宿であるとは思いませんでした。昔の旅人も
きっとここでおにぎりを仕込んで,峠道へ向かったことでしょう。

和田峠に向かって左側,少し街道より下がった位置にあります。

和室は街道を見下ろし明るい 格子越しに脇本陣が見えます

向かいの山にある新海神社から見下ろした本亭旅館,屋根の大きな建物です。

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元本亭旅館を眺めていたら、地元のご年配の男性が、

「門の写真はもう撮りましたか?ここまで来たら、この門を撮らないと意味がないですよ」

と声をかけてくれたので、歴史的意義のある門なのだろうと、写真を撮りました。

あれ?11年前に来たときにも同じ事を言われた。

もしかしたら、同じ人ではないか?という気もします。

しかし、あまりうまく撮れませんでした。
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ですので、ネットから門の写真を拾ってきました。
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こちらのブログからお借りしました。
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/kaidou,syukuba/nakayamadou/wada/wadazyuku.html

門の写真を撮るようすすめてくれた方に、本亭旅館が廃業して残念だ、と伝えると、もうがたがたで、最後の頃は人を泊めるには危険な状態だったので、仕方ないでしょう、とのことでした。

門も入っている、こんな写真は自分で撮りました。
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脇本陣萬屋

14:07 脇本陣(上和田バス停)
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トイレをお借りしました。

中山道和田宿公式サイトより

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脇本陣跡」

和田宿に二軒あった脇本陣のうちの1つで、歴代翠川家が勤めました。
屋敷は文久元年(1861年)の大火で焼失(和田宿内では本陣を含め109戸が全焼した。) しましたが、数ヶ月後に皇女和宮が和田宿に宿泊することかが決定していた為、急遽和田宿 全体が再建され脇本陣も建築されました。 現在の建物は当時の御殿部分で、上段の間、 二の間、など格式の高さが感じられる部分や風呂や厠なども残り上田、小県地方唯一の 脇本陣の遺構として大変貴重な建物です。

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萬屋(現酒店)
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中山道和田宿公式サイトより

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よろずや

屋号を「よろずや」といい、江戸時代には質屋と両替商を営んでいたと言われています。 中町、下町に多い旅籠屋形式の造りですが、和田宿では唯一「火かえし(卯建)」を持つ 建物です。 見事な卯建と白壁土蔵を持つ商店は、今も「よろずや」と看板を掲げた酒店と なっています。「よろずや」は今も和田宿のコンビニとして村に無くてはならない存在です。

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11年前に来たときも、次の日のことを考えて、なるべく先まで進んでおこう、と、和田宿散策をしました。

11年前のブログより

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さて、長久保に戻るバスまで約2時間あるので、明日の朝のバスで出来るだけ先まで行けるように、大出バス停まで歩いておくことにしました。

酒屋のよろずやは、前回来た時も写真をとりましたが、雰囲気あるお店です。出梁造り、瓦屋根のどっしりした軒先に吊るされている麦わら帽子が似合っている。
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公民館にしめ縄や、神社みたいな杉の枝が飾られているのは何故か、と思ったら、お神輿を保管しているため、神社風に祀られているみたいです。

その先に、立派な松が2本あり家があり、よく見ると、2本の松は根本がくっついている。つまり、相生の松なんだ。

やがて和田鍛治足交差点。車道を渡ると、一里塚や分岐の道標。

その先、左に材木屋。建物に印象的なキツツキの絵が描いてありました。

大出バス停は藁葺き屋根。
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ここで引き返しました。

この辺り、側溝にマンマンと水が流れ、たっぷんどっぷん音高らかに流れていました。

上和田のバス停に戻り、時間までバス停の小屋で待ち、14:36の巡回バスで長久保に戻り、今夜の宿、濱田屋に入りました。

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さて、また2020年7月に戻ります。

高札場跡
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曲水句碑
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菅沼曲水(曲翠)は、芭蕉の門人だったそうです。


【鍛治足の一里塚跡と大出バス停】


鍛治足の一里塚跡
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和田鍛治足の交差点に出たら右折方向に進むと、交差点の左角に、日本橋から五十里目の鍛治足の一里塚跡の碑が道標などと一緒に立っていました。

14:44 本日の終点 中部電力株式会社
和田発電所
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ここから上和田バス停へ戻りました。

水量が多く清らかな依田川の流れ
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大出橋たもとの道祖神
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大出バス停
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先ほども通ったのですが、そのときは写真を撮らなかったので、戻ってきてから撮りました。

男女双体道祖神
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先ほどとは違う道をたどり、田んぼの中の道を歩きました。

14:50 上和田バス停に戻り、ここで持参のカレーパンを食べました。
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今夜泊まる「民宿みや」は電話をすると迎えに来てくれるのですが、16:00頃電話をくださいとのことなので、1時間ほど待ちました。

15:55に「民宿みや」に電話をしました。

おかみさんが車に迎えに来てくださり、長久保宿に近い「民宿みや」へ。
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新型コロナ対策の注意をいろいろ受けてから部屋へ。

まずはお風呂に入り、

18:30 夕食
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アサヒスーパードライの大瓶を飲みました。

とっても大きいピーマンはパーマン

聞いてみたら、やっぱり普通のピーマンなんですが、とっても大きい。

とにかく野菜が美味しかった。


本日の歩数 33,113歩 20.59km


二度目の中山道11日目(和田峠越え)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/193000


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き10日目の4(長久保宿から和田宿への道)

2度目の中山道10日目の4
7月30日(木)の4

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【暑い日のランチはラーメン】

11:39 馬頭観音
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ガイド本に「中仙道」という店が載っていて、

ほうとう、ダッタンそば、岩魚料理、猪料理が味わえる」

とあったので、ここでお昼を食べようと思いました。店の前に車も停まっているから、営業しているみたい。

しかし、店の前まで行ったら、車の手入れをしていたおじさんに声をかけられました。

食堂はもう何年も前にやめてしまったのだそうです。

すぐ手前にプレハブのラーメン店があったので、そこに入ることにしました。

11:51 ラーメン、500円
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暑かったので、水が美味しかった!

ラーメン、元気になりました。


【四泊の一里塚跡】

12:04 四泊落合(よとまりおちあい)
標高 680m
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12:04 四泊の一里塚跡
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案内板
「 長和町指定文化財
中山道 一里塚跡

一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長和町長久保大字四泊
一、指定の理由 交通の遺跡

[説明]
中山道の一里塚は、慶長九年(1604)幕府の一里塚奉行大久保長安により、江戸日本橋から一里(約4キロメートル)ごとに、およそ五間(約9メートル)四方の塚が築かれ、その上に榎や欅などを植えて、旅人の便宜を図ったものです。
江戸から48番目となるここにあった一里塚は、『エノミの木のある所』として地元の人に親しまれた榎の大木がありましたが、昭和三十五年(1960)の道路改修の際に伐採されました。
正保四年(1647)の『信濃国絵図』のほか、諸文献にもこの場所に一里塚のあったことが明記されています。
ここより江戸方となる一里先の笠取峠直下には、一里塚が一基現存し、また京方の三里先の当町唐沢には、ほぼ往時の原形を留める一里塚が対で現存しています。

長和町教育委員会

案内板に「エノミの木」とあり、エノキの間違いでは?と思ったら、榎をエノミとも昔から言うんですね。


12:09 道祖神
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【落合橋と和田橋を渡る】

12:21 落合橋を渡って右へ。
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昨年の台風でこの付近、崩れていて、工事中でした。

梅雨の大雨で、川の水量も多く、激しい流れでした。

12:25 和田橋からの依田川
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12:31 水明の里碑
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12:32 歴史の道中山道 案内板
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12:32 馬頭観音
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【上深山口バス停】

12:40 上深山口バス停
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藁葺き屋根のバス停。11年前もこの写真を撮りました。

11年前のブログより

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茅葺き屋根のバス停】

藁葺き屋根のバス停がありました。(上深山口バス停)
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12:44 石仏石塔群
寛政十二年(1800)建立の天王夜燈
宝曆二年(1752)建立西国巡礼供養塔
青面金剛
石祠
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【ミミズの碑】

12:48 ミミズの碑
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案内板
「 ミミズの碑

*ミミズの碑”は、この地蚯蚓に住む人々の希望により祭られました。
蚯蚓(みみず)は土壌動物の代表です。みみずは枯れた落ち葉や木の枝などをよく食べ糞をします。その糞は『土』となります。『生まれたばかりの新鮮な土』『植物がよく育つ土』なのです。
*少し残酷ですが、蚯蚓の地区では『みみずのひもの(はらわたを出して板の上にはりつけた)』つくり、解熱剤として使いました。 」

この辺りは蚯蚓(きゅういん)地区と言い、農作物のためにミミズを大切にしていたようです。「きゅういん」から転化して、蚯蚓神社のご神体は「おきんさん」と呼ばれているそうです。

ミミズの碑の斜め向かいに蚯蚓神社があるのですが、見そびれてしまいました。


東信ジャーナルブログ版より

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2016年1月16日

【昼寝をする巨大な「みみずさん」が奉納された蚯蚓神社】

ミミズを「蚯蚓(きゅういん)大権現」として祀る「蚯蚓神社」=長和町和田中組=が密かなブームとなっている。
インターネットを見て県外から来る人や農業関係者などの参拝が増えているためで、羽田健一郎町長は「ミミズの神社は全国唯一ではないか。ミミズは土を肥やす存在なので、農業のシンボルとして紹介していきたい」と話す。

蚯蚓神社があるのは、中山道沿いの「蚯蚓地区」の山裾。杉木立の中に建っており、南側には御神木である樹齢300年の「榧」(かや)の木がある。

 伝説によると昔、裏山の北沢山で大水が出た際、長さ一尺(約30㎝)ほどのミミズが群れをなして死んだ。
 その直後、コレラや腸チフスなどが発生したため「ミミズのたたりだ」と畏れ、神社を建てたという。かつては山中に「奥のお堂」もあったという。

 実際、神社の横には「水出(みずいで)」と呼ばれる沢が流れており、過去50年間に2度鉄砲水が起こっているという。
また 辺り一帯には湧き水がいくつもあり、ワサビの生い茂る場所もある。
 
 神社の麓に住む辰野三夫さん(76)は「水が豊富な土地なので、大水が出ないよう山と土を守ってくださいという願いを込めた神社だったのではないか」と話す。

 かつては茅葺き屋根の社殿だったが、雨漏りのため昭和44年、建築業を営んでいた辰野さんが木とトタンで建て直した。その際「蚯蚓神社」や、地元での呼び名である「おきん様」の神額もこしらえた。

さらに12年前、直径10㎝程で長さ2m余り、微妙に湾曲した杉の間伐材に着色し、顔を描いて「みみずさんのおひるね」の看板と共に奉納した。

 以前は毎年8月20日に地区の人たちがお重を持って集まり、お供えをした後神社の前で会食して楽しんだ。今は神事を行うだけのひっそりとした神社だが、神社の正面の旧中山道沿いに雌雄のミミズが描かれた神社の石碑があることから、中山道散策途上の県外の人たちの参拝が増えた。また川魚料理や農業に携わる人がわざわざ訪ねて来ることもあるという。

ミミズは漢方の解熱剤としても珍重されており、蚯蚓地区でも昔はミミズの干物を作っていた。子どものころに飲まされたことがあるという辰野さんは「この辺りは雨が降れば今でも長さ1尺のミミズが出てくることがある。なぜおきん様と呼ぶのか分からないが、大切にしていきたい」と話していた。

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12:50 水飲み場
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持参の水に継ぎ足してここの水を入れました。


【三千僧接待碑】

12:53 三千僧接待碑
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案内板
「 歴史の道
中山道

三千僧 接待 碑

信定寺別院慈眼寺境内に建立されて
いたものだが寛政七年(一七九五)
この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶
への接待 碑で一千人の僧侶への供養接
待を発願して見事結願し、一躍二千を増
した三千の僧侶への供養接待を発願し
たと碑文に刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように
一千僧の一の字を三千僧の三の字に改
刻した後が歴然としている当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから 麦飯、麺類、栗飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の六年に亘る凶作続きの際にはじゃが芋の粥などで賄ったことがあると言われる。

和田村・長野県・文化庁


12:58 石仏石塔群
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一番左は、鬼とこどもが二人?

12:59 下和田上組バス停
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社みたいなバス停

立派な門の家が多い。
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13:07 中山道碑と、馬頭観音
頭上に阿亀馬頭観世音と福大大士
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13:07 石仏石塔群
馬頭観世音、水供養碑、水道碑
道祖神、回国百番観世音碑など
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【若宮八幡神社

13:10 若宮八幡神社
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案内板
「 長和町指定文化財
若宮八幡神社本殿

一、指定年月日 昭和五十六年十月一日
一、所在地 長和町和田字若宮
一二一五-一

【説明】
祭神は、仁徳天皇
本殿は、一間社流造の間口一・五メートル、奥行一・七メートルの大きさで、棟札には享保六年(1721)の建立とあります。正面と側面に廻縁(まわりぶち)をつけ、隅組擬宝珠(すみくみぎぼし)柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には和違文(わちがいもん)に六辧花(ろくべんか)が彫刻された各部分の調和がとれた建築です。


和田城主大井信定父子の墓

一、指定年月日 昭和四十六年十一月一日
一、所在地 長和町和田字若宮
一二一六-一
【説明】
戦国時代の天文二十二年(1553)に、和田城主大井信定と武田晴信(信玄)が矢ヶ崎で戦い、信定父子をはじめ一族郎党がことごとく戦死し、その父子の首級がここに埋葬されました。
元禄六年(1693)に信定寺第六世来安察伝(らいあんさつでん)和尚によって当境内に墓碑が建立されました。

長和町教育委員会
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「 町指定保存樹木
欅(けやき)・杉
樹齢推定三〇〇年 」
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13:11 芭蕉句碑(多分これだと思います)
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「安能雲ハ稲妻越待つ
たよ里可南 」
(あのくもは いたずまをまつ
たよりかな )


13:13 長和くるみ農園
可愛くて、パチリ
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13:13 上組の中山道一里塚跡
江戸より四十九里
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13:17 JA信州うえだ きのこ菌種センター
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13:20 メルヘンな芹沢バス停
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11年前に来たときは、ほとんどみんな茅葺き屋根のバス停だったように記憶するのですが、今回来てみたら、バス停によっていろいろなデザインが施されてきました。


13:21 アートな落書き。バンクシー風?
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ホーロー看板やシール、ステッカーのようなものをいっぱい張り付けた建物。
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何かの工房かな?

ミニヒマワリ。最近、本来の大きなひまわりより、ミニヒマワリをよく見かけます。
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水田の緑。梅雨が長く寒かったから、やはり今年は稲の生育が遅い気がします。
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11年前のブログより

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石仏があちこちにある静かな道を歩きましたが、暑くなってきて、単調な道だし、ちょっとつらくなってきました。

藁葺き屋根の神社があり、境内には芭蕉の句碑もありました。

キノコの種菌を育てる研究所があり、ちょっと興味があったけれど、一般公開はしていないみたいでした。

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今回も前回も、長久保宿から和田宿への道は長く辛く感じました。緩くずっと上り坂だし、ずっとアスファルトの舗装道だからでしょう。


2度目の中山道10日目の5(和田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/190000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き10日目の3(長久保宿)

2度目の中山道10日目の3
7月30日(木)の3


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松尾神社

11:05 松尾神社本殿
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「椹(さわら) 町指定保存樹木
樹齢推定 二〇〇年 」
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11:06 御柱(おんばしら)
平成二十五年十月十三日
松尾神社皇第神宮式年遷宮御柱
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11:06 松尾橋
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こちらが松尾神社の表参道です。私は裏側から入ってしまったので。
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11:07 案内板
長和町指定文化財 松尾神社
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nagareki.comより

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松尾神社(長和町・長久保宿
概要: 松尾神社は長野県小県郡長和町大字長久保字宮所に鎮座している神社です。松尾神社の創建は不詳ですが日本三大酒神で官幣大社である松尾大社京都府京都市右京区松尾町)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。古くから酒造家から信仰の対象となり、江戸時代に入ると上田藩主真田家の崇敬社として庇護され社領4斗2升9合が寄進され、参勤交代で長久保宿を利用した大名家からも参拝が行なわれています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て明治6年(1873)に郷社に列しています。当初は長久保の町裏地籍にありましたが小学校の校庭の拡張工事の為昭和33年(1958)に現在地に遷座しています。
現在の松尾神社本殿は万延元年(1860)に再建されたもので一間社流造、銅板葺き、棟梁は三代目立川和四郎富重、特に欄間に施された龍や亀、鶴などの彫刻が優れているとされます。松尾神社本殿は建築彫刻として貴重なことから昭和53年(1978)に長和町指定有形文化財に指定されています。拝殿は文政10年(1827)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行4間、張間4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、棟梁は佐久郡茂田井村出身の別府兵左衛門秀信、江戸時代後期の社殿建築の遺構として貴重な事から平成28年(2016)に長和町指定有形文化財に指定されています。

例大祭は3年に1度で大山獅子舞(雄獅子2、雌獅子1)が町内を練り歩き最後は松尾神社境内で奉納されます。大山獅子舞は弘治3年(1557)に松尾神社が再建された際、地固めのために獅子舞を行ったと伝わるもので、古式を伝える行事として貴重な事から平成元年(1988)に長和町指定無形民俗文化財に指定されています。社格は旧郷社。祭神は大山咋命

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11:07 標柱
松尾神社 100m
笠取峠 2km
長久保宿
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11:09 藁を屋根に載せている。
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高床式?
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【吾一庵】

11:11 吾一庵
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東信州中山道公式webサイトより

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吾一庵 長久保宿

 長久保宿の江戸方の端部にあって、江戸末期から明治初期の建物です。兼農で馬を取り扱っていたと伝えられています。
 一階には当時の農家の間取りを見ることができ、二階には養蚕を伝える道具や宿場町の歴史を伝える資料などが展示してあります。

入場料:無料

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【吾一庵の見どころ】

江戸時代末期から明治初期の建物です。兼農で馬を取り扱っていたと伝えられています。
広い土間を持つ田宇型四間取りの、農家に類した間取りで母屋の航法に馬屋があり、馬もこの土間を通って出入りしていたようです。
その後、蚕や乳牛を飼っていた時期があり、馬屋の後方にあった馬屋は牛舎や蚕室に改築されました。
母屋に腰屋根が乗っていますが、二階を蚕室としたとき、換気を調整するために取り付けられたものです。
建具など柱間装置は更新されていますが、構造軸組はよく当初の規模形式を保っていて、農家型の遺構として貴重です。
2階展示室 」


11:11 標柱
→ 吾一庵 20m
松尾神社 330m
笠取峠 2.3km
↑ 観音寺
← 60m 一福処丸木屋
130m 長久保宿本陣
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【一福処濱屋】

11:12 素敵な連子格子と塀の家(丸木屋)
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11:12 一福処濱屋 トイレをお借りしました。

中の様子
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案内板
長久保宿歴史資料館 一福処濱屋の由来

 長久保宿 歴史資料館一福処濱屋は、中山道長久保宿堅町の上位(江戸方)に位置しています。

 現在の建物は、明治時代の初期に旅籠 として建てられましたが、中山道 の交通量が減ったために開業には至りませんでした。
 間口は九間と広く、総二階建て・延床面積四〇〇平方メートル程の宿内でも大きな建物です。また、一階より二階部分を突出させた「出梁造り」が特徴的で、山間部の旅籠建築に多く見られる手法です。
 平成十二年に建物の所有者である福永家・黒澤家からご寄付を受けて、地域住民の語らいの場や長久保宿を訪れる旅人の休み処としてまた、宿場関連の歴史・民俗資料の展示公開の場として活用を図るよう改修を行いました。
 一福処濱屋を貴重な旅籠建築の歴史的建造物として長久保宿の面影を後世に伝えるものです。

平成十四年六月
長和町 長和町教育委員会

休館日 月曜日(月曜日が祝祭日の場合はその翌日) 」


今回は多分新型コロナ感染拡大防止のためでしょう。無人でしたが、11年前に来たときは地元のシニアの方達のたまり場になっていました。

多分お当番の管理の方の他に、みんなが遊びに来ててつだっていたのだと思います。

11年前のブログより

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2009.4.30.

長久保宿一福処濱屋は、明治時代初期に旅籠として建てられましたが、中山道の交通量が減ったため、開業には至らなかったそうです。

山間部の旅籠建築に多く見られる、一階部より二階部を突出させた「出梁造り」が特徴的な総二階建て。

住居として使われてきましたが、長久保宿を訪れる旅人の休み処として、また、宿場に関する歴史、民俗資料の展示公開の場として使われています。

庭側の縁側に、地元の年輩の方達5〜6人が集まってお茶を飲んでいて、「お嬢さんもどうぞ」と誘われました。ずいぶん若く見られたものです。

今日はみんなで庭整備に来て、お茶タイムをしているところでした。

瓜の漬け物、蕪の漬け物、柿を甘く漬けたものをお裾分けしていただきました。特に柿が美味しかった。

「取材ですか」と聞かれたので、「旅です」と答えたら、「歩いていて感じたことはありますか」と聞かれました。

東海道も歩いてから中山道に来たのですが、東海道よりも中山道の方が、自然も古い家なども残っていて面白いです」と答えると、「そうでしょう、そうでしょう」と満足げ。

石合家という本陣には、四代目のところに真田幸村の娘が嫁いできたそうで、お墓が近くの寺にあるそうです。

その娘さんは、おすへさんといって、この資料館の案内役のマスコットになっていました。

「そうだ、あそこの家を見せてもらうといい」
「あそこの方が、ここより古いものが沢山ある」

皆さんに勧められ、案内までしていただいて、古い家を見学させてもらいました。

その古い家にはお子さんがいなくて、年老いた主人が趣味で集めた古い道具類を展示しています。

旅人に見てもらうために展示しているのですが、地元の人たちで管理しているそうで、旅人が勝手に見ることはできないようでした。

機織り機、糸車、石臼、櫛や簪、etc.

案内してくれたおばさまが、嫁入りしてきた時に履いてきた、畳のような表面の草履も展示されていました。

「あっちよりも、古いものが沢山あるでしょ」と言われましたが、実は一福処濱屋の二階の展示は、まだ見ていなかったのです。でも、どうやらこちらに比べてたいしたことはないらしいので、濱屋の二階にはもう行かないことにしました。

おばさまにお礼を言って別れてから、濱屋でもらってきたパンフを見ながら、問屋の小林家、旅籠古久屋、酒造業の釜鳴屋、横町の辰埜屋の写真を撮って回りました。

酒造業の釜鳴屋
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一般に開放されているのは、一福処濱屋だけです。

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道標に一福処丸木屋と書いてあったのに、来てみると一福処濱屋となっているのは何故?

調べてみたら、濱屋のお向かいの家が丸木屋で、補助的に使われているみたいです。


【旧本陣 石合家】


11:21 長久保宿旧本陣 石合家住宅
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案内板
「 長和町指定文化財
長久保宿 旧本陣 石合家住宅

一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長和町長久保五八九
一、指定の理由 本陣建築として重要

【説明】
 石合家は長久保宿 創設当時から、江戸時代を通じて本陣と問屋を勤め、四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいます。
 当時の建物としては、大名や公家等の賓客が利用した『御殿』と呼ばれる座敷棟と幕末頃の構築と推定される表門が現存し、ともに町文化財に指定されています。
 御殿には、上段之間・二之間・三之間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下)・十二畳之間が残り、腰高障子や欄間、書院造り等の格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。
 構築年代は詳らかではありませんが、江戸時代中頃の寛延二年(1749)の絵図面に現状と同じ間取りが記載されていることや、細部意匠の様式から十七世紀後半と推定され、中山道中では現存する最古の本陣遺構であるといわれています。
 また、石合家には江戸時代初期からの古文書や、高札等の史資料が数多く保存されていて、これらも町文化財に指定されています。
〈注意〉個人住宅につき、一般公開は行っておりません

長和町教育委員会


11:21 高札場 右隣は旧本陣です。
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11:22 脇本陣
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【釜鳴屋】

11:23 釜鳴屋
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案内板
「 長和町指定文化財
竹内家住宅(釜鳴屋)

一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長和町長久保五七九
一、指定の理由 江戸時代の建造物(町家造り)として重要

【説明】
 竹内家は江戸時代初期の十七世紀中頃より、酒造業と醤油の醸造を手掛け、長久保宿の役職も兼ねていました。 
 明治四十五年(1912)の屋敷図には、千五百坪余りの広大な敷地に、通りに面して母屋があり、その裏側に蔵や納屋が配置され、棟数合わせて十四棟、総建坪四百九十一坪もあったことが記載されています。
 母屋は間口九間半、奥行十間半の正方形に近い形となる切妻造りの平入で、屋根の端部には、妻壁を高く突出させ小屋根をつけた『本うだつ』がみられます。天井吹き抜けとなる土間やおかっての規模は壮大で、太い柱や豪快な梁組が露出し、迫力ある大空間をつくっています。
 構築年代は詳らかではありませんが、寛延二年(1749)の絵図面に記載されていることや、玄関先の最も古い享保十六年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられ、長野県内では最も古い町屋建築であるといわれています。
 また、竹内家には江戸時代初期からの古文書や笠取峠立場絵図や長久保宿 場札の版木も保存されていて、これらも町文化財に指定されています。

〈注意〉個人住宅につき、一般公開は行っておりません

長和町教育委員会


【浜田屋、たつの屋、桝形】


11:24 標柱
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上の白い道標
← 一福処濱屋 江戸方堅町
笠取峠

↑ 京方・横町
落合橋 2.5km

下の茶色の道標
← 80m 長久保堅町 釜鳴屋
長久保宿 横町

下の茶色の道標斜め
← 170m 長久保宿本陣
630m 松尾神社
↓ 70m JRバス長久保


11:25 浜田屋旅館
11年前、ここに泊まりました。コシアブラやタラの芽などの天ぷら、筍ご飯が美味しかった。
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11:29 たつの屋(旧旅籠辰野屋)
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11:30 桝形 標柱
→ 四泊一里塚跡 1.1km
落合橋 2.1km
長久保宿
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2度目の中山道10日目の4(長久保宿から和田宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/185000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003





2度目の中山道六十九次歩き10日目の2(笠取峠から長久保宿へ)

2度目の中山道10日目の2
7月30日(木)の2


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【笠取峠からの下り道】

9:36 中部北陸自然歩道道
笠取峠 0.2km →
← 9.6km 和田宿
← 20.4km 東餅屋(和田峠)
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9:37 笠取立場図版木
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案内板
「 笠取峠立場図版木

 長門町堅町の釜嶋屋に保存されている版木には、峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。当時の峠は、現在の国道一四二号の峠より数メートル南に位置し、路面も今より数メートル高所にあった。今では、ぐみの古木以外に面影はない。 」


歩いていたら、スマホから変な音が!

緊急地震速報でした。千葉県沖で大きな地震!地元の市からも、「大地震です。大地震です」とメールが来ました。

私が長野県に来ている間に、家の方が大変なことになっている!?

娘たちにLINEしたら、「緊急地震速報は来たけれど、揺れない」 とのこと。

どうやら誤報だったようです。

今回は誤報でしたが、私の留守中に何かある、ということはあることかもしれません。

我が家はもうみんな大人だし、自分でなんとか出来るとは思いますが、一番心配なのは高齢の母です。兄がリタイア後、母と同居しているので、心強いです。


中山道原道】

9:42 中山道原道 →長久保宿
中部北陸自然歩道道
→和田宿 9.3km
東餅屋(和田峠) 20.1km
←0.5km 笠取峠
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木の縁の急な階段を下ります。
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木の縁が壊れているので、傘を杖がわりに衝きながら下りました。傘は杖になったり、蜘蛛の巣を払ったり、日傘としても大活躍。
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9:48 旧道に出ました。
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中部北陸自然歩道道
→和田宿 8.8km
東餅屋(和田峠) 19.6km
← 1.0km 笠取峠


9:48 樹齢150年の枝垂桜
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9:49 中山道原道 右へ
旧道を逆S字に進みます。
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9:52 こんな石仏がありました。
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9:52 中山道原道
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草の道を下ります。
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林の中の道を、左にヘアピンカーブで折れる場所で道標が壊れていて、直進しそうになりましたが、気づいて左に折れました。
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9:59 左に折れて少し行くと、「中山道原道」の道標がありました。
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ここへ下りて来ました。
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10:00 中山道笠取峠原道の標柱
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旧道を右へ。
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10:02 中部北陸自然歩道道
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中山道(原道)長久保宿
→和田宿 8.1km
←1.7km 笠取峠

この道標がわかりにくく、右(道標を見る立ち位置だと左)へ行くべきところを左(道標を見る立ち位置だと右)に行ってしまい、かなりの時間ロスしてしまいました。


【また峰の茶屋に戻ってしまった!】

10:33 あれ!
この峰の茶屋、1時間前に来た。
1時間のロスをしてしまいました。
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さっきと同じ道をぐんぐん歩き、

10:49 間違いの元凶の道標まで戻りました。
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今度は国道142号線を右へ。(右へ行くのが正解です)

10:52 信州長和町長久保 標高780m
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10:54 旧道は右へ(工事中でした)
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道標 →和田宿 7.9km
←1.9km 笠取峠
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多分昨年の台風で荒れた道を直しているのだと思います。


【草道を下る】

10:59 笠取峠原道の道標
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柵の切れ目の草道を下りました。
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舗装道に出たら右へ。

11:01 また原道 草の道を下りました。
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11:03 ← 松尾神社 長久保宿
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石段を下りました。
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11:04 松尾神社の裏に出ました。
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道標 →長久保宿(高札場) 400m
←1.9km 笠取峠


2度目の中山道10日目の3(長久保宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/183000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き10日目の1(芦田宿から笠取峠)

2度目の中山道10日目の1
7月30日(木)の1


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【芦田宿へ】

前日、青春18きっぷ佐久平まで来ました。東横INN佐久平駅浅間口に泊まり、今朝は、

佐久平駅7:50発の立科町役場行き(芦田宿方面)に乗りました。
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バスに乗ったのは4人。途中で3人ぐらい乗ってきました。

この人も中山道を歩いているのかなあ、と思った若い男性は塩名田で降りました。

私が芦田宿で降りたとき、バスにはまだあと2人乗っていました。

芦田宿に降り立ったのは私一人。8:30でした。バスは芦田宿バス停を出ると、すぐに左折してしまいます。
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8:33 前回も見た酢屋茂
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8:33 金丸土屋旅館
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この宿に泊まりたかったのですが、連絡がとれませんでした。残念。新型コロナウィルス騒ぎで休業しているのでしょうか。

芦田宿には、ノウゼンカズラがたくさん咲いていました。
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【笠取峠松並木へ】

8:40 道祖神
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8:44 中部北陸自然歩道道
→ 笠取峠 2.3km
← 塩名田 13.0km
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8:44 芦田宿案内板
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こちらは、2度目の中山道9日目(2020年4月6日)にも載せた、芦田宿入り口にある芦田宿の案内板と同文ですが、ここにも載せておきます。


案内板
「 芦田宿(あしだじゅく)

慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
芦田宿は中山道二十六番目の宿として、宿の町並みは、六町二十間(約七〇〇メートル)文化元年(一八〇四)には、本陣、茶屋六軒、商家二軒、医師三軒、髪結二軒、按摩一軒、などがあり農家は四十五軒であった。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川14代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された、孝明天皇の妹『和宮』の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向って(芦田宿に向って)急な上り坂を過ぎると、標高八七七メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
中山道の松並木は慶長七年(一六〇二)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、県道に合流松や杉を植林した。この松並木は当時の物で、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って役を一〇〇本の松並木が二〇〇メートルつづいている。本陣は寛政十二年(一八〇〇年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口五間奥行き十一間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿雪隠、など客室の原形がほぼ完全にのこされている。 」

百合が綺麗に咲いています。
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8:45 石打場公園
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案内板
「 石打場公園

『石打場』の地名は奈良、新潟、群馬などにあり、『石打』は当て字で、『石内』が本字らしい。(吉田東伍大日本地名辞書)すなわち、『石内』とは『境界』または石敢当(セキカントウ)の意味があり、『災害除け』または防御示のための場所というのが本来の意味である。(地名源語辞典)ちなみに本町芦田の石打場は、旧芦田村と横島村の『境』であり、芦田八ヶ略誌によれば『住吉、山部と芦田の子供戯れし所也』とある。

えがおのふれあい『芦田宿』保全・活性化事業 立科町町区 」

8:46 常夜燈 右の旧道へ進みます。
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8:46 道標 ←松並木 芦田宿→
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8:47 笠取峠の母娘の道祖神
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【笠取峠の松並木】

8:48 笠取峠のマツ並木標柱(東口)
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8:49 石仏
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8:49 八幡太神
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8:50 三石勝五郎歌碑
「かりがね渡る笠取の峠の茶屋は
なけれども残るふもとの松並木
芦田宿の芦の先に 」
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8:50 松並木標識
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8:51 松並木
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8:54 石仏
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【松並木公園】


8:54 松並木公園案内板
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案内板
「 松並木公園

笠取峠の松並木
(長野県天然記念物 S49.1.17)

 笠取峠は雁取峠とも呼ばれる。近世五街道の一つ中山道 は京都と江戸を結ぶ重要道路であった。徳川幕府は街道沿いに松や杉などを植えさせた。芦田宿 の西方1kmの地点から笠取峠にかけ約2㎞にわたり松並木がある。総本数73本(平成20年現在)の老赤松はいずれも150年~300年以上経たもので、その景観は、往時の中山道をしのばせてくれる見事なものである。立科町では松並木周辺の旧中山道を公園化し保護に努めている。


笠取峠松並木の歴史

1597年(慶長2)芦田宿立駅ー小諸城主仙石越前守秀久 は、岩間忠助 と土屋右京野左衛門 に芦田宿の立駅を命じた。この命を受けた両名が蓼科神社にその成就を祈願した願文の木札が現存している。
1602年(慶長7) 五街道整備ー慶長6(1601)年に、まず東海道に伝馬を定め翌7年より他の四街道を整備した。
この頃から、一里塚 の設置や街道筋に通行人の便(日除け、防風、防雨等)を計って松や杉を植えはじめた。芦田宿へ小諸藩から数百本が下付され近隣の村人(現立科町内)により芦田宿西側から峠にかけて植樹された。これが笠取峠松並木の始まりである。これ以後今日までの長い間宿場や近隣の村人により手厚く保護されてきた。

1716年(享保元) 中山道と改める。
1757年(宝暦7)頃 笠取峠に茶屋小松屋あり、力餅を商う。(三国一の力餅)
1861年文久元) 皇女『和宮』松並木を通り江戸へ下向する。
1924年(大正13) 長野県、松並木を調査する。この時、松229本が確認されている。
1967年(昭和42) 町文化財に指定される。
1974年(昭和49)長野県天然記念物に指定される。
1985年(昭和60) 町内に『松並木を守る会』が結成される。行政、住民一体で保護、保存活動が行われている。
1993年(平成5) 松並木公園完成する。 」

8:55 石仏
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8:56 若山牧水歌碑
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「老松の風にまぎれず啼く鷹の
声かなしけれ風白き峰に 」
「岨道のきわまりぬれば赤ら松
峰越の風にうちなびきつゝ 牧水」


8:58 萬歳 皇代能豊兆(みよのほぎはた)
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銅板碑
「 萬歳 皇代能豊兆

文久元年(一八六一)仁孝天皇の皇女和宮は 第十四代将軍徳川家茂(いえもち)へ嫁ぐため、中山道を通って江戸へ下った。
京都発文久元年十月二十日、江戸着同年十一月十五日。婚儀は翌文久二年二月十一日であった。
これは、ペリー来航以後、日々失墜していく幕府の権威回復と、反幕運動(尊皇攘夷)に対するけん制、いわゆる公武合体運動の犠牲であったといわれる。
京都から江戸へは、京都方一万人・江戸方一万五千人 計二万五千人の大行列であった。この他警備の諸藩士、馬士(まし)等数万人にのぼった。このため、多数の人馬が信州一円から徴発され、大きな負担がかかった。和宮が輿の中からこの松並木を見て通ったのは文久元年十一月八日であった。

平成五年三月
立科町教育委員会


同じ銅板碑の上半分は「和宮東下の行列」
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東屋もありました。

11年前に来たときは、この辺りに金明水の復刻(峠にあったものを、こちらに移した、と聞きました)があって、美味しく飲ませていただきましたが、今回見つけられませんでした。

11年前のブログより

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2009.4.20.

【金明水】

公園のような場所には、金明水が湧いていて、飲めるとのことで、ペットボトルに水を入れました。望月の水も美味しかったけど、金明水はもっと美味しい。
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8:58 銅板碑 笠取峠の茶屋
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案内板(銅板碑)
「 笠取峠の茶屋

中山道芦田宿と長窪(長久保)宿の間、笠取峠にあり、小松屋と称した茶屋の図(木版画)である。
ここより一・七キロメートルほど上がった峠左側、眼下見事に連なる松並木のはるか東方に、煙たなびく浅間山を一望できる所にあった。
峠道を上り下りする人、茶屋で休む人、格好で職業がそれとわかる人々でにぎわっている当時の様子がよくわかる。

茶屋の建立や消滅の年代は不詳であるが、この画は徳川時代末のものと推定される。
平成五年三月
立科町教育委員会

8:58 「望月」「芦田」「長窪」浮世絵の碑
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9:02 長野県天然記念物 笠取峠の松並木
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案内板
「 長野県天然記念物
笠取峠の松並木

 この峠道は 近世五街道の一つ中山道 の笠取峠である。徳川政権は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)東海道に伝馬制を実施し、翌七年には中山道などにも着手した。
 慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。
 笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年(1597)に設けられた芦田宿 と、およそ一里半(約六㌖)の距離を隔てた長窪宿 の間にある。
笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の村人とともに峠道約十五町(約一・六㌖)にわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重 の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。
 長い歳月の間、風雪に傷み枯れ、大正十三年(1924)長野県の調査によると二百二十九本があった。昭和四十九年(1974)長野県天然記念物に指定された。
 現在は、百十本である。立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。

平成五年三月
立科町教育委員会


9:02 中部北陸自然歩道案内板
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9:03 吉村煙嶺句碑
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「 吉村煙嶺
古道の名残も捨て難けれども

繕う多
道や春めく
人通り 」


9:03 道祖神
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小諸藩領界石】


9:04 小諸藩領界石「従是東小諸領」
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案内板
「 従是東小諸領

この石標は、小諸藩が文化3年(一八〇六) に領分境の東西へ建立したうち西側のものである。

藩領の西端中山道笠取峠(ここより西一・七キロメートル)にあったものの復刻である。これを境に西は幕府領である。

藩領東端の石標は『従是西小諸領』と刻まれ、小田井宿追分宿との間、追分○(現御代田町) にあった。 」

(追分○の○は読めませんでした。)


道路を渡り、その先の石畳風遊歩道へ。

9:04 この分岐の左へ進みます。
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9:06 長野県天然記念物 笠取峠の松並木
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案内板
「 長野県天然記念物
笠取峠の松並木

この道は江戸時代の中山道である。
はじめは『中仙道』であったが、享保元年(一七一六)から『中山道』と改められた。
慶長七年(一六〇二)幕府は中山道の整備に着手。この松並木はその一環として同年幕府から小諸藩に赤松数百本が下付されたものを植栽したものである。
以後、小諸藩により補植、保護がなされてきた。
笠取峠の松並木は中山道の名所として知られ、四季を通して旅人の目を楽しませ、松籟を聞かせてきた。
大正十三年(一九二四)長野県による調査と保護が加えられ、昭和四十九年(一九七四)長野県天然記念物に指定された。
現在百本余の老松が往時を今に伝えている。

長野県教育委員会
立科町教育委員会

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【松並木西口】

9:09 長野県天然記念物
笠取峠のマツ並木標柱(西口)
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9:09 中部北陸自然歩道道
塩名田 14.0km →
← 1.3km 笠取峠
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一般国道142号線を歩きます。
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【笠取峠】

9:26 笠取峠の一里塚
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案内板
立科町文化財
一里塚(笠取峠)

 中山道 は、中仙道とも書くが享保元年(1716)に東山道の中枢の道であることから、中仙道と呼ぶとあり、また木曽を通るので木曽路ともいわれ、五街道の内では東海道に次いで、江戸京都を結ぶ主要路線であった。一里塚 は、この道一里間につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつけかえる習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目じるしに松の木などが植えられた。この笠取峠の一里塚にも赤松が植えられ、その大木が今なお当時の街道の面影を残している。

立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


9:30 笠取峠
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案内板
「 笠取峠竣工記念碑

笠取峠は、古来は東山道、江戸時代は中山道 として東西の交通の要所であった。現在の国道142号は生活道であると共に、関東地方と中部近畿地方を結ぶ重要な産業道路としての役割を果たしている。交通の難所であった笠取峠の道路改良工事が、関係各位の御理解と御協力のもとに、めでたくここに竣工したものである。

一級国道 142号 笠取峠道路改良工事
延長 立科町 1,760m ・ 長門町 3,010m
事業費 32億7,500万円
着工 昭和59年4月 ・ 竣工 平成7年3月
佐久建設事務所・上田建設事務所 」


9:31 長和(ちょうわ)町に入ります。
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9:33 中山道笠取峠標柱
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9:33 笠取峠 峰の茶屋
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ここはお食事処で営業している時もあるようですが、新型コロナウィルスの影響でしょうか。営業はしていないようでした。(まだ朝だったからかもしれません)


9:34 銀明水、金明水の標柱
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かつては旅人の喉を潤した銀明水は、今は痕跡のみだそうです。

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2度目の中山道10日目の2(笠取峠から長久保宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/180000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003



2度目の中山道番外編(軽井沢)

2度目の中山道番外編(軽井沢散策)
2020年4月7日(火)

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本日も中山道を歩く予定だったのですが・・・・

昨日までに歩いた芦田宿の先はバスの便が悪く、今日の17:30に軽井沢駅前出発のバスに間に合わなくなるので、今日は中山道歩きは諦めて、軽井沢散策をしました。

夕べの宿、望月からバスで佐久平に出て、小海線しなの鉄道と乗り継ぎ、軽井沢にやって来ました。

しなの鉄道から見た浅間山
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駅前で、長野テレビの人に

「今日はどこからいらしたんですか」

と聞かれました。

望月から、というと、期待していたお客様ではなかったので、さっさといなくなりました。

緊急事態宣言を受けて首都圏の人が軽井沢に来るのを取材したかったんでしょう。

私は神奈川県から来たんですよ。でも、今日はどこから?と聞かれたから、望月から、と答えました。

でも、取材されなくてよかった。諸々テレビ向きじゃない格好をしていたし、明日からは一般人に戻りますが、この4日間はあるき人(世捨て人というか、strangerというか)やってましたから。


緊急事態宣言が出なければ、来週か再来週かに中山道の続きを歩きたかったんですが、当分はお休みですね。

歩くだけなら人のいないところばかり歩いているからよいのですが、移動手段でバスや電車に乗るし、宿泊施設にも泊まりますから。

軽井沢駅内の観光案内で散策コースマップをもらい、唐松林の別荘地を散策。
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絵手紙は雲場池
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案内板に、春は新緑が水面に映って美しい、とありましたが、標高1000メートルだと、海抜ゼロメートルより約7℃低いので、ここはまだまだ冬ですね。

唐松の道
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軽井沢ショー記念礼拝堂
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矢ヶ崎チャペル(ホテルマロウド軽井沢のチャペル)
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カトリックの聖パトリック教会。
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ランチは旧軽井沢食堂で
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信州牛カレーライス(1580円)と紅茶(300円)。
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旧軽井沢銀座
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パンのASANOYAで夕食用のパンを買いました。
カレーパン(220円)、
焦がしホイップ&カスタード(270円)
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「軽井沢写真館」(ホームページより)

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 軽井沢の古き良き時代にタイムスリップしたような、レトロ調の記念写真はいかがでしょうか。 セピア写真の撮影をメインとしておりますが,ご希望によりカラー写真も承っておりますので、お気軽にご相談下さい。 野外での撮影は午前の開館時より、午後4時半くらいまで撮影可能ですが、 混雑状況、天候により変動致しますので事前にお尋ねくださいますよう宜しくお願い致します。

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茜屋珈琲店
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icotto.jpより

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茜屋珈琲店は、軽井沢の旧軽銀座通りの奥にある老舗喫茶店です。真冬の間は土日しか営業しないお店が多い旧軽銀座通りで、通年営業をかたくなに守り、しかもほとんど年中無休(不定休あり)で営業しています。観光客にも別荘族にも、地元民にも愛されているお店です。

メニューは絞りに絞り、厳選した品数で勝負しています。

有名人が登場する逸話に事欠かない名店!
今も語り継がれる『茜屋スタイル』

旧軽にある茜屋珈琲店は、先代オーナーの船越氏が神戸で創業し、昭和45年に軽井沢に出店したお店。船越氏は確固たるスタイルやこだわりを持っていたことで有名で、今も「茜屋スタイル」と言われ語り継がれています。先代がなくなった際に『偲ぶ茜屋珈琲店主人』という本が出版されているので、手にとってみるのもきっと面白いですよ。

トレードマークの茜色の文字が浮き出たマッチ。味のある文字は、先代オーナー直筆だそうです。
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船越氏がただの頑固オヤジでなかった証拠に、作家や財界人とも広い付き合いがありました。ミステリー作家の内田康夫の作品『軽井沢殺人事件』には茜屋珈琲店がモデルの店が登場し、船越氏自身も「草西老人(草かんむりに西で、茜という意味)として描かれています。その他、作家の山口洋子氏、日本画家の堀文子氏、赤川次郎氏、小池真理子氏なども常連だったとか。

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軽井沢散策は早めに終わってしまったので、珈琲館旦念亭で時間つぶし。
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パンケーキセット1,200円
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ここで時間つぶしにやったペグソリティアというボードゲームが面白くて、アマゾンに注文してしまいました。
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それでも、バスの時間までずっとこの店にいることも出来ないので、駅まで移動して、お土産に軽井沢チーズタルトを買いました。495円

駅構内のティールームで、アールグレイ500円を飲みながらバスの時間を待ちました。
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17:30発の高速バスは、乗客は私を含めて5名のみ。

車窓から妙義山を写したら、なんと紺屋は今年最大の満月、スーパーピンクムーンだそうて、妙義山の上に月が写っていました。
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20:50に渋谷マークシティー着予定が、20:05に着いてしまいました。道がすいていたのも自粛の産物?

到着した渋谷もすいていました。

明日から緊急事態宣言の日々が始まります。当分お出掛け出来ません。

お出掛け出来るようになったら、続きを歩きます。


2度目の中山道10日目(芦田宿から笠取峠へ)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/170436


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き9日目の4(芦田宿からの東下り)

2度目の中山道9日目の4
4月6日(月)の4


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東下り

一宿間だけいつもとは反対方向、東下りをやったのですが、今まで振り返り振り返り眺めていた浅間山が、東下りだと左斜め先にいつもいてくれて、一緒に歩いた感が強かった。


【ふるさと交流館】

13:40 ふるさと交流館でトイレをお借りしました。
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立科町ホームページより

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立科町ふるさと交流館「芦田宿」は、金融機関の建物を町が譲り受け、地域情報の発信、地域学習によるふるさと意識の高揚および人々の交流の促進を図り文化活動の拠点とするために平成16年に開館しました。

その後、平成25年に中山道を歩く人々の憩いの場とするため改修が行われ、さらに平成29年4月に移住サポートセンターが、平成31年4月には2階にテレワークセンターも併設され、現在の姿に至っています。

地域の方々や旅人、移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されています。

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ふるさと交流館の窓ガラスのには、浅間山を見て歩く旅人の絵が描かれていました。
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【蓼科の水と蛇石様】

13:50 蓼科の水
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案内板
「 蓼科の水

古来より、蓼科の山の湧き水は中山道を行き交う旅人ののどを潤してきました。
現在、この蓼科山の湧き水は上水道として整備され、立科町の水道水として利用されております。 」

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貼り紙
「 凍結防止のため
冬期間使用禁止 」

11年前のブログには書いていないのですが、私はこの街に来たときに、「あの水を飲もう」と思ったのに飲めなくて残念、と思ったので、11年前には飲んだのだと思います。

13:51 蛇石様
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案内板
「 蛇石(じゃいし)様

江戸時代末期頃から蛇石神社として石を覆うような社があったとされ、戦前までは清水家のくるわで四月にお祭りを行なっていた
蛇石様は夜泣きの神様として、米をおひねりにお参りすると乳呑児の夜泣きが治るとされた。現在は、まわりが二メートル以上ある大きな石のみが残され、石の真ん中には蛇の通った跡と思われる筋が残っている。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


この辺りの石かな?と思って何枚か写真を撮ったのですが、案内板に、「←」の矢印があることに、帰ってから写真を見て気付きました。

つまり、矢印の方向にある、この石ですね。
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この筋が蛇が通った跡でしょうか?

案内板には、清水家のくるわでお祭りが行われていた、とあります。

くるわ コトバンクより

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城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い 。

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【茂田井宿の外の道】

14:06 茂田井上停留所
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帰路は茂田井宿の中は通りませんでした。左へ行けば茂田井宿。右の道を行きます。
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浅間山が見えます。
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14:14 茂田井農村公園
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「 茂田井農村公園

この公園は、生活や生産の憩いの場、コミュニティ活動の場及び未来を担う子ども達が楽しく元気いっぱいに遊びまわり自然に親しみ、仲間と共に体力づくりや、健康の保持・増進に役立てるために整備したものです。

*みんなで仲よく元気に遊ぼう。
*きまりを守り大切に使おう。
*いつもきれいにしよう。

補助事業名
平成九年度農村総合整備モデル事業
事業主体 立科町


14:14 諏訪神社
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案内板
立科町文化財
諏訪社

諏訪神社の祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)である。この神は出雲系諏訪族の祖先として諏訪の上下二社に奉斉され古くは南宮ともいった。諏訪神社を中心とする諏訪信仰は全国的であり、その分社の数も非常に多い。
茂田井の諏訪社の創建年は不明である。この神社に関する最も古い記録は天正十六年(一五八八)当時の小諸藩主松平康国(芦田城主依田信蕃の子)が蓼科神社の神官今井曽五郎にあてた書状がある。この神社を『毛田井之宮(もたいのみや)』として『神領を遣わせているからには一騎の軍役を勤め、宮の修理、祭、祈念を怠ってはならない』とある。現在の社殿は江戸時代末期の文化十五年(一八一八)に茂田井の宮大工・田中圓蔵が建てたもので上尾の中の本殿は一間社流造でたが全部みごとな彫刻で飾られている。圓蔵は当時宮大工として天下に名声のあった諏訪の初代立川和四郎の弟子となった人で現在立科町にある圓蔵の作と伝えられるものに、津金寺の仁王門と妙見堂(二代和四郎と共作)・古町光徳寺山門がある。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


案内板に書いてある、「上尾の中の本殿」というのがよくわかりません。

一間社流造については調べました。

京都通百科事典より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

流造(ながれづくり)は全国で最も多い神社建築様式

建物の長辺側あるないは屋根の棟(むね)と平行な面に建物の出入り口がある平入

屋根が反り、屋根が正面入り口のほうに曲線的に長く突き出て向拝(こうはい)(庇)となっている

横に並んだ柱が2本で間(桁行)が1間だと「一間社流造」、柱が4本あり3間だと「三間社流造」と称される

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一間社流造はコトバンクによれば、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

小規模な神社本殿形式の一つ。正面の柱間(はしらま)が一間のもの。

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ネットで拾った、一間社流造
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ネットで拾った、三間社流造
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行くとき通った絵地図看板と案内図入れの箱を見下ろします。
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14:30 2時間ほど前に通った、茂田井宿への分岐に戻りました。
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分岐を振り返ったところ。
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14:30 にごり池
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14:39 分岐 真ん中を進みます。
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【望月宿へ】

望月宿を見下ろします。
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さっきの、折れた桜のところを逆Vの字に左後ろに折れて曲がります。
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来るときに見たトイレをお借りしようとしたら、鍵がかかっていました。
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来るときに通りそびれた旧道に入りました。

14:53 馬頭観音
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犬がしきりに吠えていました。


15:01 望月バスターミナル
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明日の朝のバスの時間を調べました。
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バス停に「望月町は駒の里」と書いてあります。
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「まちむら交流きこう」より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

古代信濃16牧の中心の望月の牧は、王朝文化人の間で「望月の駒」としてもてはやされ、その里は、はるかなる憧れの地でもあったのです。

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長野県ホームページより

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望月の駒

その昔、望月の牧(まき)は朝廷(ちょうてい)へさし出す馬の産地(さんち)として名高いところでした。

ある年、望月のとの様の館(やかた)に一人のむすめが生まれました。同じ日に、牧の馬屋で月毛(※)の駒が生まれました。

「同じ日に、姫(ひめ)と駒が生まれるとはまことにめでたいことじゃ。姫は生駒(いこま)姫と名づけようぞ!」との様はたいそう喜びました。

やがて、姫は山にさくユリのようにりりしく美しく育ち、月毛の駒は美しい毛なみのたくましい駒になりました。姫のうわさ、駒のうわさは四方に広がりました。

姫が十三才をむかえたある日、うわさを聞いた都の帝(みかど)からおめしがありました。「わが牧の姫に帝のおめしじゃ。わが牧も栄(さか)えるというものよ」喜びにわく館とはうらはらに、月毛は馬屋にふしたまま、かいばを食べなくなってしまいました。

「望月一番の駒が病とは一大事」と手をつくしてみましたが、いっこうに良くなりません。そこで、浅間(あさま)の行者にうらなってもらったところ、「生駒姫にこいしているのじゃ」というのです。

「帝にめされた姫に思いをよせるとはけしからん」との様はたいへんなはらだちよう。ところが姫は、「わたしは月毛とともに、この自然(しぜん)の中でくらしとうございます」というのでした。

困りはてたとの様は、月毛にあきらめさせるために、難題(なんだい)をもちかけました。「もし、鐘(かね)が四つ(十時)から九つ(十二時)を打つまでの間に、領内を三たびめぐりおえるならば、姫をあげよう」というのです。

これを聞いた月毛は勇み立ちました。四つの鐘とともにかけ出した月毛は矢のように領内を走りぬけました。一たび、ニたび。そしてまだ九つには間があるというのに、三たびめぐり終えるところまで来ました。

その時、鳴るはずのない九つの鐘がひびきわたりました。それを聞くと、むねもさけるばかり、足もおれるばかりにかけめぐってきた月毛は身もだえしながら、谷底へまっさかさまに落ちていきました。

との様は「これでやっかいばらいもできたというもの。姫も都へ上がるであろう」と、苦々しくわらいました。ところが、月毛の死を聞いた生駒姫は、都へ上るどころか長いかみをぷっちりたち切って、尼(あま)になってしまったということです。

(※月毛=赤みをおびた茶色)

佐久市教育委員会のきょう力をいただき、地元につたわる話を要約(ようやく)しました。)

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15:11 今夜の宿、青木荘に到着。
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明日にも緊急事態宣言が出るとのニュース。首都封鎖じゃなくてよかった。帰れなくなるところだった。

宿の方が、「(新型コロナウィルスの緊急事態宣言に備えて)別荘にみんなが戻ってきて賑やかになった」

と言っていました。

地元の方は、別荘にみんなが戻ってきた、という表現をするんですね。

風呂からは川が見下ろせて気持ちよかった。
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夕食も美味しくいただきました。ビールは自動販売機の缶ビールです。
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さきほど、往路の、金丸土屋旅館までの歩数を書きましたが、本日全体の歩数は24,113歩 14.7km

この先、笠取峠へ行くと、明日の夕方の軽井沢発東京行きのバスに乗れなくなるので、今回は中山道前進は後日に取って置き、明日は軽井沢散策をします。


2度目の中山道番外編(軽井沢)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/24/212902


2度目の中山道10日目(芦田宿から笠取峠へ)はこちら。
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/170436


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022

二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き9日目の3(芦田宿)

2度目の中山道9日目の3
4月6日(月)の3


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【芦田宿への道】

浅間山が見えます。
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13:16 高い塚の上にある謎の石塔。
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13:21 芦田宿案内板
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案内板
「 芦田宿(あしだじゅく)

慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
芦田宿は中山道二十六番目の宿として、宿の町並みは、六町二十間(約七〇〇メートル)文化元年(一八〇四)には、本陣、茶屋六軒、商家二軒、医師三軒、髪結二軒、按摩一軒、などがあり農家は四十五軒であった。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川14代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された、孝明天皇の妹『和宮』の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向って(芦田宿に向って)急な上り坂を過ぎると、標高八七七メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
中山道の松並木は慶長七年(一六〇二)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、県道に合流松や杉を植林した。この松並木は当時の物で、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って役を一〇〇本の松並木が二〇〇メートルつづいている。本陣は寛政十二年(一八〇〇年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口五間奥行き十一間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿雪隠、など客室の原形がほぼ完全にのこされている。 」
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【これより芦田宿】

13:22 これより芦田宿
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13:23 中山道股旅休憩所
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13:25 古町口バス停
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13:25 道祖神(古町口バス停の脇にあります。)
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13:27 道祖神
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13:31 芦田バス停
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この辺りがこの街の中心地でしょうか。
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11年前のブログより

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芦田宿は立科町の中心地だそうで、中山道と交差する商店街に、結構いろいろな店がありそうでした。

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しかし、今回来てみてらひっそりしていたのは、11年の歳月でシャッター街になってしまったのか、それとも、新型コロナウィルスの影響でみんな店を閉めてしまっているのか。


13:32 芦田宿ふるさと交流館
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トイレもあります。
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13:33 「町」というのは、字の名前でしょうか。
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【芦田宿本陣跡】

13:34 本陣跡
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案内板
「 県宝
旧芦田宿本陣土屋家住宅
昭和63年8月18日 指定

土屋家は、慶長初期に中山道芦田宿が設置されたとき、その開発に従事するとともに本陣をおおせつかり、明治に至るまで、代々勤めた。
江戸時代後期における土屋家は、客殿(きゃくでん)、主屋(おもや)、問屋場(とんやば)、荷蔵(にぐら)、酒造蔵(さけづくりぐら)、長屋等多くの建物によって構成されていた。
現在も、当時の面影を良く残している客殿が本指定物件で、これは中山道芦田宿本陣の客室部として、寛政12年(西暦1800年)に改築され明治維新まで大名、公家などの宿泊や休息に使われた。
客殿は間口5間(約9メートル)奥行き11間(約20メートル)の切り妻造り、妻入り、桟瓦葺(さんかわらふき)で屋根の前後に鯱(しゃちほこ)をかかげている。
玄関は唐破風(からはふ)とともに懸魚(げぎょ)、蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)などで構築され江戸後期の様式を良く表している。
内部上段の間は、床の間、違棚(ちがいだな)、欄間(らんま)の透彫(すかしぼり)、組子細工(くみこざいく)等室内の意匠(いしょう)にも意を用いた書院造りであり、京風の造作となっている。
建物全体の規模が大きく、上段の間、広間、小姓部屋、湯殿、雪隠(せっちん)などがあり、客室部としての原形がほぼ完全に残され、江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている。

立科町教育委員会
長野県教育委員会

いつも案内板などに書かれている寺社建築用語は聞き流し(読み流し)ているのですが、今日は切妻造りなど、調べてみました。


切妻造 wikipediaより

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切妻造(きりづまづくり)とは屋根形状のひとつで屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根。 広義には当該屋根形式をもつ建築物のことを指す。 切妻屋根ともいう。
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妻入りとは 「神社人」より

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現在、神社は社殿を持つことが当たり前になっています。これは、仏教の影響によるものではありますが、実際には、その建築様式にも様々なものがあり、これもひとつの見所と言うことができます。先ずは、各部位についてですが、簡単に以下のようなものがあります。

そして、その建築様式ですが、基本、神社の建築は、切妻造(きりづまづくり)と呼ばれるもので、屋根が三角形状に頂上から地上に向かって二つの斜面を形成するもので、日本の家屋における最も代表的なものになります。そして、建物の入り口が異なることで、大きく分けて、二つの様式に大別され、そこから更に、系列別に細分化することができます。
[二大建築様式]
平入り:屋根の面に対して、水平の壁に入り口を持つもの→神明系(伊勢神宮等)
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妻入り:屋根の面からみて、横の壁に入り口を持つもの→大社系(出雲大社等)

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桟瓦葺 「京風家改修用語集」より

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桟瓦で葺いた葺き工法をいう。 1650年ごろ それまでは、本葺の瓦しかなかったが、本瓦から発展し、丸瓦と平瓦が、一体になったものができた これを桟瓦といい これで葺かれた瓦葺を、桟瓦葺という。
普通の現在の軽い和形で、通常は、波形の瓦葺をいう
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唐破風 wikipediaより

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唐破風(からはふ)とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法である。

種類
唐破風には軒唐破風と向唐破風の二種がある。
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軒唐破風
軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた形に造形した破風である。姫路城天守西面四重などにみられる。

向唐破風
向唐破風は屋根本体とは別に出窓の屋根のような形で設けた破風である。

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懸魚(げぎょ) コトバンクより

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建築装飾の一つ。中国や日本の建築で,破風 (はふ) の下部内側またはその左右に六葉といわれる金属製や木製の栓で取付け,棟木や桁の先を隠すための飾り板。形により梅鉢懸魚,猪目 (いのめ) 懸魚,かぶら懸魚,三花懸魚などの種類がある。当初魚をつるしたような形であったのでこの名がある。
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破風(はふ) Shikishima-Townより

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破風とは、屋根の妻側の端の部分のことを指します。
そして、そこに取り付けられている板のことを破風板と言います。
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伝統的な建物では、彫刻を施した板が貼り付けられて装飾性を持っていましたが、現在の建物ではシンプルなデザインのものがほとんどになりました。
その名のとおり、雨や風を打ち負かして家を守っています。

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蟇股(かえるまた) コトバンクより

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和様建築で,梁や頭貫 (かしらぬき) 上にあって上の荷重を支える材。蛙股とも書く。梁上にあるものは厚い板状でこれを板蟇股という。平安時代からカエルが足を開いたような形のものができ,これを本蟇股という。初め内部には装飾がなかったが,のちに簡単な中心飾りができ,植物文,さらに動物文がつき,透かし彫から立体的なものまでが生れた。
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頭貫(かしらぬき) 社寺建築の豆知識より

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頭貫(かしらぬき)

柱の上部側の端の一部を掘り下げ、そこに横木を落とし込んで柱間を繋ぐ構造です。

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頭貫 「けんけんちくちく」より

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頭貫(かしらぬき)

この部材は、柱の一番上に用いられる貫のことです。

貫という名前ですが、柱を貫通することはなく、上から落としこむことが多く、虹梁のように彫刻などを施した化粧に仕上げることもあります。

古民家などの貫構造では、一番上の貫は天井貫と呼び、上から内法貫、腰貫、地貫といいます。

つまり、柱と柱を上部でつなぐために、柱の頭部に用いる横木です。

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肘木は、社寺などの建築で、柱の上方にあって上からの重みを支える横木。腕木。



肘木(ひじき) 社寺建築の豆知識より

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枓栱(ときょう)とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称です。
基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されます。
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斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称されます。
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固定は基本的には金物(釘・ボルト)や接着剤を使わず、
木材で作られた部品を、立体パズルの様の複雑な組合わせで、強固に組み上げられます。

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欄間の透かし彫り 「ワゴコロ」より

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欄間(らんま)とは、和室の障子やふすまなどをすえつけるために、上にわたしてある横木の部分である、天井の鴨居かもいとの開口部にはめこまれた建具のことです。

主に季節の風を運び、光を通すために設けられました。

格子や透かし彫りの板などが用いられることが多く、その美しい装いは和風建築の真骨頂ともいえます。

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組子細工 tanihata.co.jpより

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組子とは、簡単にいうと釘を使わずに木を組み付ける技術のことをいいます。細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組付けしていきます。遠く飛鳥時代から長い年月をかけて磨きぬかれた木工技術「組子」。 釘を使用しないで木を組み付ける繊細なこの技術は、職人たちの伝統を守る心と情熱により、何世代にもわたって現代まで引き継がれてきました。

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書院造り wikipediaより

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書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である[1]。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。

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上段の間 四万温泉積善館ホームページより

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身分の高い人の宿泊用の部屋

前回の「温泉と歴史」でご紹介した積善館本館1階の「馬つなぎの柱」の少し奥に、「上段の間(じょうだんのま)」と言われる部屋があります。

古くは「オジョーダン」とも呼ばれていました。
畳8畳敷きの広さで立派な床の間が付いた部屋です。

また天井も他の部屋から比べるとずっと高くその他、扇型の欄間や細かい組子細工の障子などが設えてあり部屋の造作も一段と凝ったものになっています。

何よりもの他の部屋と違うのは、この部屋の床が他よりも10cm(3寸5分)ほど高く作られているところです。

それが、この部屋を「上段の間」と呼ぶ理由です。
床が高いという事は、身分の高い人の宿泊用の部屋ということですね。

上毛歴史建築研究所の桑原稔氏は、積善館の「上段の間」を次の様に紹介しています。

「当家は、江戸時代初期の頃から当地で名主役を勤めた由緒ある家柄である。
『オジョーダン(上段の間)』は名主の家に限って設けることを許された客室であり、
床を一段高くしており、代官及び手代(代官の下役の地方役人)の休憩・宿泊用の室であった。」

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こちらは四万温泉の積善館の上段の間の説明ですが、分かりやすいのでこちらを引用しました。
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東海道中山道の本陣には、大名や公家、天皇や皇女和宮が泊まった、または休憩されたという上段の間が今も残っていて公開されているところもあり、私もかなり何ヵ所か見学させていただきました。


小姓部屋

小姓とは wikipediaより

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小姓(こしょう)とは、武士の職の一つで、武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う。「扈従」に由来し、「小性」とも表記される。

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「扈従」とは コトバンクより

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扈従 (こしょう)

(「扈」はつきそう意、「しょう」は「従」の漢音) 貴人につき従うこと。また、その人。こじゅう。こそう。

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案内板
「 芦田宿 本陣 土屋家

芦田宿 は、慶長二年(1597)に設立、江戸幕府の交通政策施行(慶長六年)より四年前で北佐久では一番早くできた。
 本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
 本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、往時をそのまま伝える建物は、中山道 唯一と言われている。 」


脇本陣・酢屋茂・庄屋・金丸土屋旅館】


13:35 脇本陣 山浦家
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案内板
脇本陣 山浦家

脇本陣跡の山浦家は始祖が芦田宿 開祖者の一人岩間忠助(1597年)であり、本陣跡の向かいに位置し参勤交代等の際中山道の宿泊施設及び問屋としてその役割を担っておた。
昭和五十二年に隣家からの火災により主家は焼失し現在は土蔵一棟のみが残っています。

えがおのふれあい「芦田宿」保全・活性化事業 立科町町区 」


13:36 酢屋茂(すやも)
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酢屋茂ホームページ(wazawaza.shop-pro.jp)より

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長野県立科町の老舗の醸造
酢屋茂

1892(明治25)年創業の酢屋茂(すやも)は、長野県立科町にある老舗の醸造元です。選び抜かれた良質な原材料を使用し、天然醸造という伝統的な製法で、味噌、醤油をつくり続けています。また、酢屋茂のある北蓼科高原(きたたてしなこうげん)は、昼と夜の寒暖差があり、味噌を作る微生物に最適な環境です。そして、材料にこだわり良い原材料を選ぶ事を心がけ、そうしたことが味噌本来の香りや旨味を作り出しています。

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13:37 庄屋 山浦家
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案内板
「 庄屋 山浦家

庄屋跡の山浦家は慶長から明治年間に山浦権助 によって建築されたと云われている。
問屋としても その役割を担っていた。現在は、建物の老朽化により取り壊され、跡地の奥には土蔵のみ残っている。

えがおのふれあい「芦田宿」保全・活性化事業 立科町町区 」


13:37 金丸土屋旅館
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案内板
「 金丸土屋旅館

文化元年(1804 年)頃より旅籠屋で、軒の西側に『津ちや』東側に『土屋』の看板を掲げる、今も旅館を営む金丸土屋旅館。二階の部分が表通りに少し出ている出張り造りで腕木に彫刻、煙だしを持つ大屋根など多くの特徴を持っている。 」


時間的にはまだこの先歩けたのですが、芦田宿の先には笠取峠があり、次の長久保宿はバスが別系統になって、今夜の宿の望月に戻れなくなってしまうので、芦田宿から望月宿に歩いて戻りました。

本日の折り返し地点、金丸土屋旅館までの歩数は 15,342歩 9.35km

この後、今夜の宿、望月宿まで歩いて戻った、一宿間だけの東下りについて、次の章でレポートします。


2度目の中山道9日目の4(芦田宿からの東下り) に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/24/134623


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き9日目の1(間の宿茂田井)

2度目の中山道9日目の2
4月6日(月)の 2


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【茂田井宿入口】

12:25 道標
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12:25 斜め右下へ。
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案内板
中山道茂田井入口

 望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている茂田井は、東の望月宿と西の茂田宿の間にある日村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
 寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿に加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。
 元治元年十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵士四〇〇人程の宿となっている。
 また、文久元年十一月七日には、徳川十四代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとがあった。
 一里塚 は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。

佐久市教育委員会

道の右側に、散策絵地図と、自由に持っていって良い案内図が入った箱があります。
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この景色、大好きです。
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12:32 神明社
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案内板
神明社

祭神は天照大神、雨乞いの霊験として崇拝されている。
宝永六年(一七〇九)茂田井村初代名主となった大澤茂右衛門が願主となり建立された。
本殿は神明造りで、 この地方では珍しいものである。

茂田井間の宿保全
活性化事業実行委員会」


12:32 石祠 三基
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【白壁と土蔵の町並み】

いよいよ、白壁と土蔵が続く美しい町並みが始まります。
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その景観から山田洋次監督作品「たそがれ清兵衛」(主演:真田広之)のオープンセットが組まれたそうです。


12:33 叶屋(酒造 国登録有形文化財)
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武重本家酒造株式会社ホームページより

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長野県の佐久地方、中仙道望月宿と芦田宿のちょうど中間点
旧中仙道沿いの昔ながらの街並
なんとなく時間がゆっくりと流れるようなたたずまいの中
お酒をゆっくり、ゆっくりと醸しております

「武重家住宅及び武重本家酒造」の建造物30棟は
国の登録有形文化財です
当社のお酒は文化財の中で造られています

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代表的な銘柄は、「御園竹」「牧水」です。


JAPAN GEOGRAPHICより

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叶屋(武重本家酒造)(国指定有形文化財

創業は明治元年。伝統的酒造の「木元造り」によって製造されているのが特徴だそうです。

江戸時代後期の住宅と酒造施設30棟が、歴史的景観を伝える貴重な建物として国の登録有形文化財に指定されています。屋内に入ると酒造りの道具や農機具、若山牧水が愛用した徳利なども飾られています。天井には駕籠が吊されていて,時代に重みを感じます。長野県には80余りもの酒蔵があるそうです。酒ラベルの一覧が張り出されてあり見事です。家の周りを一周すると水路で囲まれていました。屋根瓦には「武重」の文字。

水路の流れの脇に「若山牧水」歌碑。酒豪で有名な牧水は大正時代にこの地に逗留してお酒を愛飲しながら多くの歌を詠んだそうです。

ちなみに三首あります。

「よき酒とひとのいふなる御園竹われもけふ飲みつよしと思へり」

「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」

「ひとの世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにの楽しみ」

本当にお酒がお好きだったようですね。一首目のなかに「御園竹」と詠み込まれているのは武重本家酒造の代表銘柄です。

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12:34 若山牧水歌碑
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上記に三首書いてあります。


12:40 蔦屋(名主の館 大澤酒造)
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nagareki.comより

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大澤酒造(茂田井宿)概要: 大澤家は寛文10年(1670)に当地に土着し、元文2年(1737)から明治4年(1872)まで茂田井村の名主を務めた家柄です。茂田井宿は正式な宿場町ではない間宿で本陣が設けられなかった事から大澤家が代替施設として身分の高い人物が利用し、茂田井村下組高札場跡にもなっています。文久元年(1861)に公武合体運動の一環で皇女和宮仁孝天皇の第八皇女、孝明天皇の異母妹)が第十四代将軍徳川家茂に降嫁した際には、小諸藩の費用の一部として10両を献金し、藩からは銚子が拝領されています。元治元年(1864)11月19日に水戸天狗党中山道を西上し上洛しようとした際には、幕府の追討令を受けた小諸藩が本陣として利用しています。現在でも大澤酒造の敷地間口一杯に白漆喰で仕上げられた土蔵が建ち並び茂田宿の町並みの中でも異彩を放ち、屋敷の前には旧茂田井村高札場があり当時から集落の中心部だったようでうす。又、大澤家は元禄2年(1689)から酒造業を始めた旧家としても知られ、酒造家としては長野県内では指折りの古さで創業当初に醸造した日本酒は現存する最古の日本酒と言われています。現在は大澤酒造民俗資料館としなの山林美術館、館書道館になっていています。

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12:41 茂田井村下組高札場跡
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案内板
「 茂田井村下組高札場跡

 江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札を掲げた。高札場は名主宅前に設けられることが多い。
大澤家は元文二年(一七三七)より明治四年(一八七一)に至るまで茂田井村なぬしを勤め、元治元年(一八六四)十一月十九日、水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、それを追ってきた小諸藩兵士の本陣となった。
 
茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会 」


12:41 百貨店
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いわゆる、よろず屋さんでしょうか?

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12:43 休憩所(雪隠)
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ここで、持参のお菓子でランチ。雪隠(トイレ)は新しくてきれいでした。
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12:56 茂田井間の宿 案内板
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案内板
「 茂田井間の宿(もたいあいのしゅく)

慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
茂田井間の宿は、望月宿と芦田宿の間に位置し、旅人の休み処としての機能を持ち、多くの旅人の往来があった。
今、地域内の街道沿いには江戸時代の往時を偲ばせる土蔵や造り酒屋・民家・道路脇の水路等旅人に安らぎを与える往時の風情を見ることができる。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川十四代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された孝明天皇の妹『和宮(かずのみや)』の行列が茂田井間の宿を通過された。
また、元治元年(一八六四)十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山道通過に際し、茂田井村が小諸藩兵士四百人程の拠点になったなど、多くの記録が残されている。
一里塚は、石割坂(いしわりざか)を上りきったところに位置し、北側には榎(えのき)の木、南側には欅(けやき)の木が植えられていたという。江戸より四十二番目の一里塚であり、明治初期には豊川稲荷が祀られていた。現在は痕跡だけが見られるのみである。

茂田井間の宿保全・活性化実行委員会 」

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13:01 馬頭観音
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13:04 上組高札場跡
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案内板
「 茂田井村上組高札場跡

 江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、高札 が掲げられた。
 高札場 は名主宅前に設けられることが多い。
 茂田井村は戸数が多く、上組、下組と二人の名主がいた時代があり、ここ上組名主宅前に上組高札場があった。

茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会 」


【石割坂と一里塚】

13:05 石割坂
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案内板
「 石割坂

 勾配がきつく大きな石があり交通に不便だったが、その石を割り中山道を開通させたので石割坂と呼ばれている。

茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会 」
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13:07 柿本人麿歌碑
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看板
「 柿本人麿

ほのぼのと
明石の浦の
朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ 」

万葉集の中からの歌ですが、柿本人麻呂の歌ではないとも言われています。


13:07 茂田井の一里塚跡
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案内板
立科町文化財
一里塚跡(茂田井)

 一里塚 は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引きついで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞集)
 中国で路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという例にならって榎が植えられたと云われている。
 また、三代将軍家光が「一里塚には「余の木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎と聞きちがえて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一里を三十六町と決定され、五畿七道残るとこなく一里塚が築かれたとされている。
 天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、榎の根本が残っていたとある。

立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


13:09 木神
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13:09 温室
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13:11 県道に合流
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11年前のブログより

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間の宿茂田井は、昔から美味しい酒を作っていた町。坂道に用水路が流れ、建ち並ぶ家々の佇まいに、一瞬タイムスリップの気分。昔の町並みがここまで残っているとは!

造り酒屋の立派な門には、杉玉が下げられていました。

近くには、若山牧水の歌碑がありました。

江戸時代の一角を通りすぎ、町並みは新しい家になってきますが、それでもそこかしこに昔の面影を残していました。

急な坂を上り、左下に田畑が見えてくると、蛙の鳴き声が聞こえてきました。

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茂田井上停車場
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中部北陸自然歩道道
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上り坂
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2度目の中山道9日目の3(芦田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/24/122032


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き9日目の1(八幡宿出口から望月宿)

2度目の中山道9日目の1
2020年4月6日(月)の1

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【八幡宿入口バス停からの出発】

5:30 起床

7:00 朝食

8:45 明治屋旅館をチェックアウト。

中山道歩きで使ってください、と、ペンライトをいただきました。

御代田9:07発 しなの鉄道 410円

9:15 小諸着 9:20発 JR小海線

9:34 佐久平着 2階のベンチで時間潰し

10:00 に時報のチャイムが鳴り、「うたの街」4回演奏されました。
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佐久平駅
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佐久平駅 10:21発 バスに乗りました。
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バスの車内に、桜の花(造花)が盛り盛りに飾られていて、信州のこの辺り(佐久市立科町)は桜はまだ咲かないので、このディスプレイで気持ちが華やかになって、素敵なおもてなしだと思いました。
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10:37 八幡入り口バス停まで 460円
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乗ってきたバスを見送ります。

八幡入り口バス停から歩き始めます。

私からすると、ここは八幡宿出口です。

降りたバス停から、道の反対側に渡ると道標がありました。
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斜め右の道に進みます。
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10:39 馬頭観音
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10:40 地蔵尊
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10:41 今日も浅間山が綺麗に見えます。
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10:51 中部北陸自然歩道道
←茂田井宿5.5km 塩名田4.1km→
←笠取峠11.2km
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10:51 右の旧道へ
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こんな道を進んで行きます。
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祝言道祖神

10:56 祝言道祖神(百沢)
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案内板
祝言道祖神(百沢)

 長野県安曇地方で発生した道祖神 で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交す華麗な祝言像である。
 安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で造像されるのが通例であるが、この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である。
 発祥地安曇地方にも類例のない貴重な遺産である。

望月町教育委員会
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10:57 青い倉庫の前の旧道へ
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10:58 県道に合流

県道と平行な道
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10:59 百沢バス停
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この階段から県道に降ります。
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11:04 中部北陸自然歩道道
←茂田井宿4.7km 塩名田4.8km
←笠取峠10.5km
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11:04 斜め右へ
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11:08 石仏
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11:09 この辺り、ガイド本とは違うみたいです。
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中山道の道が崩れたり危険だったりすると、安全な道へ誘導されることはよくあります。


【瓜生坂一里塚】

11:17 瓜生坂の一里塚
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案内板
中山道瓜生坂の一里塚

 慶長九年(1604)徳川家康 は、大久保長安を総奉行として五街道の大改修をし、江戸日本橋を起点として一里(約四キロ)ごとに道の両側に方五間の一里塚 を築き、その上に榎を植えさせた。ここは南方の一里塚跡で北方の塚は、道路で半分削られているが、斜面上方に位置している。瓜生坂の一里塚の手前は、塩名田宿のはずれにあり先方は、芦田宿 手前の茂田井間宿に位置している。

望月町教育委員会


11:20 瓜生坂の百万遍念仏
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百万遍とは「南無阿弥陀仏」を百万回唱える念仏行事である。念仏の回数が多いほど功徳があると信じられ、その達成を記念して造立されたものである。


百万遍念仏 コトバンクより

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極楽往生を祈願して、七日間に一〇〇万回念仏を唱えること。
②浄土宗で衆僧または信徒が集まり、弥陀の名号を唱えながら一〇八〇顆かの大数珠を一〇〇回繰り回す仏事。知恩寺の行事として名高いが在家でも行われた。百万遍

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下り坂の木の間隠れに望月宿の町が見えます。
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ずっとトイレを我慢していましたが、

11:30 トイレがありました。
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11:31 中部北陸自然歩道道
←茂田井宿3.3km 塩名田6.2km→
←笠取峠9.1km
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11:31 右下へ。
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【長坂の石仏石塔群】

11:33 石仏石塔群
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11:34 石仏石塔群
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11:34 長坂の馬頭観音
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11:36 長坂橋
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11:38 馬頭観音
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【望月宿】

11:40 旅館 島田屋
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曲がり角に素敵な家
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11:41 中部北陸自然歩道道
←塩名田6.5km 笠取峠8.8km↓
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11:42 望月バスターミナル
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11:43 落花生の熊谷商店
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11:43 大和屋呉服店
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11:45 井出野屋旅館
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11年前はこの井出野屋旅館に泊まりました。

11年前のブログより

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2009.4.19.


17時20分頃、井出野屋旅館に入りました。

大正5年築の三階建ての建物です。

風呂は大きくて気持ちよく、夕飯は馬刺し、鯉の煮付け、鯉のあらい、きのこおろし、山菜天ぷら、ヤマメ塩焼き、信州そば、香の物、ご飯。

部屋で一人で食べたので、「おっ、この馬刺しはとろけるねえ。鯉の煮付けは身がしまって、味は濃いめで…でも骨が多いから気をつけないと。おっ、大根おろしが緑色だ。木の芽じゃないし…馬刺しのツマの大根も緑ってことは、大根そのものが緑なんだ。珍しいねえ。鯉のあらいも酢味噌との相性がいい。鯉の玉子は固くて味が濃くてしっかりしていて…鱈の子がたらこなら、鯉の卵はこいこ?味が濃いから泥臭くない。濃い鯉子…こいこいこ、ですねえ」…と、ひとり食いしん坊万才!をしていました。

隣のお客様、19時には大いびき。熟睡すればいびきは消えるかと期待しましたが、夜中までいびきは続きました。

それでも、23時過ぎに布団に入った私は、たぶん瞬間に眠りに落ちました。

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井出野屋旅館は、石坂浩二主演の映画「犬神家の一族」のロケに使われた建物で、大正時代に建てられたそうです。

また、「君を忘れない」(木村拓哉水野真紀反町隆史出演)という映画の撮影にも使われたそうです。

大正期には料亭を営んでいて、1965年から旅館を始めたそうです。


11:45 山城屋旅館
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おもてなしHRより

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御宿・山城屋は、群馬県との県境に位置する、長野県東信地方佐久市にあります。"佐久市は、浅間・荒船・八ヶ岳・蓼科の雄大な山なみと、千曲の清流、満天の星に抱かれ、豊かな自然や先人の築いた歴史と伝統に育まれた、美しい高原のまちです。"(佐久市公式HPより引用)望月宿の旅籠のひとつだった「山城屋喜左衛門」が、現在でも「御宿山城屋」として旅館業を営んでいるそうです。建物が完成したのは1881年で、玄関を入ったところが2階まで吹き抜けの天井になっているそうです。大正期に建てられた奥の建物の客室や、明治期に建てられた街道に面した建物の奥の部屋など、趣ある雰囲気の客室が魅力の宿のようです。※2019年7月4日時点

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11:47 佐久市立望月歴史民俗資料館
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11:47 商工会館(公衆トイレがあります)
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11:47 大森小児科医院(御本陣)
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JA佐久浅間ホームページより

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郷土探訪 【佐久市

中山道望月宿(佐久市望月)

中山道望月宿は江戸から25番目の宿場町で、街道沿いには、格子戸やうだつ、出桁造りの旧家や土蔵など、情緒ある町並みが残されており、宿場町の面影を今に伝えています。

宿場の中ほどには、本陣を務め宿の開設に尽力した大森家(現・小児科医院)があり、隣接する旧本陣跡地には望月歴史民俗資料館が建てられています。同館には、貴重な古文書や絵図のほか、平安時代から室町時代まで献上された望月牧の貢馬に関する資料や養蚕業の歴史などが展示されています。本陣の周辺には、江戸時代末期創業の旅籠屋で現在も旅館を営む山城屋、脇本陣の鷹野家、旅籠屋兼問屋を務めた真山家・大和屋などがあります。真山家の建築年は明和3年(1766)で、江戸時代中期の宿場建築の貴重な遺構として国重要文化財に指定されています。

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11:48 脇本陣 鷹野
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11:48 笹屋
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JAPAN GEOGRAPHICより

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大森小児科医院にかかっている御本陣の木の看板は書道家によるものです。望月宿には「屋号看板マップ」があり(資料に写真があります)、その表によると石飛博光氏の書によるそうです。叶屋、あさや、笹屋もこの方の書。著名な方のようです。

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石飛博光 wikipediaより

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石飛 博光(いしとび はっこう、1941年 - )は、日本の書家。本名読み・ひろみつ。

北海道生まれ。北海道赤平高等学校卒業後上京し、1960年より金子鴎亭に師事。64年東京学芸大学書道科卒業。駿台学園高等学校、千葉県立松戸高等学校の教員を務める。88年、89年日展特選連続受賞。96年、2004年日展審査員。96年、04年、08年NHKテレビ「趣味悠々」講師。日展会員、全日本書道連盟常務理事、毎日書道会理事、創玄書道会理事長。2011年、第53回毎日芸術賞受賞。自らの創作活動のみならず、各メディアでの書道の啓蒙活動や書写教育への取り組みにも積極的である。

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11:48 重要文化財 真山(さなやま)家(大和屋)
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佐久市ホームページより

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旅籠「大和屋」の真山さなやま家は問屋も兼ね、名主だった。明和2年(1765)に建てられ、国の重要文化財に指定されている。堂々とした造りの建物にしっくいの看板「やまとや」の文字に往時の繁栄ぶりをうかがわせている。

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11:51 大伴神社
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急な何段もある石段に、今回はパスしましたが、11年前は階段を上って境内へ行きました。

11年前のブログより

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2009.4.20.

望月宿外れの大伴神社へ。景行天皇が開いた古い神社とのこと。先を急ぐから、60段の階段は上らないつもりでいたら、境内の石仏群には面白いものもある、というので、結局60段上って石仏を見にいきました。

11年前に撮った石仏
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この先、右にそれて旧道に入るはずだったのですが、分岐に気づかずに進んでしまいました。(帰りに通りましたので、旧道の石仏は後程載せます)


11:55 御桐谷(おとや)交差点
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12:00 逆「つ」の字に左上に上って行きます。
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【茂田井宿までのフィールド】

12:01 馬頭観音(風化しています)
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12:03 トイレがありました。今回は通過
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12:04 桜の枝が折れていました。
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桜を回り込んで右へ上がりました。
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12:05 坂を上ってくると、望月宿からは見えなかった浅間山が見えました。
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12:06 寒念仏供養塔
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12:08 国道142号線のガード下を潜りました。
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12:11 「美味しーらんぼ」という食堂の横を通りました。11年前は普通に営業していたようですが、今回は閉店してだいぶ経つように見えました。
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11年前のブログより

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道を歩いていたら、お食事処の名が、「しいらんぼ」という店があり、椎の実の絵が描いてあったので…椎とさくらんぼからの連想の造語なのか、この地方では、椎の実をしいらんぼと言うのか…

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12:11 廃校 本牧小学校
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wikipediaより

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望月町(もちづきまち)は、かつて長野県北佐久郡にあった町。2005年(平成17年)4月1日に(旧)佐久市臼田町浅科村と合併し、(新)佐久市の一部となった。

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doronokisha.blog.より

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2009.5.18.


望月町は合併で多くを失ったが、「望月」の名は学校名だけに残った。合併条件で旧佐久市から「小学校を統合してこい」と言われた最後の望月町長は「はいはい」と、地域の伝統とその中心であった4小学校を合併した。春日小学校、布施小学校、本牧小学校は廃校となって、今年も美しい桜が寂しく咲いていた。そして、旧協和小学校の地に統合された「望月小学校」が新築開校した。昨春、校舎だけができて統合され、校庭と体育館が整ってスタートしたのは今年のことだ。

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望月町に関するwikipediaによると、望月町が合併で佐久市に吸収されたのは2005年4月1日ですが、望月町の4小学校が合併統合されて望月小学校が生まれたのは、2009年4月のようです。

本牧小学校は廃校になり、校舎は取り壊されたようですが、校門の美しい桜は残されているそうです。


バス停前に、ランドセルを背負った小学生が並んでいました。


12:14 御巡見道標
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12:17 ぐんぐん坂を上ります。
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12:24 にごり池
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緩く下ります。
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2度目の中山道9日目の2(茂田井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/23/115035


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き8日目の6(八幡宿)

2度目の中山道8日目の6
4月5日(日)の6


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【八幡宿入り口】

緩い下り坂。この先が八幡(やわた)宿。
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15:14 道標 重要文化財高良社300m→
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15:15 「八幡山常泉寺」標柱
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ここが八幡宿の入口だそうです。常泉寺は木々の奥の方にあるそうです。


nagareki.comより

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八幡宿(佐久市)概要: 八幡宿は慶長年間(1596~1615年)から元和年間八幡宿(佐久市)(1615~1624年)に整備された宿場町(周辺集落であった八幡・蓬田・桑山の3村が中山道沿いに集められ八幡宿を形成しました。)で中山道69次中24番目に位置しています。天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は本陣1軒(小松家)、脇本陣4軒(依田家・大坂屋など)、問屋2軒、旅籠3軒(天保14年)、と比較的小規模で隣の塩名田宿とは3キロ弱しか離れていない為、旅籠が少ない宿場町でしたが千曲川の西岸にあたり、川止めや背後に難所の1つである瓜生坂を控えていたこともあり脇本陣が4軒と多いのが特徴と言えます。幕末には皇女和宮の宿泊地としても知られ本陣食を担った小松家には下賜された品物などが伝えられています。現在でも交通量が多く建物の建て替えが進む中、本陣や脇本陣の門や問屋、宿場の地名にもなった延徳3年(1491)創建の八幡神社(旧本殿の高良社は国指定重要文化財、当社が地名の由来となっています。)が鎮座し歴史を感じさせてくれます。特に「八幡宿本陣跡」は貴重な事から平成9年(1997)に佐久市指定史跡(交通・通信施設)に指定されています。

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佐久商工会議所 Monthly Newsさく より

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佐久平中山道

滋野氏ゆかりの荘厳な八幡(はちまん)神社にちなむ八幡(やわた)宿

信州短期大学 副学長・教授(余暇学)
中藤 保則

第23 次塩名田宿と第24 次八幡宿との距離2.91 キロは、中山道で最短、次の望月宿までの3.45 キロも4 番目に短い。その理由は、塩名田宿・八幡宿間が悪路であったため、近隣の集落から人を移住させて造られた新宿であったからである。新宿といっても慶長7 年(1602)というから、江戸幕府が一里塚を造成する2 年前であり、中山道が整備されると共に形を整えていったのだろう。同時に新田の開発も行われ、寛永8 年(1631)から、市川五郎兵衛が私財を投じて拓いた五郎兵衛新田は、そのうちもっとも大規模で名高いものとなった。

 八幡宿の宿場としての規模は、本陣1、脇本陣4,旅籠屋3 と小さいが、脇本陣が4 つもあるのは、休憩や宿泊地として旅人に人気があったことを想像させる。皇女和宮の一行も宿泊に幡宿を選んだ。
 名称の由来は入り口にある八幡神社からきているが、「はちまん」ではなく「やわた」と発音される。八幡神社は高良社、あるいは高麗社とも呼ばれる。古代に高句麗から来た牧馬の技術をもった渡来人が、望月の官牧を指導し、その守護神として創建したものである。その後、牧官から武人として成長した滋野氏は、この神社を八幡社として尊崇した。国の重要文化財に指定されている本殿は、延徳3 年(1491)滋野氏によって八幡社として建立されたものである。奈良時代までは「やはた」とよばれていたという。八幡宿の八幡神社は古い呼び名が残ったものであろうか。

 いずれにせよ八幡神社は、その後も武神として武士や庶民から篤い信仰を集め、何度も修理や寄贈が行われてきた荘厳な神社である。

 滋野氏はいうまでもなく、清和天皇の血を伝えるといわれ、平安時代から佐久、小県の両郡に根を張った名門の豪族であったが、やがて海野、禰津、望月の三家にわかれた。知謀の猛将として名高く“真田三代”として知 られる幸隆・昌幸・幸村の真田家は、滋野の本家を継ぐ海野氏からわかれた一族である。

 宿場もさることながら、八幡宿を抜けて次の望月宿に至る道にも、なかなか見ものが多い。百沢の双体道祖神は、衣冠束帯と十二単の王朝風祝言像が精巧な浮き彫りになっており、保存状態もよく男女の表情まで見ることができる。この辺りから望月にかけては、双体道祖神が数多く遺されており、腕が良いことで知られた伊那の高遠石工の手になる秀作が見られるという。

 元禄10 年(1697)に建立された「中仙道道標」も見逃せないところである。「中仙道」となっているのは、「中山道」に表記が統一された正徳6 年(1716)以前に立てられたからである。

 中山道は瓜生坂を越えて佐久平を通る中山道最後の宿、望月宿に入るが、この瓜生坂は古代の東山道にあたり、遺跡も発見されている。

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八幡神社

15:20 八幡神社
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案内板
八幡神社 随神門

構造 三間一戸楼門 組物三手先腰三手先
中備(なかぞなえ)蟇股(かえるまた)間斗束(けんとづか)軒繁垂木(のきしげたるき)
屋根入母屋造(いりもやづくり)
妻虹梁大瓶束(つまこうりょうたいへいづか) 本瓦葺(ほんぎわらぶき)
楼門とは楼造り(ろうづくり)の門のことで二階建の門を言う。一階と二階の境は親柱に擬宝珠(ぎぼしゅ)をつけた高欄(こうらん)の縁側を巡らしている。頭貫木鼻(かしらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻等 江戸時代末の特色を示す門の両脇の間(ま)には衣冠束帯(いかんそくたい)に剣と弓矢を持った武官神像(ぶかんしんぞう)の随神をおく。

建立 天保十四年(一八四三)六月、今から百五十年前 小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主(だいがんしゅ)となり数百本の材木を、また欅材(けやきざい)は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸っている(かかっている)額は明治時代奉納されたもので戈(ほこ)を止(と)めて武を為す(ぶをなす)と横書きをされている。 」

随神門
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随神像
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八幡神社については、佐久市のホームページなどの公で出しているガイドが浅すぎるため、2つのブログを引用させていただきます。どちらもなかなか詳しいのですが、それぞれ、詳しすぎる部分と、言い得ていない部分とがあるため、2つを引用させていただきます。


「オコジョの散歩道」 (浅間山山麓千曲川の町、信州小諸を中心に東信濃の四季の自然のうつろいや、小さな歴史を中心に綴っています。)というブログより

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高良 (こうら)社・・・
祭神は、高良玉垂命(こうらたまたりのみこと)・・・

八幡神社の瑞垣門をくぐって、境内に入ると正面に旧本殿だった高良社があります。
八幡神社は武神として知られる八幡大菩薩を祀った神社ですから、八幡神が祀られていました。

現本殿を作るときに、旧本殿を破棄せずに高良社として、映して残したものとおもわれます。

今の本殿と較べると小さな建物ですが、本殿建立の時に残された棟札によると、高良社は室町時代の延徳3年(1491年)建立です。棟札の裏には、原文は漢字ですが、「そもそもかの八幡宮の御事、その始め数百歳を送るといえども、更に建立の始めを知らず。ここに滋野遠江守光重、望月御牧中悉く本意を致し知行をなす。その懇祈によって、かの宮をその砌みぎりに造立し奉るなり」とあるそうです。

三間社流造りで、屋根はこけら葺というシンプルなものですが、歴史的価値が高いと昭和17年(1942)に国宝に指定され、昭和25年(1950)には国の重要文化財となっています。

高良社・高良神社と呼ばれる社は全国各地にあります。

その由来には諸説ありますが、大きく分けると、二つの説があります。
一つは、本来は高麗(こうらい、こま)神社で、高麗人の神が、歴史の中で武内宿弥を祭神にした高良社になったというものです。
もう一つは、川原の地主神を祀る、川原神社が起源で、川原社が転じて高良社になり、全国に普及した八幡神社と結びついたといいます。

高良社は八幡神社の現本殿と較べると、素朴なそのものです。
時代の差なのでしょうが、このシンプルさの中の美の味わいは格別です。


現在の八幡神社の拝殿・・・

天明3年(1783年)の浅間の大噴火の年に建てられました。 
杮葺きの屋根や彫刻も含めて、落ちつきのある立派な拝殿です。

江戸末期の随神門と較べると次時代が早いためか彫刻は少なめですが、江戸時代の建物で、素敵な彫刻に飾られています。

八幡社由緒によりますと
貞観元年(859)、御牧の管理をしていた滋野貞秀による創建といわれ、吾妻鏡に 「 佐久八幡宮御前二十騎 」という記述があるのを見ても、武将の崇敬の厚かったことが分かる。 
延徳三年(1491)の滋賀光重の棟札に、 「 建立始望月御牧中悉致本意云々 」とあり、御牧七郷の総社であり、住民の総意で建立されたことが窺える。天正五年の修理、元禄十一年の葺替を経て、天明三年(1783)には本殿の建替えが行われた。 御祭神は応神天皇神功皇后玉依姫命である。』

本殿の鳳凰と鶏・・・

色々な動物たちや竹林の七賢人など素敵な彫刻が見られます。

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genbu.netより

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八幡神社

道路に面して、南向きに鳥居が立っている。鳥居の右脇に社号標が立ち、鳥居をくぐると、巨木の聳える参道があり、正面に天保年間造営の楼門。参道の左手には、道祖神の石碑が並んでいる。
(注釈:ここに書かれている楼門が、入口案内板に書かれていた「随神門」です。)

楼門をくぐると、右手に古い建物。昔の社務所だろうか。
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参道を進むと神門があり、神門の奥が社殿のある境内。
(注釈:ここに書かれている神門が、瑞垣門です。)

参道の正面には、当社の旧本殿である高良社がある。この社殿は、室町時代・延徳三年の造営で、国の重要文化財に指定されている。

高良社の右手、東向きに当社の社殿。入母屋造の拝殿の後方に、流造の本殿がある。

本殿の後方には、多くの石祠や石碑が並んでいる。御牧七郷の総社らしく、多くの神々が祀られているのだろう。

社殿の北側は緑の芝生。東側は林になっており、清々しく広い境内。早朝、心静かに参拝するには最適な環境だと思う。

社伝によると、貞観元年、滋野貞秀公によって勧請された古社。当地を支配した望月氏は、望月の鬼門除けとして崇敬したという。

吾妻鏡』に「佐久八幡宮御前二十騎」と記されており武神として、また、御牧七郷の総社として、領民、領主、藩主から篤く崇敬され、度々の寄進や修理営繕を受けた神社。

旧本殿を利用した高良社について。武内宿禰(高良玉垂)を祀る社なので、八幡宮摂社に相応しい社なのだが、あるいは高良(コウラ)は、高麗(コウライ)からの変化でもとは高麗(コマ)、つまり駒(コマ)だったのかもしれない。であれば、信濃御牧(貢馬のための牧場地)に祀られる社としても相応しい。

高良社には三扉あり、それぞれに金の紋が付けられていた。

高良社に向かって、参道の左手、拝殿の向かいに小池があり池の中に厳島社が祀られている。

高良社の背後、境内の北側が芝生になっており、諏訪明神が祀られている。
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重要文化財八幡神社旧御本殿の高良社
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案内板
「 八幡社由緒
御祭神 應神天皇 神功皇后 玉依姫命

由緒
創建年月未祥なれど、伝承に貞観元年滋野貞秀公よる(ママ) といわれ望月三郎公は鬼門除の神として信仰されたという
吾妻鏡」に「佐久八幡宮御前二十騎」とあるを見ても当時の武将の 崇敬の厚かった事が偲ばれます。
延徳三年滋野遠江守光重公建立の棟札に「仰彼八幡宮之其 始雖送数百歳更不知建立始爰」とあり、又「建立始望月 御牧中悉到本意云々」とあり当時御牧七郷の総社 として七郷住民総発起の形で建立された事が考えられる。 その後、天正五年竹田信玄の臣武田佐馬助豊公、滋野 印月公、馬場遠江守信重、息女弥保姫等によって修理、 寛文四年酒井日向守公葺替、元禄十一年石川美作守公 葺替、さらに牧野藩主となっても代々崇敬厚く、元禄十六年、 享保九年、寛保元年、天明三年には康満公によって寺尾山、 諏訪山の用材を頂き、両佐久、上小諏訪、上州方面から も寄進と相まって本殿の再建立が行われ、旧本殿は、 高良社として祀られ後文化十四年、天保十四年、嘉永 七年、明治三十一年、昭和九年と営繕が行われ今日に 至っています。御神徳は古くより地方の守護神として 殖産興業、武神縁結び、その他深く厚く各方面の 人々に重く崇敬されています


重要文化財八幡社旧本殿高良社

一、 御祭神 武内宿祢公(神名高良玉垂命
一、 建立年月日 延徳三年九月三十日(西暦一四九一年
一、 国宝指定 昭和十七年十二月室町時代の遺構を良く示すものとして指定
一、 重要文化財指定 昭和二十五年八月(建第一〇三六号)
一、 解体復元 昭和四十年九月三十日(文化庁
一、 特徴 三間社流造こけら葺、庇門、手狭、木鼻の絵模様、その他共にすぐれた室町時代の特徴が現れている。 」



重要文化財八幡神社旧御本殿「高良社」について
創建年月不祥、伝承では貞観元年滋野貞秀公信濃の領所寺尾に八幡宮を城衆雄徳山より定須行者をもって勧請したと云われ、延徳三年(西暦一四九一年)(野遠江守光重公が中心)の棟札に、「抑彼八幡宮之御事其始雖送数百歳更不知建立始」とあり、数百歳前は、平安初期になるので、伝承の裏付けとなる。尚棟札に「建立始、望月、御牧中悉致本意云云」とあり、御牧七郷の綜社として勅旨牧周辺の住民によって建立されるまでに崇敬されていたことがうなずける。

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【八幡宿本陣跡】

15:32 八幡宿本陣跡
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 宿場の中心部に皇女和宮も宿泊したという小松家の本陣門が当時のまま残されており、門前に“中山道 八幡宿本陣跡”と刻まれた石柱が立っています。和宮が下賜された品物などの歴史的資料も残されているそうです。


15:33 南御牧村道路元標
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15:35 八幡バス停
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15:41 八幡入口バス停
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今夜は御代田に泊まるのですが、次の望月宿まで歩くと、バスの本数も少なくてもどれなくなるので、今日の歩きはここまでにして、バスの時刻までまだ時間が沢山あるので、見過ごしたものを探しながら八幡神社前バス停まで戻ることにしました。


15:44 八幡邨標石
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15:46 再び八幡バス停
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待合室は陽当たりがよすぎて暑いです。


15:48 脇本陣
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こちらも脇本陣跡なのか、違うのか。
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15:51 立派な門の家。ここは脇本陣跡なのか違うのか。
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【レトロなバス停】

16:53 八幡神社に戻ってきました。
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八幡神社前バス停は、佇まいもレトロだし、思わず一枚一枚眺めてしまう古い広告がぎっしり貼ってあります。
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バスは16:18発。

佐久平着は16:32。運賃は460円

佐久平駅にて、今、乗ってきたバスです。
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佐久平駅
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佐久平駅で30分強待って、17:08発の小海線に乗りました。

小諸駅17:25着 17:30発しなの鉄道に乗り換え。

17:39 御代田駅佐久平から御代田までの運賃は410円。
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17:46 今夜の宿、明治屋旅館着。
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風呂に入り、洗濯をして、派手さはないけれど、美味しい夕食をいただきました。ビールは大瓶しかないというので、日本酒をいただきました。
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本日の歩数 41,459歩 25.28km


2度目の中山道9日目の1(八幡宿出口から望月宿まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/14/224751


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022

二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き8日目の5(塩名田宿から八幡宿への道)

2度目の中山道8日目の5
4月5日(日)の5


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塩名田宿への道】

13:50 百万遍供養塔
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13:55 諏訪神社
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入り口に男女双体道祖神があります。
祭事があるのでしょうか、御献燈が飾られていました。
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境内には、御嶽神社、石塔群があります。
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13:59 立派なお屋敷
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14:01 如意輪大士碑
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14:04 石碑石塔群 庚申塔など
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向こうに見えているのは、多分八ヶ岳です。

振り返れば、浅間山も見えます。
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進んでいく道はこんな感じ。
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14:13 Y字左へ(中山道道標)
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14:18 駒形神社と駒形坂
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塩名田宿

14:29 釜鳴屋(てっぱ茶屋)
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屋号を掲げた家がいくつかあります。

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14:31 土蔵造りの立派な家
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14:32 丸山煙草屋
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14:32 中津村道路元標
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【問屋・本陣跡】

14:32 問屋・本陣跡
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案内文
「 問屋・本陣跡
(丸山新左衛門家、本棟造、切り妻で入り口が妻側にある)

 塩名田宿 は、江戸から四三里一三丁、二三番目。中山道筋が定まるのは慶長のはじめころ、塩名田宿岩村田と望月の中間に位置し、街道筋でも難場のひとつ、千曲川を前に一宿が必要として北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現位置に四〇軒ほど移して形成した(慶長七年=1602)。問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた。寛政一二年(1800)の宿内総家数は一二六軒。
 問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦六年(1756)に再建されたが現在は御殿部分が改装した住宅になった。丸山家には宿場関係史料が多数保存されている。 」


14:33 花街塩名田 案内板
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案内板
「 花街塩名田

 塩名田が活気を帯びてくるのは明治三〇年代(1897-1906)になってからであろう。八幡から料理業二人が移転して営業、新角屋は上等の芸妓屋で三二年に塩名田一流の料亭として開業して四四年に新築して名声が挙がった。塩名田が花街として形成された要因は、地理的に北佐久郡の中央、千曲川の川畔にあり、当時の交通事情も良好で、他地域より営業に参加し易かったのであろう。また商家もここへ営業を求めてつめかけていた。志賀銀行支店・肥料会社。製糸工場もできた。劇場『塩名田座』も出現した。住民は養蚕に精を出し始めた。昭和三年(1928)時点で川原宿 に五軒、中宿に三軒があった。しかし、昭和一〇年代になると、いままでの平穏な世相は一変してしまって、三味線の音も消えていった。」


トイレの表示があったので、道を渡ってトイレへ行きました。
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【高札場跡】

14:37 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

江戸時代は、宿の街道筋の真中を塩名田用水が西から東へ流れていて、高札場が用水をまたいで設けられていた。そこには五枚の高札があり内容的には、宿継の人馬賃金、親子兄弟間の道徳、毒薬偽薬、などが掲げられていた。明治九年(一八七六)三月、公用の伝達掲示にと桂製で総長七尺五寸、内のり六尺二寸の物になった。また道路拡張のために北へ後退し用水路は路肩にふたをされた。高札場は現在公用掲示場に利用されている。 」

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案内板
「 佐越(さごし) 佐藤家住宅

佐藤家(半左衛門)は、塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝える。天保二年(一八三一)正月『家別間数改帳』によると、間口七間半。入側(いりかわ)四畳、上段八畳、中間(なかのま)一〇畳、小座敷九畳、茶間一七畳、見世(みせ)九畳、土間二一坪、料理間四畳半をもつ。ほかに板の間などがある。家の裏側には庭があって、土蔵・物置・湯殿各一、雪陰二か所と井戸を配置する。 」


14:39 えびや豆腐店
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とってもおいしい炭酸水豆腐屋さんだそうです。

「かえるのひとりごと」(脱サラして軽井沢でキッチンを開いているぽんきちさんのブログ)より

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Vol.524 海老屋豆腐店
2007/12/10 23:57

えびや豆腐店海老屋豆腐店は旧中仙道、塩名田宿(しおなだ)の古民家を店舗としている。建物は江戸時代後期のもので、かつて横浜の眼科医が避暑の館として使用していたものを70年程前に先代が買取って豆腐屋を始めたという。看板の文字は擦れかけ、入り口のガラス窓にかつて書かれていただろう「とうふ」「油あげ」などの文字も一部が消えてしまっている。旧浅科村の街道筋にあるこの古びた豆腐屋のどこが「お気に入り」かと言うと、、、。

取りも直さず、ただひたすら豆腐と油揚げが「旨い」のだ。旨いだけではない。ほのかに甘味もある。国産の大豆と浅科の清らかな水、天然のにがりだけで作ったからだろう。旨い豆腐には醤油も薬味もいらない。天然の塩をちょっとつけて食べる。それだけで充分だ。

老夫婦が暗いうちから大豆を茹で作った豆腐と油揚げはいつも午前中で売切れてしまうという。我々がやっとこの店を見つけた時豆腐は最後の一丁だけだった。

メディアの取材も頑なに断っているらしい。広告宣伝一切なし。ホームページなどあるはずもない。ただひたむきに昔ながらのやりかたで作れるだけの豆腐作り、売り切れたらおしまい。それでも客は列をなして海老屋の豆腐を買いにくる。

同じ食品製造業を生業とするものとして身につまされる思いだ。

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14:40 矢印に沿って右下へ
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【三階建て住居群】

14:41 十九夜塔
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14:42 「三階建て住居群」案内板
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案内板
「 三階建て住居群

塩名田の『川原宿』には所どころに情緒豊かな三階建て住居がある。通称『お滝通り』に立ちどまると気づく。
昭和六年(一九三一)に中津橋が従来の木造橋から鋼プラットトラス橋に架け替えられた。そのため、極道が以前より高い場所を通過することになって純粋な三階建て住居とは別に、国道沿いの家では既存の二階建てに、更に二階を増築し、四階建てとして国道に出入り可能にした住居もある。また、橋や国道へ上がるための階段も所どころに設けられた。 」

亀家 三階建て
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14:44 川魚料理 竹廻家
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「K部長の美味しいブログ」(軽井沢在住のグルメなKさんのブログ)より

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【竹廼家】さんは中山道の23番目の宿場《塩名田》のはずれ、ゆったりと流れる千曲川をお部屋から見下ろすことができる素晴らしいリバービューの川魚料理屋さんで、ハヤ料理が名物です。
愚か者のKは、川魚料理では天然物の鮎やヤマメが格上と思いこんでいたのですが、ある時東京で浅科村出身の方と伝説の名店【竹廼屋】談義をしていたところ「地元の人はみんな竹廼家さんへ《天丼》を食べに行くのだ!」とお聞きして、仰天しました。

なんで信州の山奥で天丼なのか?と思いましたが、よくよく伺うと、天丼は天丼でもハヤの天ぷらを乗せたどんぶりが名物とのことで、またまたびっくり。
そこで、再度おじゃまして天丼をいただきましたが、ほろ苦くこってりしたハヤの天ぷらと少し辛目のたれがかかった五郎兵衛米は相性抜群でメチャクチャおいしくて、さすがに地元の人は良く知っているものだと感心したものです。

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【中津橋 舟つなぎ石 塩名田節】

中津橋が見えてきました。
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川端から橋に上がるには、橋を潜ってからこの階段を上ります。
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14:46 中津橋 浅間山が綺麗に見えます。
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14:48 舟つなぎ石案内板

舟つなぎ石は川原にあったのですが見ないで橋に上がってきてしまいました。

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ここに舟つなぎ石の案内板があるのですが、劣化して読めないので、佐久市のホームページから説明を引用します。

佐久市ホームページより

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江戸時代、塩名田宿付近の千曲川は、流れも急で、洪水のたびに橋が流されていました。さらに、橋の架けなおしには負担も大きかったことから、一時舟渡しも行われましたが、不都合も多く、結局、橋を架ける方式がとられ、幕府は、橋を維持するため、佐久・小県郡内の村々で組合を組織させ、これにあたらせました。
明治に入り、組合での維持管理ができなくなってしまい、新たに船橋会社がつくられました。この会社では、明治6年1873年)に千曲川に九艘そうの船をつないで、その上に板を架けて橋とする「船橋」方式により渡川を確保しました。
その際、船をつなぎとめるために使われたのが、上部に穴を開けた大きな岩石で「舟つなぎ石」を呼ばれています。
その後、明治25年(1892年)に木橋が架けられたことから、船橋とともに舟つなぎ石はその役割を終え、現在では、船橋時代の苦労を物語る歴史遺産として、千曲川の流れを静かに見つめています。

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ここからも浅間山が綺麗に見えます。
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14:48 塩名田節の碑
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「塩名田名所は
千曲川 
次に名所は
滝の水 
ハーヨイショ 
駒形様の厄おとし 
涼味ゆたかな
中津橋

平成八年十二月 」


【加宿 御馬寄】

14:51 御馬寄(みまよせ)バス停
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御馬寄の名は古代に馬を集める牧場があったからだそうです。

御馬寄は、塩名田宿の加宿だそうです。


wikipediaより

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加宿(かしゅく)とは、主に江戸時代、五街道脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う。

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御馬寄辺りの家
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ここからは緩い上り坂で、国道がやや右に曲がる付近には一部昔の旧道部分が残っているのですが、今回は二回も旧道を見逃してしまい、見のがしてしまった旧道には、見たいと思っていた大日如来像と芭蕉句碑もあったので、残念。

11年前のブログより

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旧道に入り、坂を上っていくと、白い腹かけと白い帽子(給食当番みたいな)の大日如来像がありました。

大日如来像は二ヶ所にあったらしいのですが、私は二つ目の大日如来像しか気付きませんでした。隣には、芭蕉句碑がありました。

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14:59 ここが見逃した旧道の出口かな?
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11年前に見た大日如来
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15:00 御馬寄の一里塚跡
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日本橋から44番目の一里塚。


15:05 立派な門
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15:10 生井大神と馬頭観音
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生井(いくゐ)大神は井戸の守護神。
馬頭観音は、文政十一年(1828)建立。

15:12 中山道道標 浅間山が見えます。
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2度目の中山道8日目の6(八幡宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/13/112640


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き8日目の4(皎月原から岩村田宿)

2度目の中山道8日目の4
4月5日(日)の4


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【 白山比咩神社】

11:25 白山比咩(しらやまひめ)神社
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全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ、しらやまじんじゃ)の1社で、石川県と岐阜県との県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る白山神社の総本社である白山比咩神社と同じ名称の神社です。

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11:29 石仏石塔群
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11:32 小田井南交差点で県道9号線と合流
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11:33 振り返ると浅間山
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【皎月原】

11:35 道の反対側に皎月原(かないがはら)
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昔は広大な草原だったそうです。11年前に来たときには道を渡って皎月原を見に来ましたが、今回は道を渡らずに進みました。

皎月原の説明を探していたら、もし道をわたって皎月原に行っていたら見たであろう(多分11年前には見ています)案内板を見つけたので、貼っておきます。

案内板
佐久市文化財 名勝 皎月原

 皎月原は旧中山道沿い、小田井宿岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は『吾は唯人ではない。白山大権現だ』と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後女官は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶ様になったと伝えられている。
 只『村上家伝』の村上其国の伝記には全くの異説が載っている。

 平成2年10月1日 佐久市教育委員会


昔広大な草原だった皎月原は、この案内板の付近を残し、周りのほとんどは中古車センターになっていました。


11:38 馬頭観音
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道の反対側に渡りました。この辺りにショッピングモールやファミリーレストランがあるので。

11:43 バーミヤンが見えてきました。ここでランチしましょう。
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11:59 バーミヤンラーメン、ミニサラダ、餃子、鶏の唐揚げ、ドリンクバー
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12:31 出発。振り返ると浅間山
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12:33 リンゴ畑かなあ。
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何度も浅間山を振り返ってしまいます。
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住吉神社 岩村田宿の入り口】

12:48 住吉神社 この辺りが岩村田宿の入り口と言われています。
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11年前のブログより

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2009.4.19.

県道沿いを暫く行き、大きなケヤキの木の古木と、溶岩で出来た常夜灯がある住吉神社に寄りました。

ケヤキは立派なコブコブがあり、私はタブの木の写真を何枚か撮りましたが、タブの木の奥にちょうど見頃の大きな桜の木があり、他に境内にいた人たちは、みんな桜の写真を撮っていました。

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樹齢400年のケヤキと鳥居
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ケヤキは、裏側は空洞になっていました。
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今回はまだ咲いていない垂れ桜
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溶岩の常夜灯
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石塔群
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天明八甲年正月」と刻まれた双体道祖神 (右)
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境内には土俵もあります。土俵とタブの木
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【本陣代わりの龍雲寺】

12:56 龍雲寺
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佐久市ホームページより

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武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をした。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められている。

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割烹旅館あさやホームページより

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街道の交わるところ 岩村田

岩村田中山道で、江戸から数えて22番目の宿場。米穀の集積地として物資輸送上で大きな役割を果たしていました。
中山道が北から来て西へ抜け、北西の小諸へ行く道、南へ下って野沢を経て甲州へ行く道、東の香坂峠を越えて上州下仁田へ行く道が交わる交通の要所でもありました。
岩村田宿は本陣・脇本陣がなく、龍雲寺や西念寺がその役割を担っていました。
旅籠宿は8軒あり、旅人が足を休めました。
現代の中山道は人・馬の代わりに車が行き交い相変わらず交通の要所としての賑わいを感じられますが、車から降りてゆっくり散策してみれば、そこここにかつての宿場の面影を発見できます。

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軽井沢・佐久ポータルサイトSlow-style.comより

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幻の岩村田宿本陣

中山道岩村田宿には、本陣が存在しなかったと言われてきました。

ところが最近、佐久ホテルの書庫より
「本陣があった」という江戸時代の文献が5通出てきました。

この文書を小林先生が解読したものを
現在佐久ホテル一階の白秋の部屋の前に展示しています。(2015.7.26)

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この辺りが本陣展は期間限定と思われますので、現在は見ることは出来ないかもしれませんが、存在しないと言われてきた本陣があったことを証明する手紙が5通出てきた、という事実が公表された、ということは浪漫がありますね。


12:58 岩村田商店街
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シャッターが閉まっている店が多いのは、この辺り既にシャッター街なのか、普段は活気があるけれど今は新型コロナウィルスの影響でシャッターを下ろしているのか。


13:02 戸塚酒造店
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佐久物産振興会ホームページより

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戸塚酒造 株式会社

承応二年(1653)に岩村田で造り酒屋を創業。幾多の変還を経て、文政四年(1821)に現在地で再興。手造りに徹し、品質一筋の道を歩んできました。
創業者は御獄神社の信仰が厚く”寒竹霊人”として御嶽山に祀られられています。

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13:05 相生町交差点で右折
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13:07 石塔群
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【銀のドームと曲口神社】

13:08 ドームが見えてきました。
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ドームは、佐久市こども未来館(サクモ)です。

佐久市こども未来館ホームページより

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佐久市子ども未来館」(愛称 sakumo(サクモ))は、体験やコミュニケーションを通して、子ども達の「未来をつくる力(自ら課題を見つけ、それらを解決する方法を考え、創造する力)」を育むチルドレンズミュージアム(体験型子ども博物館)です。
身の回りのもの、こと、自然、人、そして自分自身をもう一度新たな視点で見つめ直して、新しい発見や感動に出会える施設づくりをめざしています。

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今回は少し離れた所からしかドームを見ませんでしたが

11年前のブログより

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岩村田付近で小海線の線路を渡る手前に、銀に光るドームのような物が見えたので、なんだろう、と思って見に行ったら、佐久市こども未来館でした。

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13:08 曲口(しゃぐち)神社碑
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ブログ「神道一直線」より

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上曲口神社秋祭り(2009-09-13)

 佐久市岩村田東芝間にある上曲口神社は古い神社で社殿や鳥居もありません。一説には縄文神だとか祟る神様とかいいますが、はっきりはしないようです。
 地元の古老はミシャグッツアンとも呼びます。岩村田にはここ上曲口神社と相生町の下曲口神社の二社がありますが、いずれも拝殿も鳥居もないです。一説にはこの二社から岩村田の測量を始めたので「尺をいれた口」とか「差し金(曲がり尺)をいれた」という説もあります。

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ここは下曲口(しもしゃぐち)神社です。


13:09 踏切渡りました。踏切からサクモのドームがよく見えます。
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御嶽神社

13:11 御嶽(みたけ)神社
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鳥居も囲いの塀もありませんが、立派な神社に見えました。

wikipediaより

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御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王権現を祭った神社。金峰神社金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)ともいう。総本社は吉野金峰山寺蔵王権現堂。

修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、明治時代の神仏分離のときに、御嶽神社金峰神社金峯神社)、蔵王神社などと改称された。神道において、蔵王権現は「大己貴命少彦名命」、「国常立尊大己貴命少彦名命」や、「安閑天皇(広国押建金日命)」、「金山毘古命」と習合し、同一視されたために、それらの神々を祭神とするようになった。なお、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。

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みたけ神社とおんたけ神社は分化されているんですね。

wikipedia調べでは、御嶽(みたけ) 神社と称する神社は11ヵ所載せられていました。岩村田御嶽神社の祭神は、大己貴命です。

大己貴命とは コトバンクより

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日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。
※書紀(720)神代上「素戔嗚尊、妃と為たまひて生ませたまへる児の六世の孫、是を大己貴命(オホアナムチのみこと)と曰す〈大己貴、此をば於褒婀娜武智と云ふ〉」

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中央奥が社殿。
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境内の石塔は右から「月読尊」「庚申」「妙見尊」その先は影で字は読めませんが、「保食神社」「不動尊」「甲子大黒天」

御嶽神社辺りからの浅間山
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岩村田高校
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13:20 あさま総合病院
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11年前も大きな病院の脇を通ったことはよく覚えていますが、多分あのときよりもきれいになったと思います。


【相生の松】

あの、カーブのところに相生の松があることを、覚えていました。
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13:22 相生の松
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「四季歩のつれづれ」(岩村田出身の方のブログ)より

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相生の松

記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、縁起のいい名前から、野点をされたと言われている。
「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。現在の松は三代目である。

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11年前のブログより

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私は相生の松は∞無限大マークみたいに絡み合っているのかと思ったら、主なる幹の下の方の脇から、新しい幹が出ていて、二本の松の根本が一緒、というものでした。

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13:23 中部北陸自然歩道道
追分宿 11.0km 塩名田宿4.3km→
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中山道は相生の松の所で直角に曲がります。江戸方面から来ると、かくっと右に折れます。


13:26 砂田用水改修記念碑(右)と水神大
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13:31 道祖神
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浅間山を見ながら進みます。
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左側に見えるのは八ヶ岳でしょうか?
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13:36 中部北陸自然歩道道
←塩名田3.6km 追分11.7km→
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砂田橋を渡ります。この辺りに一里塚があったそうです。砂田橋で渡る川は濁川と言います。

11年前のブログより

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濁川という川を渡りましたが、川の水が黄色っぽく、なんの成分なんだろう。

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という訳で、調べてみました。


濁川 wikipediaより

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長野県東信地方北佐久郡軽井沢町西部、浅間山の南にそびえる石尊山の東側(標高1,500メートル)に端を発し、南南西の方向で直線的に流れ、御代田町を経て佐久市塚原にて流れを西に変え、塩名田で千曲川(長野県内における信濃川の呼称)に合流する。長さは17キロメートルである。

水の色は、わき出た直後こそ澄んでいるものの、硫化鉄や遊離炭酸を多く含んでいることから、数十メートル流下するうちに褐色に濁る。源泉から下流の標高1,000メートル地点までの間の川底には、赤みがかった褐色の沈殿物が厚く積もり、固まっている。

源泉の近くには褐色の水を湛える血の池やおはぐろ池があり、さらにそこから若干下ると落差9メートルの滝になっており、これは血の滝または赤滝と呼ばれている。

流れる途中で支流や地下水が合流し、軽井沢町を過ぎて御代田町に入るころには水量が増え、色も薄めの黄白色となる。しかし、下流佐久市と接する御代田町の小田井(標高770メートル)では、水の色が黒みがかった黄白色となる。

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【荘山稲荷と保食神

13:38 荘山(かがりやま)稲荷社
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案内文(印刷物)
「 荘山稲荷社

鎮座地 佐久市大字平塚字荘山12番地

祭神 保食神(うけもちのかみ)外3柱神

由緒(いわれ)

本神社は平塚区荘山に在り、創立されたのは江戸時代中期に入った頃の寛保元年(1714年)と伝えられ、今から273年前のことである。 当時の平塚は農業と養蚕が盛んな村であったため、その守護神として祭られた神社である。本殿が西側を向いた神社はめずらしく、平塚区と神社の 位置関係からも、この神社が平塚の守り神様である事がよくわかる。
本殿には、五穀養蚕豊穣(ごこくようさんほうじょう)の棟札 (むなふだ) がおさめられている。

平成26年9月3日 記

*出典 日本書紀 現代訳 」

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案内文(印刷物)
保食神(うけもちのかみ)

天照大神が天上にあって、言いました。『葦原の中つ国に保食(うけもち)の神がいると聞いています。そなた、月夜見尊(つきよみのみこと)、行って見て来なさい。』と。月夜見尊は命令を受けて降りました。そして、保食神のところに行きました。

保食神は首を回して国土を見ると、口から飯を出しました。又、海を見ると、毛の荒い動物、毛の柔らかい動物を口から出しました。その各種の物を全部揃えて、沢山机に並べて饗応しました。

この時、月夜見尊は顔色を変えて怒って言いました。『けがらわしい。いやしい。どうして、口から吐き出したものを、あえて私に食べさせようとするのか。』と言って、即座に剣を抜いて、殺してしまいました。それから天上に戻って、詳しくその状況を話しました。

すると、天照大神は大変怒って、『お前は何と悪い神だ。もう会わない。』と言いました。そこで月夜見尊とは、一日一夜を隔てて離れて住むようになりました。
この後、天照大神はまた天の熊人(くまひと)を遣わして、どうなっているか見に行かせました。この時には、保食神はすでに死んでいました。すると、その神の頭頂からは牛と馬が生まれていました。額からは粟(あわ)がなっていました。眉の上には蚕(かいこ)が生まれていました。眼の中には稗(ひえ)が生まれていました。腹の中には稲が生まれていました。陰部からは麦と大豆や小豆が生まれていました。

天の熊人はこれを全部持ち帰って、献上しました。天照大神は喜んで、『これはこの世の青人草(人間ー青い目の人とも言う)が食べて生きるものです。』と言って、粟(あわ)稗(ひえ)麦豆を畑の種子としました。また、稲は水田の種子としました。また天の邑君(むらきみー農民の長)を定めました。
そこで、その稲種を初めて天の狭田(さなだ)長田に植えました。その秋に実った穂は大変長く垂れて、豊作でした。また口の中に蚕を含んで絹糸を引き出すことが出来るようになりました。これから初めて養蚕が始まりました。

*出典 日本書紀 現代訳 」


赤い鳥居の所に芭蕉句碑があるそうです。「野を横に馬牽むけよ郭公」元禄2年、那須で詠まれたもので、奥の細道「殺生岩・蘆野」の中で紹介されている句です。

13:39 中部横断自動車道のガードを潜りました。
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2度目の中山道8日目の5(塩名田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/12/133011


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き8日目の3(御代田 小田井宿)

2度目の中山道8日目の3
4月5日(日)の3


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【笑坂】

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10:03 御代田(みよた)町に入りました。
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浅間山を見ながら歩きます。
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この緩やかな下り坂を笑坂(わらいざか)と言います。ここに来る前にガイド本で笑坂の文字を見たときは、下る人は膝が笑うほどきつい坂、上る人はもう笑うしかないぐらいきつい坂、を想像していました。実際来てみて、緩やかな坂で自然に笑みがこぼれてしまうから、そして京都側から来た人は、口笛でも吹けそうな緩やかな上りだから、それで笑い坂なんだろうと思いました。一説には、京都側からくると、もうすぐ追分宿、飯盛女(この場合は女郎)に会える、とにやけてしまう、なんて仮説を立てた人もいましたが、自然に笑みがこぼれてしまうからだと思います。ただ、京都側から来た場合、いくら緩やかな坂でも長すぎるから、微笑むことが出来るかどうか。やはり飯盛女かなあ。


10:08 御代田観音
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碑文によりますと、 戦後に58軒が入植しますが、食糧難や経済難、過酷な生活にてこの世に生を受けられなかった子ども達のために、水子地蔵と普賢菩薩を併せた観音堂を建立したそうです。


10:09 中部北陸自然歩道道
←小田井3.4km 追分1.8km→
←塩名田13.5km
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浅間山を振り返り振り返り歩きます。
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10:26 大山神社
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この先、御代田の一里塚があるはずなのに、見過ごして御代田の地下道まで行ってしまい、いやいや、御代田の一里塚は絶対見なくちゃ、と戻りました。


【御代田の一里塚】

10:33 御代田(みよた)の一里塚入り口
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10:34 御代田の一里塚
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今回は浅間山をバックに枯れ枝の垂れ桜ですが、11年前に来たときには、垂れ桜が咲いていました。
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案内板
「 長野県史跡 御代田一里塚

 中山道、御代田の一里塚 は、軽井沢町追分一里塚 の次に位置するもので、これを経て中山道小田井宿 へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿 へと向かう。
 中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長七年(1602年)に整備され、寛永十二年(1635年)に回収されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
 本一里塚は、西塚で径十三m、周囲四十m、高さ五mを測る。隣接するのは東塚で径十三m、周囲四十m、高さ四・五mを測る。
 これらは現中山道より七m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
 ちなみに、国道十八号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。
昭和三十九年八月二十日
長野県教育委員会 指定 」


多分、これが反対側の塚だと思います。
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両塚を入れた写真
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10:42 御代田の地下道(線路を潜ります)
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10:44 地下道から出たら、道が分岐していて、写真の真ん中の道を行きます。
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10:45 立派な門
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10:50 石仏石塔群
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10:55 石祠二社
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10:55 立派な塀
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11:01 Y字を左へ
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分岐から浅間山を振り返る。
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11:02 中部北陸自然歩道道
←塩名田10.3km 追分5.0km→
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11:05 石仏石塔群
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【姫の宿 小田井宿 おはる地蔵】

歓楽的な色が濃かった追分宿を隣に控え、小田井(おだい)宿は大名の妻や姫君が泊まることが多かったため、『姫の宿』と呼ばれていたそうです。

11:06 小田井宿跡入口
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上小田井バス停と小田井入り口付近の町並み
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11:08 おはる地蔵
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案内板
「 女傑 安川ハル

安川ハルは、御代田村小田井、安川肅・すての一人娘として、明治36年3月4日に生まれた。御代田小学校、岩村田農学校女子部を卒業し、更に補修科を修業した。大正8年3月、郡教育会主催小学校、准教員並びに師範学校準備講習を受け、裁縫科専科正教員免許を取得。同8年11月から翌年8月31日まで小沼小学校に奉職した。退職して上京、女子師範学校を志したが、家庭の事情で呼び戻された。めったなことで、くじけない彼女は何を思ったか、敢然として髪を切り落とし、無断で南佐久郡小海村の心霊道でしられる油井まさごの弟子になったが、親に気づかれ連れ戻された。
意志の強固な彼女は再び黒髪を惜しげなく切り落とし、久留米かすりに小倉袴という男装で家を飛び出した。女性が断髪したという理由で警察に検束されたこともあった。東京第五中学校長伊東長七や福島大将令息の援助を受けながら、ゴミや人糞を焼却して肥料を作る研究に没頭した。農民が人糞と種麦を混ぜて手で蒔く。木を焼いて灰を作り肥料としている。草を苅って田の中へ入れている姿を見たのが研究の動機だという。山中に入り炭焼きをしながらかまの研究をした。深夜、人の寝静まるのを待って人糞を運び焼却の実験をするなど、苦労がようやく報いられ炭焼きかまを改良したようなかまど『安川式肥料燻炭炉』が完成したのは春頃が28歳の時であった。
東京市役所の下水課長に面会してゴミと人糞を無料で受け、高価な肥料を買えない農民に、安く提供したいことを説明した。これで農家は安い肥料を手に入れることが出来る。東京市も200万世帯から出る27万貫の五味と人糞を処理することが出来る。一度に手車10台分(約1,000貫)のゴミと糞を15時間で完全に焼却し、燃炭肥料が出来る。しかも副産物として、メチルアルコールアンモニアなど7種類の高価な薬品がとれることが帝国大学で証明された。東京市の1日に出る塵と糞から、約27,000貫の燻炭肥料が生産できる。1貫目30銭として、1日8,000円の利益がある計算になり、将来期待されたが、彼女は塵芥の中にある菌が左手の傷から入り、難病にかかり床に伏した。このため肥料燻炭炉は軌道にのせることなく止むなく中断した。
昭和7年3月、この病気がきっかけで観音様を熱心に信じるようになった。読経の合間に病にかかった左手の小指・薬指・中指の3本に針を刺して血を硯にしぼり、筆にふくませて経文を7カ月かけて書き写した。観音経220巻、十一面観音経30巻、般若心経25巻、計275巻、字数にして489,900字、血液1升5合になるという。この間、精進食である麦飯の菜汁の生活で新体はすっかり衰えたが、信仰心と精神力は衰えることがなかった。この血書は、小笠原長生子爵を通じて文京区本郷の大円寺に救国祈祷のため納められた。住職である服部大元師は、千手観音を彫刻家髙村光雲に彫らせ、大座の中に血書を入れ永く救国祈願をしたが、千手観音と血書は戦災で焼失した。その後も周りの人々が止めるのも聞かないで、血書で般若心経1,000巻の書写を目指したというが、どうなったかは不明である。
戦争が激しくなり食料が不足すると、ハルは部下を大勢引き連れて寺沢へ開拓に入った。開拓地の許可を得るために、諸官庁との交渉役を受け、開拓の許可を取ったり開拓計画や仕事の割り振りの手際のよさは、周囲の人々を驚かせたという。戦後、当時雲の上の人と思われていた中島今朝吾中将と堀内中将を自宅に連れてきたことも、彼女の人脈の広さを伺うことが出来る。小学校へオルゴールのベルタイマーや全教室にテレビを寄付したり、上宿区へ共用の花嫁衣装とその維持費を寄付して、地域にも貢献した。
平成3年3月16日、89歳で永眠した。戒名は『静壽春英大姉』、墓石の裏には『故 安川ハル 刀自は独居生活を営み、近隣の温かい愛情に包まれ天寿を全うする。没後縁者、隣人、知己、交友相寄り相謀らい葬儀を行ない遺産を以て墓石を建立、菩提を弔い冥を念ず』と尾台誠の言葉が書かれている。明治40年に追分から移築したという家と屋敷と財産は本人の遺志により、上宿区へ寄付された。家は古くなったので取り壊され、そこには地区の人たちによって『おはる地蔵』が建立された。
(文責 尾台和雄)

故 安川ハル 顕彰会 」


11:09 御代田町観光マップ
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11:09 東の桝形
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案内板
中山道 小田井宿
 小田井宿天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東西の入口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道 の繁栄期であった文化・文政期には、文政5年(1822)で、199戸・人口524人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場で会ったようです。町並みは寛延元年(1746)で7町23間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が遺され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。

御代田町西軽井沢観光協会


町の端に川が流れています。
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11:11 小田井宿お休み処
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フクロウはチェーンソーアートのようです。
右の方に熊のチェーンソーアートもあります。

11:12 宝珠院アカマツ入口
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nagareki.comより

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宝珠院の境内にあるシダレザクラは当地に移ってきた当時に植樹されたと推定される古木で推定樹齢300年、樹高7~8m、南北枝張り11m、アカマツは樹高7.5m、東枝張り8m、幹周2.7m(2本の接合部)で共に貴重な事から御代田町指定天然記念物に指定されています。

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【本陣跡 高札場跡】

11:13 本陣跡
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案内板
「 町指定史跡 中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良工に残している。
 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは、現形をよく留めており、安川家文書で宝暦6年(1756)に大規模改修が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる。また、湯殿と厠は幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は大用所・小用所ともに2畳の畳敷き となっている。

 昭和53年6月1日 
御代田町教育委員会


11:14 御代田村道路元標
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11:14 高札場跡
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案内板
「 町指定史跡 中山道小田井宿

小田井宿は、中山道六九次の宿場の一つで、板橋宿から数えて二一番目、追分宿岩村田宿の間に位置し、日本橋からは四〇里三一町(約一六〇キロ)の距離にあった。皇女和宮をはじめとして、宮家や公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことから、『姫の宿』ともよばれた。
天正一六年(一五八八) 三月『小田井町割諸事之控』によればこのとき町割りがおこなわれ、その家数は二六だったというから、このころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。そして、慶長七年(一六〇一)には各宿間の『駄賃』などが定められているので、このころまでには宿場としての形態を整えたとおもわれる。
中山道宿村大概帳』によれば、天保一四年(一八四三)には、一〇九軒の家があり、三一九人が住んでおり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五軒、問屋場二か所などがあった。
小田井宿が宿場としての役割を終えたのは明治三年(一八七〇)だが、その遺構は現在も随所に残されている。
現在地は高札場跡である。

昭和五十三年六月一日

御代田町教育委員会 指定 」


問屋場跡】

11:14 問屋跡
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標柱の案内
「 町指定史跡 中山道小田井宿 問屋跡(尾台家住宅)

 明和九年(江戸時代1772年)の大火以降のもの。切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室をそなえた良質の建物である。荷置場と問屋場には門の左右の建物を使用した。  」


11:16 脇本陣
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11:16 美しい旧家
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11:16 用水路が流れる旧家
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11:17 ここからも浅間山が見えます。
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11:18 問屋場跡(尾台家住宅)
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11:18 蔵のある家
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11:18 西の桝形
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日用品 小松屋商店の前でシケインカーブがありますが、ここが小田井宿の西の入口です。

小田井宿はここまで。


2度目の中山道8日目の4(皎月原から岩村田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/11/142302


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003


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