2度目の中山道9日目の2
4月6日(月)の 2
【茂田井宿入口】
12:25 道標
12:25 斜め右下へ。
案内板
「 中山道茂田井入口
望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている茂田井は、東の望月宿と西の茂田宿の間にある日村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿に加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。
元治元年十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵士四〇〇人程の宿となっている。
また、文久元年十一月七日には、徳川十四代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとがあった。
一里塚 は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。
道の右側に、散策絵地図と、自由に持っていって良い案内図が入った箱があります。
この景色、大好きです。
祭神は天照大神、雨乞いの霊験として崇拝されている。
宝永六年(一七〇九)茂田井村初代名主となった大澤茂右衛門が願主となり建立された。
本殿は神明造りで、 この地方では珍しいものである。
茂田井間の宿保全・
活性化事業実行委員会」
12:32 石祠 三基
【白壁と土蔵の町並み】
いよいよ、白壁と土蔵が続く美しい町並みが始まります。
その景観から山田洋次監督作品「たそがれ清兵衛」(主演:真田広之)のオープンセットが組まれたそうです。
12:33 叶屋(酒造 国登録有形文化財)
武重本家酒造株式会社ホームページより
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長野県の佐久地方、中仙道望月宿と芦田宿のちょうど中間点
旧中仙道沿いの昔ながらの街並
なんとなく時間がゆっくりと流れるようなたたずまいの中
お酒をゆっくり、ゆっくりと醸しております
「武重家住宅及び武重本家酒造」の建造物30棟は
国の登録有形文化財です
当社のお酒は文化財の中で造られています
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代表的な銘柄は、「御園竹」「牧水」です。
JAPAN GEOGRAPHICより
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叶屋(武重本家酒造)(国指定有形文化財)
創業は明治元年。伝統的酒造の「木元造り」によって製造されているのが特徴だそうです。
江戸時代後期の住宅と酒造施設30棟が、歴史的景観を伝える貴重な建物として国の登録有形文化財に指定されています。屋内に入ると酒造りの道具や農機具、若山牧水が愛用した徳利なども飾られています。天井には駕籠が吊されていて,時代に重みを感じます。長野県には80余りもの酒蔵があるそうです。酒ラベルの一覧が張り出されてあり見事です。家の周りを一周すると水路で囲まれていました。屋根瓦には「武重」の文字。
水路の流れの脇に「若山牧水」歌碑。酒豪で有名な牧水は大正時代にこの地に逗留してお酒を愛飲しながら多くの歌を詠んだそうです。
ちなみに三首あります。
「よき酒とひとのいふなる御園竹われもけふ飲みつよしと思へり」
「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」
「ひとの世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにの楽しみ」
本当にお酒がお好きだったようですね。一首目のなかに「御園竹」と詠み込まれているのは武重本家酒造の代表銘柄です。
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12:34 若山牧水歌碑
上記に三首書いてあります。
12:40 蔦屋(名主の館 大澤酒造)
nagareki.comより
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大澤酒造(茂田井宿)概要: 大澤家は寛文10年(1670)に当地に土着し、元文2年(1737)から明治4年(1872)まで茂田井村の名主を務めた家柄です。茂田井宿は正式な宿場町ではない間宿で本陣が設けられなかった事から大澤家が代替施設として身分の高い人物が利用し、茂田井村下組高札場跡にもなっています。文久元年(1861)に公武合体運動の一環で皇女和宮(仁孝天皇の第八皇女、孝明天皇の異母妹)が第十四代将軍徳川家茂に降嫁した際には、小諸藩の費用の一部として10両を献金し、藩からは銚子が拝領されています。元治元年(1864)11月19日に水戸天狗党が中山道を西上し上洛しようとした際には、幕府の追討令を受けた小諸藩が本陣として利用しています。現在でも大澤酒造の敷地間口一杯に白漆喰で仕上げられた土蔵が建ち並び茂田宿の町並みの中でも異彩を放ち、屋敷の前には旧茂田井村高札場があり当時から集落の中心部だったようでうす。又、大澤家は元禄2年(1689)から酒造業を始めた旧家としても知られ、酒造家としては長野県内では指折りの古さで創業当初に醸造した日本酒は現存する最古の日本酒と言われています。現在は大澤酒造民俗資料館としなの山林美術館、館書道館になっていています。
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12:41 茂田井村下組高札場跡
案内板
「 茂田井村下組高札場跡
江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札を掲げた。高札場は名主宅前に設けられることが多い。
大澤家は元文二年(一七三七)より明治四年(一八七一)に至るまで茂田井村なぬしを勤め、元治元年(一八六四)十一月十九日、水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、それを追ってきた小諸藩兵士の本陣となった。
茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会 」
12:41 百貨店
いわゆる、よろず屋さんでしょうか?
12:43 休憩所(雪隠)
ここで、持参のお菓子でランチ。雪隠(トイレ)は新しくてきれいでした。
12:56 茂田井間の宿 案内板
案内板
「 茂田井間の宿(もたいあいのしゅく)
慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
茂田井間の宿は、望月宿と芦田宿の間に位置し、旅人の休み処としての機能を持ち、多くの旅人の往来があった。
今、地域内の街道沿いには江戸時代の往時を偲ばせる土蔵や造り酒屋・民家・道路脇の水路等旅人に安らぎを与える往時の風情を見ることができる。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川十四代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された孝明天皇の妹『和宮(かずのみや)』の行列が茂田井間の宿を通過された。
また、元治元年(一八六四)十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山道通過に際し、茂田井村が小諸藩兵士四百人程の拠点になったなど、多くの記録が残されている。
一里塚は、石割坂(いしわりざか)を上りきったところに位置し、北側には榎(えのき)の木、南側には欅(けやき)の木が植えられていたという。江戸より四十二番目の一里塚であり、明治初期には豊川稲荷が祀られていた。現在は痕跡だけが見られるのみである。
茂田井間の宿保全・活性化実行委員会 」
13:01 馬頭観音
13:04 上組高札場跡
案内板
「 茂田井村上組高札場跡
江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、高札 が掲げられた。
高札場 は名主宅前に設けられることが多い。
茂田井村は戸数が多く、上組、下組と二人の名主がいた時代があり、ここ上組名主宅前に上組高札場があった。
茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会 」
【石割坂と一里塚】
13:05 石割坂
案内板
「 石割坂
勾配がきつく大きな石があり交通に不便だったが、その石を割り中山道を開通させたので石割坂と呼ばれている。
茂田井間の宿保全・活性化事業実行委員会 」
13:07 柿本人麿歌碑
看板
「 柿本人麿
ほのぼのと
明石の浦の
朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ 」
万葉集の中からの歌ですが、柿本人麻呂の歌ではないとも言われています。
13:07 茂田井の一里塚跡
案内板
「 立科町文化財
一里塚跡(茂田井)
一里塚 は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引きついで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞集)
中国で路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという例にならって榎が植えられたと云われている。
また、三代将軍家光が「一里塚には「余の木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎と聞きちがえて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一里を三十六町と決定され、五畿七道残るとこなく一里塚が築かれたとされている。
天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、榎の根本が残っていたとある。
13:09 木神
13:09 温室
13:11 県道に合流
11年前のブログより
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間の宿茂田井は、昔から美味しい酒を作っていた町。坂道に用水路が流れ、建ち並ぶ家々の佇まいに、一瞬タイムスリップの気分。昔の町並みがここまで残っているとは!
造り酒屋の立派な門には、杉玉が下げられていました。
近くには、若山牧水の歌碑がありました。
江戸時代の一角を通りすぎ、町並みは新しい家になってきますが、それでもそこかしこに昔の面影を残していました。
急な坂を上り、左下に田畑が見えてくると、蛙の鳴き声が聞こえてきました。
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茂田井上停車場
上り坂
2度目の中山道9日目の3(芦田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/24/122032
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003