2度目の中山道9日目の3
4月6日(月)の3
【芦田宿への道】
浅間山が見えます。
13:16 高い塚の上にある謎の石塔。
13:21 芦田宿案内板
案内板
「 芦田宿(あしだじゅく)
慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
芦田宿は中山道二十六番目の宿として、宿の町並みは、六町二十間(約七〇〇メートル)文化元年(一八〇四)には、本陣、茶屋六軒、商家二軒、医師三軒、髪結二軒、按摩一軒、などがあり農家は四十五軒であった。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川14代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された、孝明天皇の妹『和宮』の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向って(芦田宿に向って)急な上り坂を過ぎると、標高八七七メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
中山道の松並木は慶長七年(一六〇二)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、県道に合流松や杉を植林した。この松並木は当時の物で、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って役を一〇〇本の松並木が二〇〇メートルつづいている。本陣は寛政十二年(一八〇〇年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口五間奥行き十一間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿雪隠、など客室の原形がほぼ完全にのこされている。 」
【これより芦田宿】
13:22 これより芦田宿
13:23 中山道股旅休憩所
13:25 古町口バス停
13:25 道祖神(古町口バス停の脇にあります。)
13:27 道祖神
13:31 芦田バス停
この辺りがこの街の中心地でしょうか。
11年前のブログより
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芦田宿は立科町の中心地だそうで、中山道と交差する商店街に、結構いろいろな店がありそうでした。
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しかし、今回来てみてらひっそりしていたのは、11年の歳月でシャッター街になってしまったのか、それとも、新型コロナウィルスの影響でみんな店を閉めてしまっているのか。
13:32 芦田宿ふるさと交流館
トイレもあります。
13:33 「町」というのは、字の名前でしょうか。
【芦田宿本陣跡】
13:34 本陣跡
案内板
「 県宝
旧芦田宿本陣土屋家住宅
昭和63年8月18日 指定
土屋家は、慶長初期に中山道芦田宿が設置されたとき、その開発に従事するとともに本陣をおおせつかり、明治に至るまで、代々勤めた。
江戸時代後期における土屋家は、客殿(きゃくでん)、主屋(おもや)、問屋場(とんやば)、荷蔵(にぐら)、酒造蔵(さけづくりぐら)、長屋等多くの建物によって構成されていた。
現在も、当時の面影を良く残している客殿が本指定物件で、これは中山道芦田宿本陣の客室部として、寛政12年(西暦1800年)に改築され明治維新まで大名、公家などの宿泊や休息に使われた。
客殿は間口5間(約9メートル)奥行き11間(約20メートル)の切り妻造り、妻入り、桟瓦葺(さんかわらふき)で屋根の前後に鯱(しゃちほこ)をかかげている。
玄関は唐破風(からはふ)とともに懸魚(げぎょ)、蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)などで構築され江戸後期の様式を良く表している。
内部上段の間は、床の間、違棚(ちがいだな)、欄間(らんま)の透彫(すかしぼり)、組子細工(くみこざいく)等室内の意匠(いしょう)にも意を用いた書院造りであり、京風の造作となっている。
建物全体の規模が大きく、上段の間、広間、小姓部屋、湯殿、雪隠(せっちん)などがあり、客室部としての原形がほぼ完全に残され、江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている。
いつも案内板などに書かれている寺社建築用語は聞き流し(読み流し)ているのですが、今日は切妻造りなど、調べてみました。
切妻造 wikipediaより
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切妻造(きりづまづくり)とは屋根形状のひとつで屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根。 広義には当該屋根形式をもつ建築物のことを指す。 切妻屋根ともいう。
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妻入りとは 「神社人」より
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現在、神社は社殿を持つことが当たり前になっています。これは、仏教の影響によるものではありますが、実際には、その建築様式にも様々なものがあり、これもひとつの見所と言うことができます。先ずは、各部位についてですが、簡単に以下のようなものがあります。
そして、その建築様式ですが、基本、神社の建築は、切妻造(きりづまづくり)と呼ばれるもので、屋根が三角形状に頂上から地上に向かって二つの斜面を形成するもので、日本の家屋における最も代表的なものになります。そして、建物の入り口が異なることで、大きく分けて、二つの様式に大別され、そこから更に、系列別に細分化することができます。
[二大建築様式]
平入り:屋根の面に対して、水平の壁に入り口を持つもの→神明系(伊勢神宮等)
妻入り:屋根の面からみて、横の壁に入り口を持つもの→大社系(出雲大社等)
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桟瓦葺 「京風家改修用語集」より
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桟瓦で葺いた葺き工法をいう。 1650年ごろ それまでは、本葺の瓦しかなかったが、本瓦から発展し、丸瓦と平瓦が、一体になったものができた これを桟瓦といい これで葺かれた瓦葺を、桟瓦葺という。
普通の現在の軽い和形で、通常は、波形の瓦葺をいう
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唐破風 wikipediaより
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唐破風(からはふ)とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法である。
種類
唐破風には軒唐破風と向唐破風の二種がある。
軒唐破風
軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた形に造形した破風である。姫路城天守西面四重などにみられる。
向唐破風
向唐破風は屋根本体とは別に出窓の屋根のような形で設けた破風である。
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懸魚(げぎょ) コトバンクより
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建築装飾の一つ。中国や日本の建築で,破風 (はふ) の下部内側またはその左右に六葉といわれる金属製や木製の栓で取付け,棟木や桁の先を隠すための飾り板。形により梅鉢懸魚,猪目 (いのめ) 懸魚,かぶら懸魚,三花懸魚などの種類がある。当初魚をつるしたような形であったのでこの名がある。
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破風(はふ) Shikishima-Townより
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破風とは、屋根の妻側の端の部分のことを指します。
そして、そこに取り付けられている板のことを破風板と言います。
伝統的な建物では、彫刻を施した板が貼り付けられて装飾性を持っていましたが、現在の建物ではシンプルなデザインのものがほとんどになりました。
その名のとおり、雨や風を打ち負かして家を守っています。
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蟇股(かえるまた) コトバンクより
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和様建築で,梁や頭貫 (かしらぬき) 上にあって上の荷重を支える材。蛙股とも書く。梁上にあるものは厚い板状でこれを板蟇股という。平安時代からカエルが足を開いたような形のものができ,これを本蟇股という。初め内部には装飾がなかったが,のちに簡単な中心飾りができ,植物文,さらに動物文がつき,透かし彫から立体的なものまでが生れた。
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頭貫(かしらぬき) 社寺建築の豆知識より
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頭貫(かしらぬき)
柱の上部側の端の一部を掘り下げ、そこに横木を落とし込んで柱間を繋ぐ構造です。
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頭貫 「けんけんちくちく」より
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頭貫(かしらぬき)
この部材は、柱の一番上に用いられる貫のことです。
貫という名前ですが、柱を貫通することはなく、上から落としこむことが多く、虹梁のように彫刻などを施した化粧に仕上げることもあります。
古民家などの貫構造では、一番上の貫は天井貫と呼び、上から内法貫、腰貫、地貫といいます。
つまり、柱と柱を上部でつなぐために、柱の頭部に用いる横木です。
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肘木は、社寺などの建築で、柱の上方にあって上からの重みを支える横木。腕木。
肘木(ひじき) 社寺建築の豆知識より
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枓栱(ときょう)とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称です。
基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されます。
斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称されます。
固定は基本的には金物(釘・ボルト)や接着剤を使わず、
木材で作られた部品を、立体パズルの様の複雑な組合わせで、強固に組み上げられます。
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欄間の透かし彫り 「ワゴコロ」より
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欄間(らんま)とは、和室の障子やふすまなどをすえつけるために、上にわたしてある横木の部分である、天井の鴨居かもいとの開口部にはめこまれた建具のことです。
主に季節の風を運び、光を通すために設けられました。
格子や透かし彫りの板などが用いられることが多く、その美しい装いは和風建築の真骨頂ともいえます。
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組子細工 tanihata.co.jpより
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組子とは、簡単にいうと釘を使わずに木を組み付ける技術のことをいいます。細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組付けしていきます。遠く飛鳥時代から長い年月をかけて磨きぬかれた木工技術「組子」。 釘を使用しないで木を組み付ける繊細なこの技術は、職人たちの伝統を守る心と情熱により、何世代にもわたって現代まで引き継がれてきました。
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書院造り wikipediaより
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書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である[1]。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。
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上段の間 四万温泉積善館ホームページより
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身分の高い人の宿泊用の部屋
前回の「温泉と歴史」でご紹介した積善館本館1階の「馬つなぎの柱」の少し奥に、「上段の間(じょうだんのま)」と言われる部屋があります。
古くは「オジョーダン」とも呼ばれていました。
畳8畳敷きの広さで立派な床の間が付いた部屋です。
また天井も他の部屋から比べるとずっと高くその他、扇型の欄間や細かい組子細工の障子などが設えてあり部屋の造作も一段と凝ったものになっています。
何よりもの他の部屋と違うのは、この部屋の床が他よりも10cm(3寸5分)ほど高く作られているところです。
それが、この部屋を「上段の間」と呼ぶ理由です。
床が高いという事は、身分の高い人の宿泊用の部屋ということですね。
上毛歴史建築研究所の桑原稔氏は、積善館の「上段の間」を次の様に紹介しています。
「当家は、江戸時代初期の頃から当地で名主役を勤めた由緒ある家柄である。
『オジョーダン(上段の間)』は名主の家に限って設けることを許された客室であり、
床を一段高くしており、代官及び手代(代官の下役の地方役人)の休憩・宿泊用の室であった。」
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こちらは四万温泉の積善館の上段の間の説明ですが、分かりやすいのでこちらを引用しました。
東海道や中山道の本陣には、大名や公家、天皇や皇女和宮が泊まった、または休憩されたという上段の間が今も残っていて公開されているところもあり、私もかなり何ヵ所か見学させていただきました。
小姓部屋
小姓とは wikipediaより
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小姓(こしょう)とは、武士の職の一つで、武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う。「扈従」に由来し、「小性」とも表記される。
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「扈従」とは コトバンクより
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扈従 (こしょう)
(「扈」はつきそう意、「しょう」は「従」の漢音) 貴人につき従うこと。また、その人。こじゅう。こそう。
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案内板
「 芦田宿 本陣 土屋家
芦田宿 は、慶長二年(1597)に設立、江戸幕府の交通政策施行(慶長六年)より四年前で北佐久では一番早くできた。
本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、往時をそのまま伝える建物は、中山道 唯一と言われている。 」
【脇本陣・酢屋茂・庄屋・金丸土屋旅館】
脇本陣跡の山浦家は始祖が芦田宿 開祖者の一人岩間忠助(1597年)であり、本陣跡の向かいに位置し参勤交代等の際中山道の宿泊施設及び問屋としてその役割を担っておた。
昭和五十二年に隣家からの火災により主家は焼失し現在は土蔵一棟のみが残っています。
13:36 酢屋茂(すやも)
酢屋茂ホームページ(wazawaza.shop-pro.jp)より
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1892(明治25)年創業の酢屋茂(すやも)は、長野県立科町にある老舗の醸造元です。選び抜かれた良質な原材料を使用し、天然醸造という伝統的な製法で、味噌、醤油をつくり続けています。また、酢屋茂のある北蓼科高原(きたたてしなこうげん)は、昼と夜の寒暖差があり、味噌を作る微生物に最適な環境です。そして、材料にこだわり良い原材料を選ぶ事を心がけ、そうしたことが味噌本来の香りや旨味を作り出しています。
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13:37 庄屋 山浦家
案内板
「 庄屋 山浦家
庄屋跡の山浦家は慶長から明治年間に山浦権助 によって建築されたと云われている。
問屋としても その役割を担っていた。現在は、建物の老朽化により取り壊され、跡地の奥には土蔵のみ残っている。
13:37 金丸土屋旅館
案内板
「 金丸土屋旅館
文化元年(1804 年)頃より旅籠屋で、軒の西側に『津ちや』東側に『土屋』の看板を掲げる、今も旅館を営む金丸土屋旅館。二階の部分が表通りに少し出ている出張り造りで腕木に彫刻、煙だしを持つ大屋根など多くの特徴を持っている。 」
時間的にはまだこの先歩けたのですが、芦田宿の先には笠取峠があり、次の長久保宿はバスが別系統になって、今夜の宿の望月に戻れなくなってしまうので、芦田宿から望月宿に歩いて戻りました。
本日の折り返し地点、金丸土屋旅館までの歩数は 15,342歩 9.35km
この後、今夜の宿、望月宿まで歩いて戻った、一宿間だけの東下りについて、次の章でレポートします。
2度目の中山道9日目の4(芦田宿からの東下り) に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/24/134623
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003