岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道六十九次歩き9日目の4(芦田宿からの東下り)

2度目の中山道9日目の4
4月6日(月)の4


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東下り

一宿間だけいつもとは反対方向、東下りをやったのですが、今まで振り返り振り返り眺めていた浅間山が、東下りだと左斜め先にいつもいてくれて、一緒に歩いた感が強かった。


【ふるさと交流館】

13:40 ふるさと交流館でトイレをお借りしました。
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立科町ホームページより

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立科町ふるさと交流館「芦田宿」は、金融機関の建物を町が譲り受け、地域情報の発信、地域学習によるふるさと意識の高揚および人々の交流の促進を図り文化活動の拠点とするために平成16年に開館しました。

その後、平成25年に中山道を歩く人々の憩いの場とするため改修が行われ、さらに平成29年4月に移住サポートセンターが、平成31年4月には2階にテレワークセンターも併設され、現在の姿に至っています。

地域の方々や旅人、移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されています。

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ふるさと交流館の窓ガラスのには、浅間山を見て歩く旅人の絵が描かれていました。
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【蓼科の水と蛇石様】

13:50 蓼科の水
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案内板
「 蓼科の水

古来より、蓼科の山の湧き水は中山道を行き交う旅人ののどを潤してきました。
現在、この蓼科山の湧き水は上水道として整備され、立科町の水道水として利用されております。 」

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貼り紙
「 凍結防止のため
冬期間使用禁止 」

11年前のブログには書いていないのですが、私はこの街に来たときに、「あの水を飲もう」と思ったのに飲めなくて残念、と思ったので、11年前には飲んだのだと思います。

13:51 蛇石様
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案内板
「 蛇石(じゃいし)様

江戸時代末期頃から蛇石神社として石を覆うような社があったとされ、戦前までは清水家のくるわで四月にお祭りを行なっていた
蛇石様は夜泣きの神様として、米をおひねりにお参りすると乳呑児の夜泣きが治るとされた。現在は、まわりが二メートル以上ある大きな石のみが残され、石の真ん中には蛇の通った跡と思われる筋が残っている。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


この辺りの石かな?と思って何枚か写真を撮ったのですが、案内板に、「←」の矢印があることに、帰ってから写真を見て気付きました。

つまり、矢印の方向にある、この石ですね。
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この筋が蛇が通った跡でしょうか?

案内板には、清水家のくるわでお祭りが行われていた、とあります。

くるわ コトバンクより

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城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い 。

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【茂田井宿の外の道】

14:06 茂田井上停留所
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帰路は茂田井宿の中は通りませんでした。左へ行けば茂田井宿。右の道を行きます。
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浅間山が見えます。
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14:14 茂田井農村公園
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案内板
「 茂田井農村公園

この公園は、生活や生産の憩いの場、コミュニティ活動の場及び未来を担う子ども達が楽しく元気いっぱいに遊びまわり自然に親しみ、仲間と共に体力づくりや、健康の保持・増進に役立てるために整備したものです。

*みんなで仲よく元気に遊ぼう。
*きまりを守り大切に使おう。
*いつもきれいにしよう。

補助事業名
平成九年度農村総合整備モデル事業
事業主体 立科町


14:14 諏訪神社
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案内板
立科町文化財
諏訪社

諏訪神社の祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)である。この神は出雲系諏訪族の祖先として諏訪の上下二社に奉斉され古くは南宮ともいった。諏訪神社を中心とする諏訪信仰は全国的であり、その分社の数も非常に多い。
茂田井の諏訪社の創建年は不明である。この神社に関する最も古い記録は天正十六年(一五八八)当時の小諸藩主松平康国(芦田城主依田信蕃の子)が蓼科神社の神官今井曽五郎にあてた書状がある。この神社を『毛田井之宮(もたいのみや)』として『神領を遣わせているからには一騎の軍役を勤め、宮の修理、祭、祈念を怠ってはならない』とある。現在の社殿は江戸時代末期の文化十五年(一八一八)に茂田井の宮大工・田中圓蔵が建てたもので上尾の中の本殿は一間社流造でたが全部みごとな彫刻で飾られている。圓蔵は当時宮大工として天下に名声のあった諏訪の初代立川和四郎の弟子となった人で現在立科町にある圓蔵の作と伝えられるものに、津金寺の仁王門と妙見堂(二代和四郎と共作)・古町光徳寺山門がある。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


案内板に書いてある、「上尾の中の本殿」というのがよくわかりません。

一間社流造については調べました。

京都通百科事典より

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流造(ながれづくり)は全国で最も多い神社建築様式

建物の長辺側あるないは屋根の棟(むね)と平行な面に建物の出入り口がある平入

屋根が反り、屋根が正面入り口のほうに曲線的に長く突き出て向拝(こうはい)(庇)となっている

横に並んだ柱が2本で間(桁行)が1間だと「一間社流造」、柱が4本あり3間だと「三間社流造」と称される

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一間社流造はコトバンクによれば、

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小規模な神社本殿形式の一つ。正面の柱間(はしらま)が一間のもの。

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ネットで拾った、一間社流造
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ネットで拾った、三間社流造
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行くとき通った絵地図看板と案内図入れの箱を見下ろします。
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14:30 2時間ほど前に通った、茂田井宿への分岐に戻りました。
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分岐を振り返ったところ。
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14:30 にごり池
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14:39 分岐 真ん中を進みます。
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【望月宿へ】

望月宿を見下ろします。
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さっきの、折れた桜のところを逆Vの字に左後ろに折れて曲がります。
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来るときに見たトイレをお借りしようとしたら、鍵がかかっていました。
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来るときに通りそびれた旧道に入りました。

14:53 馬頭観音
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犬がしきりに吠えていました。


15:01 望月バスターミナル
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明日の朝のバスの時間を調べました。
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バス停に「望月町は駒の里」と書いてあります。
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「まちむら交流きこう」より

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古代信濃16牧の中心の望月の牧は、王朝文化人の間で「望月の駒」としてもてはやされ、その里は、はるかなる憧れの地でもあったのです。

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長野県ホームページより

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望月の駒

その昔、望月の牧(まき)は朝廷(ちょうてい)へさし出す馬の産地(さんち)として名高いところでした。

ある年、望月のとの様の館(やかた)に一人のむすめが生まれました。同じ日に、牧の馬屋で月毛(※)の駒が生まれました。

「同じ日に、姫(ひめ)と駒が生まれるとはまことにめでたいことじゃ。姫は生駒(いこま)姫と名づけようぞ!」との様はたいそう喜びました。

やがて、姫は山にさくユリのようにりりしく美しく育ち、月毛の駒は美しい毛なみのたくましい駒になりました。姫のうわさ、駒のうわさは四方に広がりました。

姫が十三才をむかえたある日、うわさを聞いた都の帝(みかど)からおめしがありました。「わが牧の姫に帝のおめしじゃ。わが牧も栄(さか)えるというものよ」喜びにわく館とはうらはらに、月毛は馬屋にふしたまま、かいばを食べなくなってしまいました。

「望月一番の駒が病とは一大事」と手をつくしてみましたが、いっこうに良くなりません。そこで、浅間(あさま)の行者にうらなってもらったところ、「生駒姫にこいしているのじゃ」というのです。

「帝にめされた姫に思いをよせるとはけしからん」との様はたいへんなはらだちよう。ところが姫は、「わたしは月毛とともに、この自然(しぜん)の中でくらしとうございます」というのでした。

困りはてたとの様は、月毛にあきらめさせるために、難題(なんだい)をもちかけました。「もし、鐘(かね)が四つ(十時)から九つ(十二時)を打つまでの間に、領内を三たびめぐりおえるならば、姫をあげよう」というのです。

これを聞いた月毛は勇み立ちました。四つの鐘とともにかけ出した月毛は矢のように領内を走りぬけました。一たび、ニたび。そしてまだ九つには間があるというのに、三たびめぐり終えるところまで来ました。

その時、鳴るはずのない九つの鐘がひびきわたりました。それを聞くと、むねもさけるばかり、足もおれるばかりにかけめぐってきた月毛は身もだえしながら、谷底へまっさかさまに落ちていきました。

との様は「これでやっかいばらいもできたというもの。姫も都へ上がるであろう」と、苦々しくわらいました。ところが、月毛の死を聞いた生駒姫は、都へ上るどころか長いかみをぷっちりたち切って、尼(あま)になってしまったということです。

(※月毛=赤みをおびた茶色)

佐久市教育委員会のきょう力をいただき、地元につたわる話を要約(ようやく)しました。)

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15:11 今夜の宿、青木荘に到着。
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明日にも緊急事態宣言が出るとのニュース。首都封鎖じゃなくてよかった。帰れなくなるところだった。

宿の方が、「(新型コロナウィルスの緊急事態宣言に備えて)別荘にみんなが戻ってきて賑やかになった」

と言っていました。

地元の方は、別荘にみんなが戻ってきた、という表現をするんですね。

風呂からは川が見下ろせて気持ちよかった。
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夕食も美味しくいただきました。ビールは自動販売機の缶ビールです。
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さきほど、往路の、金丸土屋旅館までの歩数を書きましたが、本日全体の歩数は24,113歩 14.7km

この先、笠取峠へ行くと、明日の夕方の軽井沢発東京行きのバスに乗れなくなるので、今回は中山道前進は後日に取って置き、明日は軽井沢散策をします。


2度目の中山道番外編(軽井沢)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/24/212902


2度目の中山道10日目(芦田宿から笠取峠へ)は、後日。