紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

芦田宿 本陣跡

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案内板
「 県宝
旧芦田宿本陣土屋家住宅
昭和63年8月18日 指定

土屋家は、慶長初期に中山道芦田宿が設置されたとき、その開発に従事するとともに本陣をおおせつかり、明治に至るまで、代々勤めた。
江戸時代後期における土屋家は、客殿(きゃくでん)、主屋(おもや)、問屋場(とんやば)、荷蔵(にぐら)、酒造蔵(さけづくりぐら)、長屋等多くの建物によって構成されていた。
現在も、当時の面影を良く残している客殿が本指定物件で、これは中山道芦田宿本陣の客室部として、寛政12年(西暦1800年)に改築され明治維新まで大名、公家などの宿泊や休息に使われた。
客殿は間口5間(約9メートル)奥行き11間(約20メートル)の切り妻造り、妻入り、桟瓦葺(さんかわらふき)で屋根の前後に鯱(しゃちほこ)をかかげている。
玄関は唐破風(からはふ)とともに懸魚(げぎょ)、蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)などで構築され江戸後期の様式を良く表している。
内部上段の間は、床の間、違棚(ちがいだな)、欄間(らんま)の透彫(すかしぼり)、組子細工(くみこざいく)等室内の意匠(いしょう)にも意を用いた書院造りであり、京風の造作となっている。
建物全体の規模が大きく、上段の間、広間、小姓部屋、湯殿、雪隠(せっちん)などがあり、客室部としての原形がほぼ完全に残され、江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている。

立科町教育委員会
長野県教育委員会


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案内板
「 芦田宿 本陣 土屋家

芦田宿 は、慶長二年(1597)に設立、江戸幕府の交通政策施行(慶長六年)より四年前で北佐久では一番早くできた。
 本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
 本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、往時をそのまま伝える建物は、中山道 唯一と言われている。 」