紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

芦田宿案内板

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案内板
「 芦田宿(あしだじゅく)

慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
芦田宿は中山道二十六番目の宿として、宿の町並みは、六町二十間(約七〇〇メートル)文化元年(一八〇四)には、本陣、茶屋六軒、商家二軒、医師三軒、髪結二軒、按摩一軒、などがあり農家は四十五軒であった。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川14代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された、孝明天皇の妹『和宮』の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向って(芦田宿に向って)急な上り坂を過ぎると、標高八七七メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
中山道の松並木は慶長七年(一六〇二)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、県道に合流松や杉を植林した。この松並木は当時の物で、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って役を一〇〇本の松並木が二〇〇メートルつづいている。本陣は寛政十二年(一八〇〇年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口五間奥行き十一間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿雪隠、など客室の原形がほぼ完全にのこされている。 」
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