小田井宿は、中山道六九次の宿場の一つで、板橋宿から数えて二一番目、追分宿と岩村田宿の間に位置し、日本橋からは四〇里三一町(約一六〇キロ)の距離にあった。皇女和宮をはじめとして、宮家や公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことから、『姫の宿』ともよばれた。
天正一六年(一五八八) 三月『小田井町割諸事之控』によればこのとき町割りがおこなわれ、その家数は二六だったというから、このころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。そして、慶長七年(一六〇一)には各宿間の『駄賃』などが定められているので、このころまでには宿場としての形態を整えたとおもわれる。
『中山道宿村大概帳』によれば、天保一四年(一八四三)には、一〇九軒の家があり、三一九人が住んでおり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五軒、問屋場二か所などがあった。
小田井宿が宿場としての役割を終えたのは明治三年(一八七〇)だが、その遺構は現在も随所に残されている。
現在地は高札場跡である。
昭和五十三年六月一日