中山道『倉賀野宿』は江戸より、十二番目の宿場でここから徳川家康を祀る日光東照宮の春の大祭に京都の朝廷が弊帛(へいはく)を奉納する為に派遣した例幣使が通る『日光例幣使道』が始まる。
宿の南には利根川水系最上流の倉賀野河岸があり、上信越の諸大名の廻米、商人の荷物などが河岸から船積みされて江戸へと運ばれ、倉賀野宿は上信越と江戸を結ぶ水陸の交通の要所として栄えた重要な宿場であった。
倉賀野宿には、 京方向に上の木戸、江戸方向に下の木戸が設けられ、宿内の長さ(木戸から木戸の間)は九町十六間(約千メートル)、道幅は四間(約七メートル)から六間(約十一メートル)であった。天保末年(一八六三)の中山道大概帳によると、倉賀野宿には、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が三十二軒あり、人口は二千三十二人であった。
高崎市観光課 」