紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き10日目の3(長久保宿)

2度目の中山道10日目の3
7月30日(木)の3


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松尾神社

11:05 松尾神社本殿
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「椹(さわら) 町指定保存樹木
樹齢推定 二〇〇年 」
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11:06 御柱(おんばしら)
平成二十五年十月十三日
松尾神社皇第神宮式年遷宮御柱
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11:06 松尾橋
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こちらが松尾神社の表参道です。私は裏側から入ってしまったので。
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11:07 案内板
長和町指定文化財 松尾神社
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nagareki.comより

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松尾神社(長和町・長久保宿
概要: 松尾神社は長野県小県郡長和町大字長久保字宮所に鎮座している神社です。松尾神社の創建は不詳ですが日本三大酒神で官幣大社である松尾大社京都府京都市右京区松尾町)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。古くから酒造家から信仰の対象となり、江戸時代に入ると上田藩主真田家の崇敬社として庇護され社領4斗2升9合が寄進され、参勤交代で長久保宿を利用した大名家からも参拝が行なわれています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て明治6年(1873)に郷社に列しています。当初は長久保の町裏地籍にありましたが小学校の校庭の拡張工事の為昭和33年(1958)に現在地に遷座しています。
現在の松尾神社本殿は万延元年(1860)に再建されたもので一間社流造、銅板葺き、棟梁は三代目立川和四郎富重、特に欄間に施された龍や亀、鶴などの彫刻が優れているとされます。松尾神社本殿は建築彫刻として貴重なことから昭和53年(1978)に長和町指定有形文化財に指定されています。拝殿は文政10年(1827)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行4間、張間4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、棟梁は佐久郡茂田井村出身の別府兵左衛門秀信、江戸時代後期の社殿建築の遺構として貴重な事から平成28年(2016)に長和町指定有形文化財に指定されています。

例大祭は3年に1度で大山獅子舞(雄獅子2、雌獅子1)が町内を練り歩き最後は松尾神社境内で奉納されます。大山獅子舞は弘治3年(1557)に松尾神社が再建された際、地固めのために獅子舞を行ったと伝わるもので、古式を伝える行事として貴重な事から平成元年(1988)に長和町指定無形民俗文化財に指定されています。社格は旧郷社。祭神は大山咋命

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11:07 標柱
松尾神社 100m
笠取峠 2km
長久保宿
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11:09 藁を屋根に載せている。
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高床式?
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【吾一庵】

11:11 吾一庵
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東信州中山道公式webサイトより

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吾一庵 長久保宿

 長久保宿の江戸方の端部にあって、江戸末期から明治初期の建物です。兼農で馬を取り扱っていたと伝えられています。
 一階には当時の農家の間取りを見ることができ、二階には養蚕を伝える道具や宿場町の歴史を伝える資料などが展示してあります。

入場料:無料

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【吾一庵の見どころ】

江戸時代末期から明治初期の建物です。兼農で馬を取り扱っていたと伝えられています。
広い土間を持つ田宇型四間取りの、農家に類した間取りで母屋の航法に馬屋があり、馬もこの土間を通って出入りしていたようです。
その後、蚕や乳牛を飼っていた時期があり、馬屋の後方にあった馬屋は牛舎や蚕室に改築されました。
母屋に腰屋根が乗っていますが、二階を蚕室としたとき、換気を調整するために取り付けられたものです。
建具など柱間装置は更新されていますが、構造軸組はよく当初の規模形式を保っていて、農家型の遺構として貴重です。
2階展示室 」


11:11 標柱
→ 吾一庵 20m
松尾神社 330m
笠取峠 2.3km
↑ 観音寺
← 60m 一福処丸木屋
130m 長久保宿本陣
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【一福処濱屋】

11:12 素敵な連子格子と塀の家(丸木屋)
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11:12 一福処濱屋 トイレをお借りしました。

中の様子
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案内板
長久保宿歴史資料館 一福処濱屋の由来

 長久保宿 歴史資料館一福処濱屋は、中山道長久保宿堅町の上位(江戸方)に位置しています。

 現在の建物は、明治時代の初期に旅籠 として建てられましたが、中山道 の交通量が減ったために開業には至りませんでした。
 間口は九間と広く、総二階建て・延床面積四〇〇平方メートル程の宿内でも大きな建物です。また、一階より二階部分を突出させた「出梁造り」が特徴的で、山間部の旅籠建築に多く見られる手法です。
 平成十二年に建物の所有者である福永家・黒澤家からご寄付を受けて、地域住民の語らいの場や長久保宿を訪れる旅人の休み処としてまた、宿場関連の歴史・民俗資料の展示公開の場として活用を図るよう改修を行いました。
 一福処濱屋を貴重な旅籠建築の歴史的建造物として長久保宿の面影を後世に伝えるものです。

平成十四年六月
長和町 長和町教育委員会

休館日 月曜日(月曜日が祝祭日の場合はその翌日) 」


今回は多分新型コロナ感染拡大防止のためでしょう。無人でしたが、11年前に来たときは地元のシニアの方達のたまり場になっていました。

多分お当番の管理の方の他に、みんなが遊びに来ててつだっていたのだと思います。

11年前のブログより

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2009.4.30.

長久保宿一福処濱屋は、明治時代初期に旅籠として建てられましたが、中山道の交通量が減ったため、開業には至らなかったそうです。

山間部の旅籠建築に多く見られる、一階部より二階部を突出させた「出梁造り」が特徴的な総二階建て。

住居として使われてきましたが、長久保宿を訪れる旅人の休み処として、また、宿場に関する歴史、民俗資料の展示公開の場として使われています。

庭側の縁側に、地元の年輩の方達5〜6人が集まってお茶を飲んでいて、「お嬢さんもどうぞ」と誘われました。ずいぶん若く見られたものです。

今日はみんなで庭整備に来て、お茶タイムをしているところでした。

瓜の漬け物、蕪の漬け物、柿を甘く漬けたものをお裾分けしていただきました。特に柿が美味しかった。

「取材ですか」と聞かれたので、「旅です」と答えたら、「歩いていて感じたことはありますか」と聞かれました。

東海道も歩いてから中山道に来たのですが、東海道よりも中山道の方が、自然も古い家なども残っていて面白いです」と答えると、「そうでしょう、そうでしょう」と満足げ。

石合家という本陣には、四代目のところに真田幸村の娘が嫁いできたそうで、お墓が近くの寺にあるそうです。

その娘さんは、おすへさんといって、この資料館の案内役のマスコットになっていました。

「そうだ、あそこの家を見せてもらうといい」
「あそこの方が、ここより古いものが沢山ある」

皆さんに勧められ、案内までしていただいて、古い家を見学させてもらいました。

その古い家にはお子さんがいなくて、年老いた主人が趣味で集めた古い道具類を展示しています。

旅人に見てもらうために展示しているのですが、地元の人たちで管理しているそうで、旅人が勝手に見ることはできないようでした。

機織り機、糸車、石臼、櫛や簪、etc.

案内してくれたおばさまが、嫁入りしてきた時に履いてきた、畳のような表面の草履も展示されていました。

「あっちよりも、古いものが沢山あるでしょ」と言われましたが、実は一福処濱屋の二階の展示は、まだ見ていなかったのです。でも、どうやらこちらに比べてたいしたことはないらしいので、濱屋の二階にはもう行かないことにしました。

おばさまにお礼を言って別れてから、濱屋でもらってきたパンフを見ながら、問屋の小林家、旅籠古久屋、酒造業の釜鳴屋、横町の辰埜屋の写真を撮って回りました。

酒造業の釜鳴屋
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一般に開放されているのは、一福処濱屋だけです。

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道標に一福処丸木屋と書いてあったのに、来てみると一福処濱屋となっているのは何故?

調べてみたら、濱屋のお向かいの家が丸木屋で、補助的に使われているみたいです。


【旧本陣 石合家】


11:21 長久保宿旧本陣 石合家住宅
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案内板
「 長和町指定文化財
長久保宿 旧本陣 石合家住宅

一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長和町長久保五八九
一、指定の理由 本陣建築として重要

【説明】
 石合家は長久保宿 創設当時から、江戸時代を通じて本陣と問屋を勤め、四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいます。
 当時の建物としては、大名や公家等の賓客が利用した『御殿』と呼ばれる座敷棟と幕末頃の構築と推定される表門が現存し、ともに町文化財に指定されています。
 御殿には、上段之間・二之間・三之間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下)・十二畳之間が残り、腰高障子や欄間、書院造り等の格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。
 構築年代は詳らかではありませんが、江戸時代中頃の寛延二年(1749)の絵図面に現状と同じ間取りが記載されていることや、細部意匠の様式から十七世紀後半と推定され、中山道中では現存する最古の本陣遺構であるといわれています。
 また、石合家には江戸時代初期からの古文書や、高札等の史資料が数多く保存されていて、これらも町文化財に指定されています。
〈注意〉個人住宅につき、一般公開は行っておりません

長和町教育委員会


11:21 高札場 右隣は旧本陣です。
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11:22 脇本陣
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【釜鳴屋】

11:23 釜鳴屋
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案内板
「 長和町指定文化財
竹内家住宅(釜鳴屋)

一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長和町長久保五七九
一、指定の理由 江戸時代の建造物(町家造り)として重要

【説明】
 竹内家は江戸時代初期の十七世紀中頃より、酒造業と醤油の醸造を手掛け、長久保宿の役職も兼ねていました。 
 明治四十五年(1912)の屋敷図には、千五百坪余りの広大な敷地に、通りに面して母屋があり、その裏側に蔵や納屋が配置され、棟数合わせて十四棟、総建坪四百九十一坪もあったことが記載されています。
 母屋は間口九間半、奥行十間半の正方形に近い形となる切妻造りの平入で、屋根の端部には、妻壁を高く突出させ小屋根をつけた『本うだつ』がみられます。天井吹き抜けとなる土間やおかっての規模は壮大で、太い柱や豪快な梁組が露出し、迫力ある大空間をつくっています。
 構築年代は詳らかではありませんが、寛延二年(1749)の絵図面に記載されていることや、玄関先の最も古い享保十六年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がなかったことから、これ以前に建てられていたものと考えられ、長野県内では最も古い町屋建築であるといわれています。
 また、竹内家には江戸時代初期からの古文書や笠取峠立場絵図や長久保宿 場札の版木も保存されていて、これらも町文化財に指定されています。

〈注意〉個人住宅につき、一般公開は行っておりません

長和町教育委員会


【浜田屋、たつの屋、桝形】


11:24 標柱
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上の白い道標
← 一福処濱屋 江戸方堅町
笠取峠

↑ 京方・横町
落合橋 2.5km

下の茶色の道標
← 80m 長久保堅町 釜鳴屋
長久保宿 横町

下の茶色の道標斜め
← 170m 長久保宿本陣
630m 松尾神社
↓ 70m JRバス長久保


11:25 浜田屋旅館
11年前、ここに泊まりました。コシアブラやタラの芽などの天ぷら、筍ご飯が美味しかった。
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11:29 たつの屋(旧旅籠辰野屋)
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11:30 桝形 標柱
→ 四泊一里塚跡 1.1km
落合橋 2.1km
長久保宿
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2度目の中山道10日目の4(長久保宿から和田宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/185000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003