二度目の中山道11日目の2
2020年7月31日(金)の2
10:18 分岐を左へ
旧道入り口
和田嶺神社碑
標識(パイプトンネル入り口)
10:27 パイプトンネル(ビーナスライン下)
ビーナスラインを渡った所 木の階段
ビーナスラインの、道を渡った所向こうのこれから行く道
10:41 草の上り道
11年前は、ここをぐんぐん上って人を何人か追い越しましたが、今日はきつい。
10:50 峠が見えました。
10:51 和田峠 標高1531m
案内板
「 歴史の道 中山道 古峠
中山道 建設以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり古峠の名を残すのみである。
文化庁 長野県 和田村 」
賽の河原地蔵
本尊大日大聖不動明王
御嶽山坐王大権現
10:55 「歴史の道中山道 古峠」の案内板の作る日陰でランチ
「民宿みや」のおかみさんが作って下さったお弁当。魚肉ソーセージと大きなおにぎり2個。おにぎりの中身は、梅と昆布でした。美味しかった。
今年は梅雨が長く、今朝まで雨が降っていましたが、峠では晴天。梅雨は明けたのかな?
後で調べたら、今日、梅雨が明けました。
11:10 出発 下り道です。
賽の河原七曲り(ザレ場下り)
草むした石仏(水呑場地蔵菩薩)
中山道の古峠は、標高一、六〇〇メートルの峠で難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪割り人足も出動した。下原村の名主勝五郎は、安政二年(一八五五)に避難場所と荷置き場を造ろうと郡御奉行所に口上書きを差し出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。
石小屋は山腹を欠いて高さ約二メートルの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで二・三メートル長さ五十二メートルという大きいものであった。人馬の避難所や荷置き場には絶好の施設であった。
その後、慶応三年に修理したが、現在は石垣の一部を残すのみである。
11:36 川を渡る
11:38 峠より1.0km地点
11:43 下りてきたところ
中部北陸自然歩道
→諏訪大社下社(秋宮)11.1km
←和田峠 0.9km
こんなところを下りました。
11:49 界甲三三五
道の向こうに下りる
道標 中部北陸自然歩道
→和田峠 1.2km
← 諏訪大社下社(秋宮)10.8km
11:56 峠より 1.6km
12:01 下諏訪町文化財 西餅屋茶屋跡
案内板
「 下諏訪町文化財 西餅屋茶屋跡
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿 と和田宿 の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手」(直角な曲り)と茶屋跡がのこっている。
本日の3(古往還~木落坂~毒沢ミネラル鉱泉)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/195000
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003