岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道六十九次歩き8日目の4(岩村田宿)

2度目の中山道8日目の4
4月5日(日)の4


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【 白山比咩神社】

11:25 白山比咩(しらやまひめ)神社
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全国に2,000社以上ある白山神社(はくさんじんじゃ、しらやまじんじゃ)の1社で、石川県と岐阜県との県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る白山神社の総本社である白山比咩神社と同じ名称の神社です。

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11:29 石仏石塔群
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11:32 小田井南交差点で県道9号線と合流
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11:33 振り返ると浅間山
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【皎月原】

11:35 道の反対側に皎月原(かないがはら)
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昔は広大な惣元だったそうです。11年前に来たときには未知を渡って皎月原を見に来ましたが、今回は道を渡らずに進みました。

皎月原の説明を探していたら、もし道をわたって皎月原に行っていたら見たであろう(多分11年前には見ています)案内板を見つけたので、貼っておきます。

案内板
佐久市文化財 名勝 皎月原

 皎月原は旧中山道沿い、小田井宿岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へかけ上がり、東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は『吾は唯人ではない。白山大権現だ』と云って光を放って岩の中へ入ってしまった。その後女官は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶ様になったと伝えられている。
 只『村上家伝』の村上其国の伝記には全くの異説が載っている。

 平成2年10月1日 佐久市教育委員会


昔広大な草原だった皎月原は、この案内板の付近を残し、周りのほとんどは中古車センターになっていました。


11:38 馬頭観音
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道の反対側に渡りました。この辺りにショッピングモールやファミリーレストランがあるので。

11:43 バーミヤンが見えてきました。ここでランチしましょう。
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11:59 バーミヤンラーメン、ミニサラダ、餃子、鶏の唐揚げ、ドリンクバー
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12:31 出発。振り返ると浅間山
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12:33 リンゴ畑かなあ。
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何度も浅間山を振り返ってしまいます。
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住吉神社 岩村田宿の入り口】

12:48 住吉神社 この辺りが岩村田宿の入り口と言われています。
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11年前のブログより

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2009.4.19.

県道沿いを暫く行き、大きなケヤキの木の古木と、溶岩で出来た常夜灯がある住吉神社に寄りました。

ケヤキは立派なコブコブがあり、私はタブの木の写真を何枚か撮りましたが、タブの木の奥にちょうど見頃の大きな桜の木があり、他に境内にいた人たちは、みんな桜の写真を撮っていました。

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樹齢400年のケヤキと鳥居
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ケヤキは、裏側は空洞になっていました。
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今回はまだ咲いていない垂れ桜
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溶岩の常夜灯
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石塔群
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天明八甲年正月」と刻まれた双体道祖神 (右)
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境内には土俵もあります。土俵とタブの木
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【本陣代わりの龍雲寺】

12:56 龍雲寺
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佐久市ホームページより

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武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をした。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められている。

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割烹旅館あさやホームページより

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街道の交わるところ 岩村田

岩村田中山道で、江戸から数えて22番目の宿場。米穀の集積地として物資輸送上で大きな役割を果たしていました。
中山道が北から来て西へ抜け、北西の小諸へ行く道、南へ下って野沢を経て甲州へ行く道、東の香坂峠を越えて上州下仁田へ行く道が交わる交通の要所でもありました。
岩村田宿は本陣・脇本陣がなく、龍雲寺や西念寺がその役割を担っていました。
旅籠宿は8軒あり、旅人が足を休めました。
現代の中山道は人・馬の代わりに車が行き交い相変わらず交通の要所としての賑わいを感じられますが、車から降りてゆっくり散策してみれば、そこここにかつての宿場の面影を発見できます。

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軽井沢・佐久ポータルサイトSlow-style.comより

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幻の岩村田宿本陣

中山道岩村田宿には、本陣が存在しなかったと言われてきました。

ところが最近、佐久ホテルの書庫より
「本陣があった」という江戸時代の文献が5通出てきました。

この文書を小林先生が解読したものを
現在佐久ホテル一階の白秋の部屋の前に展示しています。(2015.7.26)

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この辺りが本陣展は期間限定と思われますので、現在は見ることは出来ないかもしれませんが、存在しないと言われてきた本陣があったことを証明する手紙が5通出てきた、という事実が公表された、ということは浪漫がありますね。


12:58 岩村田商店街
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シャッターが閉まっている見瀬が多いのは、この辺り既にシャッター街なのか、普段は活気があるけれど今は新型コロナウィルスの影響でシャッターを下ろしているのか。


13:02 戸塚酒造店
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佐久物産振興会ホームページより

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戸塚酒造 株式会社

承応二年(1653)に岩村田で造り酒屋を創業。幾多の変還を経て、文政四年(1821)に現在地で再興。手造りに徹し、品質一筋の道を歩んできました。
創業者は御獄神社の信仰が厚く”寒竹霊人”として御嶽山に祀られられています。

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13:05 相生町交差点で右折
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13:07 石塔群
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【銀のドームと曲口神社】

13:08 ドームが見えてきました。
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ドームは、佐久市こども未来館(サクモ)です。

佐久市こども未来館ホームページより

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佐久市子ども未来館」(愛称 sakumo(サクモ))は、体験やコミュニケーションを通して、子ども達の「未来をつくる力(自ら課題を見つけ、それらを解決する方法を考え、創造する力)」を育むチルドレンズミュージアム(体験型子ども博物館)です。
身の回りのもの、こと、自然、人、そして自分自身をもう一度新たな視点で見つめ直して、新しい発見や感動に出会える施設づくりをめざしています。

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今回は少し離れた所からしかドームを見ませんでしたが

11年前のブログより

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岩村田付近で小海線の線路を渡る手前に、銀に光るドームのような物が見えたので、なんだろう、と思って見に行ったら、佐久市こども未来館でした。

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13:08 曲口(しゃぐち)神社碑
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ブログ「神道一直線」より

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上曲口神社秋祭り(2009-09-13)

 佐久市岩村田東芝間にある上曲口神社は古い神社で社殿や鳥居もありません。一説には縄文神だとか祟る神様とかいいますが、はっきりはしないようです。
 地元の古老はミシャグッツアンとも呼びます。岩村田にはここ上曲口神社と相生町の下曲口神社の二社がありますが、いずれも拝殿も鳥居もないです。一説にはこの二社から岩村田の測量を始めたので「尺をいれた口」とか「差し金(曲がり尺)をいれた」という説もあります。

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ここは下曲口(しもしゃぐち)神社です。


13:09 踏切渡りました。踏切からサクモのドームがよく見えます。
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御嶽神社

13:11 御嶽(みたけ)神社
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鳥居も囲いの塀もありませんが、立派な神社に見えました。

wikipediaより

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御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王権現を祭った神社。金峰神社金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)ともいう。総本社は吉野金峰山寺蔵王権現堂。

修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、明治時代の神仏分離のときに、御嶽神社金峰神社金峯神社)、蔵王神社などと改称された。神道において、蔵王権現は「大己貴命少彦名命」、「国常立尊大己貴命少彦名命」や、「安閑天皇(広国押建金日命)」、「金山毘古命」と習合し、同一視されたために、それらの神々を祭神とするようになった。なお、覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は、上記と区別して「おんたけじんじゃ」と呼ばれる。起源は蔵王権現信仰であるが別の信仰として分化している。

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みたけ神社とおんたけ神社は分化されているんですね。

wikipedia調べでは、御嶽(みたけ) 神社と称する神社は11ヵ所載せられていました。岩村田御嶽神社の祭神は、大己貴命です。

大己貴命とは コトバンクより

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日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。
※書紀(720)神代上「素戔嗚尊、妃と為たまひて生ませたまへる児の六世の孫、是を大己貴命(オホアナムチのみこと)と曰す〈大己貴、此をば於褒婀娜武智と云ふ〉」

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中央奥が社殿。
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境内の石塔は右から「月読尊」「庚申」「妙見尊」その先は影で字は読めませんが、「保食神社」「不動尊」「甲子大黒天」

御嶽神社辺りからの浅間山
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岩村田高校
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13:20 あさま総合病院
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11年前も大きな病院の脇を通ったことはよく覚えていますが、多分あのときよりもきれいになったと思います。


【相生の松】

あの、カーブのところに相生の松があることを、覚えていました。
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13:22 相生の松
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「四季歩のつれづれ」(岩村田出身の交野線ブログ)より

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相生の松

記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、縁起のいい名前から、野点をされたと言われている。
「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。現在の松は三代目である。

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11年前のブログより

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私は相生の松は∞無限大マークみたいに絡み合っているのかと思ったら、主なる幹の下の方の脇から、新しい幹が出ていて、二本の松の根本が一緒、というものでした。

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13:23 中部北陸自然歩道道
追分宿 11.0km 塩名田宿4.3km→
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中山道は相生の松の所で直角に曲がります。江戸方面から来ると、かくっと右に折れます。


13:26 砂田用水改修記念碑(右)と水神大
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13:31 道祖神
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浅間山を見ながら進みます。
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左側に見えるのは八ヶ岳でしょうか?
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13:36 中部北陸自然歩道道
←塩名田3.6km 追分11.7km→
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砂田橋を渡ります。この辺りに一里塚があったそうです。砂田橋で渡る川は濁川と言います。

11年前のブログより

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濁川という川を渡りましたが、川の水が黄色っぽく、なんの成分なんだろう。

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という訳で、調べてみました。


濁川 wikipediaより

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長野県東信地方北佐久郡軽井沢町西部、浅間山の南にそびえる石尊山の東側(標高1,500メートル)に端を発し、南南西の方向で直線的に流れ、御代田町を経て佐久市塚原にて流れを西に変え、塩名田で千曲川(長野県内における信濃川の呼称)に合流する。長さは17キロメートルである。

水の色は、わき出た直後こそ澄んでいるものの、硫化鉄や遊離炭酸を多く含んでいることから、数十メートル流下するうちに褐色に濁る。源泉から下流の標高1,000メートル地点までの間の川底には、赤みがかった褐色の沈殿物が厚く積もり、固まっている。

源泉の近くには褐色の水を湛える血の池やおはぐろ池があり、さらにそこから若干下ると落差9メートルの滝になっており、これは血の滝または赤滝と呼ばれている。

流れる途中で支流や地下水が合流し、軽井沢町を過ぎて御代田町に入るころには水量が増え、色も薄めの黄白色となる。しかし、下流佐久市と接する御代田町の小田井(標高770メートル)では、水の色が黒みがかった黄白色となる。

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【荘山稲荷と保食神

13:38 荘山(かがりやま)稲荷社
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案内文(印刷物)
「 荘山稲荷社

鎮座地 佐久市大字平塚字荘山12番地

祭神 保食神(うけもちのかみ)外3柱神

由緒(いわれ)

本神社は平塚区荘山に在り、創立されたのは江戸時代中期に入った頃の寛保元年(1714年)と伝えられ、今から273年前のことである。 当時の平塚は農業と養蚕が盛んな村であったため、その守護神として祭られた神社である。本殿が西側を向いた神社はめずらしく、平塚区と神社の 位置関係からも、この神社が平塚の守り神様である事がよくわかる。
本殿には、五穀養蚕豊穣(ごこくようさんほうじょう)の棟札 (むなふだ) がおさめられている。

平成26年9月3日 記

*出典 日本書紀 現代訳 」

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案内文(印刷物)
保食神(うけもちのかみ)

天照大神が天上にあって、言いました。『葦原の中つ国に保食(うけもち)の神がいると聞いています。そなた、月夜見尊(つきよみのみこと)、行って見て来なさい。』と。月夜見尊は命令を受けて降りました。そして、保食神のところに行きました。

保食神は首を回して国土を見ると、口から飯を出しました。又、海を見ると、毛の荒い動物、毛の柔らかい動物を口から出しました。その各種の物を全部揃えて、沢山机に並べて饗応しました。

この時、月夜見尊は顔色を変えて怒って言いました。『けがらわしい。いやしい。どうして、口から吐き出したものを、あえて私に食べさせようとするのか。』と言って、即座に剣を抜いて、殺してしまいました。それから天上に戻って、詳しくその状況を話しました。

すると、天照大神は大変怒って、『お前は何と悪い神だ。もう会わない。』と言いました。そこで月夜見尊とは、一日一夜を隔てて離れて住むようになりました。
この後、天照大神はまた天の熊人(くまひと)を遣わして、どうなっているか見に行かせました。この時には、保食神はすでに死んでいました。すると、その神の頭頂からは牛と馬が生まれていました。額からは粟(あわ)がなっていました。眉の上には蚕(かいこ)が生まれていました。眼の中には稗(ひえ)が生まれていました。腹の中には稲が生まれていました。陰部からは麦と大豆や小豆が生まれていました。

天の熊人はこれを全部持ち帰って、献上しました。天照大神は喜んで、『これはこの世の青人草(人間ー青い目の人とも言う)が食べて生きるものです。』と言って、粟(あわ)稗(ひえ)麦豆を畑の種子としました。また、稲は水田の種子としました。また天の邑君(むらきみー農民の長)を定めました。
そこで、その稲種を初めて天の狭田(さなだ)長田に植えました。その秋に実った穂は大変長く垂れて、豊作でした。また口の中に蚕を含んで絹糸を引き出すことが出来るようになりました。これから初めて養蚕が始まりました。

*出典 日本書紀 現代訳 」


赤い鳥居の所に芭蕉句碑があるそうです。「野を横に馬牽むけよ郭公」元禄2年、那須で詠まれたもので、奥の細道「殺生岩・蘆野」の中で紹介されている句です。

13:39 中部横断自動車道のガードを潜りました。
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2度目の中山道8日目の5(塩名田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/12/133011