紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き10日目の4(長久保宿から和田宿への道)

2度目の中山道10日目の4
7月30日(木)の4

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【暑い日のランチはラーメン】

11:39 馬頭観音
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ガイド本に「中仙道」という店が載っていて、

ほうとう、ダッタンそば、岩魚料理、猪料理が味わえる」

とあったので、ここでお昼を食べようと思いました。店の前に車も停まっているから、営業しているみたい。

しかし、店の前まで行ったら、車の手入れをしていたおじさんに声をかけられました。

食堂はもう何年も前にやめてしまったのだそうです。

すぐ手前にプレハブのラーメン店があったので、そこに入ることにしました。

11:51 ラーメン、500円
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暑かったので、水が美味しかった!

ラーメン、元気になりました。


【四泊の一里塚跡】

12:04 四泊落合(よとまりおちあい)
標高 680m
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12:04 四泊の一里塚跡
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案内板
「 長和町指定文化財
中山道 一里塚跡

一、指定年月日 昭和五十三年十二月一日
一、所在地 長和町長久保大字四泊
一、指定の理由 交通の遺跡

[説明]
中山道の一里塚は、慶長九年(1604)幕府の一里塚奉行大久保長安により、江戸日本橋から一里(約4キロメートル)ごとに、およそ五間(約9メートル)四方の塚が築かれ、その上に榎や欅などを植えて、旅人の便宜を図ったものです。
江戸から48番目となるここにあった一里塚は、『エノミの木のある所』として地元の人に親しまれた榎の大木がありましたが、昭和三十五年(1960)の道路改修の際に伐採されました。
正保四年(1647)の『信濃国絵図』のほか、諸文献にもこの場所に一里塚のあったことが明記されています。
ここより江戸方となる一里先の笠取峠直下には、一里塚が一基現存し、また京方の三里先の当町唐沢には、ほぼ往時の原形を留める一里塚が対で現存しています。

長和町教育委員会

案内板に「エノミの木」とあり、エノキの間違いでは?と思ったら、榎をエノミとも昔から言うんですね。


12:09 道祖神
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【落合橋と和田橋を渡る】

12:21 落合橋を渡って右へ。
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昨年の台風でこの付近、崩れていて、工事中でした。

梅雨の大雨で、川の水量も多く、激しい流れでした。

12:25 和田橋からの依田川
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12:31 水明の里碑
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12:32 歴史の道中山道 案内板
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12:32 馬頭観音
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【上深山口バス停】

12:40 上深山口バス停
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藁葺き屋根のバス停。11年前もこの写真を撮りました。

11年前のブログより

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茅葺き屋根のバス停】

藁葺き屋根のバス停がありました。(上深山口バス停)
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12:44 石仏石塔群
寛政十二年(1800)建立の天王夜燈
宝曆二年(1752)建立西国巡礼供養塔
青面金剛
石祠
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【ミミズの碑】

12:48 ミミズの碑
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案内板
「 ミミズの碑

*ミミズの碑”は、この地蚯蚓に住む人々の希望により祭られました。
蚯蚓(みみず)は土壌動物の代表です。みみずは枯れた落ち葉や木の枝などをよく食べ糞をします。その糞は『土』となります。『生まれたばかりの新鮮な土』『植物がよく育つ土』なのです。
*少し残酷ですが、蚯蚓の地区では『みみずのひもの(はらわたを出して板の上にはりつけた)』つくり、解熱剤として使いました。 」

この辺りは蚯蚓(きゅういん)地区と言い、農作物のためにミミズを大切にしていたようです。「きゅういん」から転化して、蚯蚓神社のご神体は「おきんさん」と呼ばれているそうです。

ミミズの碑の斜め向かいに蚯蚓神社があるのですが、見そびれてしまいました。


東信ジャーナルブログ版より

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2016年1月16日

【昼寝をする巨大な「みみずさん」が奉納された蚯蚓神社】

ミミズを「蚯蚓(きゅういん)大権現」として祀る「蚯蚓神社」=長和町和田中組=が密かなブームとなっている。
インターネットを見て県外から来る人や農業関係者などの参拝が増えているためで、羽田健一郎町長は「ミミズの神社は全国唯一ではないか。ミミズは土を肥やす存在なので、農業のシンボルとして紹介していきたい」と話す。

蚯蚓神社があるのは、中山道沿いの「蚯蚓地区」の山裾。杉木立の中に建っており、南側には御神木である樹齢300年の「榧」(かや)の木がある。

 伝説によると昔、裏山の北沢山で大水が出た際、長さ一尺(約30㎝)ほどのミミズが群れをなして死んだ。
 その直後、コレラや腸チフスなどが発生したため「ミミズのたたりだ」と畏れ、神社を建てたという。かつては山中に「奥のお堂」もあったという。

 実際、神社の横には「水出(みずいで)」と呼ばれる沢が流れており、過去50年間に2度鉄砲水が起こっているという。
また 辺り一帯には湧き水がいくつもあり、ワサビの生い茂る場所もある。
 
 神社の麓に住む辰野三夫さん(76)は「水が豊富な土地なので、大水が出ないよう山と土を守ってくださいという願いを込めた神社だったのではないか」と話す。

 かつては茅葺き屋根の社殿だったが、雨漏りのため昭和44年、建築業を営んでいた辰野さんが木とトタンで建て直した。その際「蚯蚓神社」や、地元での呼び名である「おきん様」の神額もこしらえた。

さらに12年前、直径10㎝程で長さ2m余り、微妙に湾曲した杉の間伐材に着色し、顔を描いて「みみずさんのおひるね」の看板と共に奉納した。

 以前は毎年8月20日に地区の人たちがお重を持って集まり、お供えをした後神社の前で会食して楽しんだ。今は神事を行うだけのひっそりとした神社だが、神社の正面の旧中山道沿いに雌雄のミミズが描かれた神社の石碑があることから、中山道散策途上の県外の人たちの参拝が増えた。また川魚料理や農業に携わる人がわざわざ訪ねて来ることもあるという。

ミミズは漢方の解熱剤としても珍重されており、蚯蚓地区でも昔はミミズの干物を作っていた。子どものころに飲まされたことがあるという辰野さんは「この辺りは雨が降れば今でも長さ1尺のミミズが出てくることがある。なぜおきん様と呼ぶのか分からないが、大切にしていきたい」と話していた。

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12:50 水飲み場
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持参の水に継ぎ足してここの水を入れました。


【三千僧接待碑】

12:53 三千僧接待碑
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案内板
「 歴史の道
中山道

三千僧 接待 碑

信定寺別院慈眼寺境内に建立されて
いたものだが寛政七年(一七九五)
この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶
への接待 碑で一千人の僧侶への供養接
待を発願して見事結願し、一躍二千を増
した三千の僧侶への供養接待を発願し
たと碑文に刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように
一千僧の一の字を三千僧の三の字に改
刻した後が歴然としている当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから 麦飯、麺類、栗飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の六年に亘る凶作続きの際にはじゃが芋の粥などで賄ったことがあると言われる。

和田村・長野県・文化庁


12:58 石仏石塔群
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一番左は、鬼とこどもが二人?

12:59 下和田上組バス停
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社みたいなバス停

立派な門の家が多い。
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13:07 中山道碑と、馬頭観音
頭上に阿亀馬頭観世音と福大大士
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13:07 石仏石塔群
馬頭観世音、水供養碑、水道碑
道祖神、回国百番観世音碑など
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【若宮八幡神社

13:10 若宮八幡神社
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案内板
「 長和町指定文化財
若宮八幡神社本殿

一、指定年月日 昭和五十六年十月一日
一、所在地 長和町和田字若宮
一二一五-一

【説明】
祭神は、仁徳天皇
本殿は、一間社流造の間口一・五メートル、奥行一・七メートルの大きさで、棟札には享保六年(1721)の建立とあります。正面と側面に廻縁(まわりぶち)をつけ、隅組擬宝珠(すみくみぎぼし)柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には和違文(わちがいもん)に六辧花(ろくべんか)が彫刻された各部分の調和がとれた建築です。


和田城主大井信定父子の墓

一、指定年月日 昭和四十六年十一月一日
一、所在地 長和町和田字若宮
一二一六-一
【説明】
戦国時代の天文二十二年(1553)に、和田城主大井信定と武田晴信(信玄)が矢ヶ崎で戦い、信定父子をはじめ一族郎党がことごとく戦死し、その父子の首級がここに埋葬されました。
元禄六年(1693)に信定寺第六世来安察伝(らいあんさつでん)和尚によって当境内に墓碑が建立されました。

長和町教育委員会
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「 町指定保存樹木
欅(けやき)・杉
樹齢推定三〇〇年 」
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13:11 芭蕉句碑(多分これだと思います)
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「安能雲ハ稲妻越待つ
たよ里可南 」
(あのくもは いたずまをまつ
たよりかな )


13:13 長和くるみ農園
可愛くて、パチリ
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13:13 上組の中山道一里塚跡
江戸より四十九里
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13:17 JA信州うえだ きのこ菌種センター
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13:20 メルヘンな芹沢バス停
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11年前に来たときは、ほとんどみんな茅葺き屋根のバス停だったように記憶するのですが、今回来てみたら、バス停によっていろいろなデザインが施されてきました。


13:21 アートな落書き。バンクシー風?
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ホーロー看板やシール、ステッカーのようなものをいっぱい張り付けた建物。
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何かの工房かな?

ミニヒマワリ。最近、本来の大きなひまわりより、ミニヒマワリをよく見かけます。
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水田の緑。梅雨が長く寒かったから、やはり今年は稲の生育が遅い気がします。
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11年前のブログより

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石仏があちこちにある静かな道を歩きましたが、暑くなってきて、単調な道だし、ちょっとつらくなってきました。

藁葺き屋根の神社があり、境内には芭蕉の句碑もありました。

キノコの種菌を育てる研究所があり、ちょっと興味があったけれど、一般公開はしていないみたいでした。

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今回も前回も、長久保宿から和田宿への道は長く辛く感じました。緩くずっと上り坂だし、ずっとアスファルトの舗装道だからでしょう。


2度目の中山道10日目の5(和田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/190000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003