岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道六十九次歩き8日目の3(御代田 小田井宿)

2度目の中山道8日目の3
4月5日(日)の3


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【笑坂】

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10:03 御代田(みよた)町に入りました。
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浅間山を見ながら歩きます。
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この緩やかな下り坂を笑坂(わらいざか)と言います。ここに来る前にガイド本で笑坂の文字を見たときは、下る人は膝が笑うほどきつい坂、上る人はもう笑うしかないぐらいきつい坂、を想像していました。実際来てみて、緩やかな坂で自然に笑みがこぼれてしまうから、そして京都側から来た人は、口笛でも吹けそうな緩やかな上りだから、それで笑い坂なんだろうと思いました。一説には、京都側からくると、もうすぐ追分宿、飯盛女(この場合は女郎)に会える、とにやけてしまう、なんて仮説を立てた人もいましたが、自然に笑みがこぼれてしまうからだと思います。ただ、京都側から来た場合、いくら緩やかな坂でも長すぎるから、微笑むことが出来るかどうか。やはり飯盛女かなあ。


10:08 御代田観音
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碑文によりますと、 戦後に58軒が入植しますが、食糧難や経済難、過酷な生活にてこの世に生を受けられなかった子ども達のために、水子地蔵と普賢菩薩を併せた観音堂を建立したそうです。


10:09 中部北陸自然歩道道
←小田井3.4km 追分1.8km→
←塩名田13.5km
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浅間山を振り返り振り返り歩きます。
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10:26 大山神社
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この先、御代田の一里塚があるはずなのに、見過ごして御代田の地下道まで行ってしまい、いやいや、御代田の一里塚は絶対見なくちゃ、と戻りました。


【御代田の一里塚】

10:33 御代田(みよた)の一里塚入り口
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10:34 御代田の一里塚
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今回は浅間山をバックに枯れ枝の垂れ桜ですが、11年前に来たときには、垂れ桜が咲いていました。
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案内板
「 長野県史跡 御代田一里塚

 中山道、御代田の一里塚 は、軽井沢町追分一里塚 の次に位置するもので、これを経て中山道小田井宿 へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿 へと向かう。
 中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長七年(1602年)に整備され、寛永十二年(1635年)に回収されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
 本一里塚は、西塚で径十三m、周囲四十m、高さ五mを測る。隣接するのは東塚で径十三m、周囲四十m、高さ四・五mを測る。
 これらは現中山道より七m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
 ちなみに、国道十八号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。
昭和三十九年八月二十日
長野県教育委員会 指定 」


多分、これが反対側の塚だと思います。
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両塚を入れた写真
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10:42 御代田の地下道(線路を潜ります)
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10:44 地下道から出たら、道が分岐していて、写真の真ん中の道を行きます。
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10:45 立派な門
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10:50 石仏石塔群
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10:55 石祠二社
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10:55 立派な塀
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11:01 Y字を左へ
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分岐から浅間山を振り返る。
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11:02 中部北陸自然歩道道
←塩名田10.3km 追分5.0km→
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11:05 石仏石塔群
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【姫の宿 小田井宿 おはる地蔵】

歓楽的な色が濃かった追分宿を隣に控え、小田井(おだい)宿は大名の妻や姫君が泊まることが多かったため、『姫の宿』と呼ばれていたそうです。

11:06 小田井宿跡入口
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上小田井バス停と小田井入り口付近の町並み
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11:08 おはる地蔵
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案内板
「 女傑 安川ハル

安川ハルは、御代田村小田井、安川肅・すての一人娘として、明治36年3月4日に生まれた。御代田小学校、岩村田農学校女子部を卒業し、更に補修科を修業した。大正8年3月、郡教育会主催小学校、准教員並びに師範学校準備講習を受け、裁縫科専科正教員免許を取得。同8年11月から翌年8月31日まで小沼小学校に奉職した。退職して上京、女子師範学校を志したが、家庭の事情で呼び戻された。めったなことで、くじけない彼女は何を思ったか、敢然として髪を切り落とし、無断で南佐久郡小海村の心霊道でしられる油井まさごの弟子になったが、親に気づかれ連れ戻された。
意志の強固な彼女は再び黒髪を惜しげなく切り落とし、久留米かすりに小倉袴という男装で家を飛び出した。女性が断髪したという理由で警察に検束されたこともあった。東京第五中学校長伊東長七や福島大将令息の援助を受けながら、ゴミや人糞を焼却して肥料を作る研究に没頭した。農民が人糞と種麦を混ぜて手で蒔く。木を焼いて灰を作り肥料としている。草を苅って田の中へ入れている姿を見たのが研究の動機だという。山中に入り炭焼きをしながらかまの研究をした。深夜、人の寝静まるのを待って人糞を運び焼却の実験をするなど、苦労がようやく報いられ炭焼きかまを改良したようなかまど『安川式肥料燻炭炉』が完成したのは春頃が28歳の時であった。
東京市役所の下水課長に面会してゴミと人糞を無料で受け、高価な肥料を買えない農民に、安く提供したいことを説明した。これで農家は安い肥料を手に入れることが出来る。東京市も200万世帯から出る27万貫の五味と人糞を処理することが出来る。一度に手車10台分(約1,000貫)のゴミと糞を15時間で完全に焼却し、燃炭肥料が出来る。しかも副産物として、メチルアルコールアンモニアなど7種類の高価な薬品がとれることが帝国大学で証明された。東京市の1日に出る塵と糞から、約27,000貫の燻炭肥料が生産できる。1貫目30銭として、1日8,000円の利益がある計算になり、将来期待されたが、彼女は塵芥の中にある菌が左手の傷から入り、難病にかかり床に伏した。このため肥料燻炭炉は軌道にのせることなく止むなく中断した。
昭和7年3月、この病気がきっかけで観音様を熱心に信じるようになった。読経の合間に病にかかった左手の小指・薬指・中指の3本に針を刺して血を硯にしぼり、筆にふくませて経文を7カ月かけて書き写した。観音経220巻、十一面観音経30巻、般若心経25巻、計275巻、字数にして489,900字、血液1升5合になるという。この間、精進食である麦飯の菜汁の生活で新体はすっかり衰えたが、信仰心と精神力は衰えることがなかった。この血書は、小笠原長生子爵を通じて文京区本郷の大円寺に救国祈祷のため納められた。住職である服部大元師は、千手観音を彫刻家髙村光雲に彫らせ、大座の中に血書を入れ永く救国祈願をしたが、千手観音と血書は戦災で焼失した。その後も周りの人々が止めるのも聞かないで、血書で般若心経1,000巻の書写を目指したというが、どうなったかは不明である。
戦争が激しくなり食料が不足すると、ハルは部下を大勢引き連れて寺沢へ開拓に入った。開拓地の許可を得るために、諸官庁との交渉役を受け、開拓の許可を取ったり開拓計画や仕事の割り振りの手際のよさは、周囲の人々を驚かせたという。戦後、当時雲の上の人と思われていた中島今朝吾中将と堀内中将を自宅に連れてきたことも、彼女の人脈の広さを伺うことが出来る。小学校へオルゴールのベルタイマーや全教室にテレビを寄付したり、上宿区へ共用の花嫁衣装とその維持費を寄付して、地域にも貢献した。
平成3年3月16日、89歳で永眠した。戒名は『静壽春英大姉』、墓石の裏には『故 安川ハル 刀自は独居生活を営み、近隣の温かい愛情に包まれ天寿を全うする。没後縁者、隣人、知己、交友相寄り相謀らい葬儀を行ない遺産を以て墓石を建立、菩提を弔い冥を念ず』と尾台誠の言葉が書かれている。明治40年に追分から移築したという家と屋敷と財産は本人の遺志により、上宿区へ寄付された。家は古くなったので取り壊され、そこには地区の人たちによって『おはる地蔵』が建立された。
(文責 尾台和雄)

故 安川ハル 顕彰会 」


11:09 御代田町観光マップ
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11:09 東の桝形
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案内板
中山道 小田井宿
 小田井宿天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東西の入口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道 の繁栄期であった文化・文政期には、文政5年(1822)で、199戸・人口524人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場で会ったようです。町並みは寛延元年(1746)で7町23間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が遺され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。

御代田町西軽井沢観光協会


町の端に川が流れています。
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11:11 小田井宿お休み処
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フクロウはチェーンソーアートのようです。
右の方に熊のチェーンソーアートもあります。

11:12 宝珠院アカマツ入口
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nagareki.comより

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宝珠院の境内にあるシダレザクラは当地に移ってきた当時に植樹されたと推定される古木で推定樹齢300年、樹高7~8m、南北枝張り11m、アカマツは樹高7.5m、東枝張り8m、幹周2.7m(2本の接合部)で共に貴重な事から御代田町指定天然記念物に指定されています。

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【本陣跡 高札場跡】

11:13 本陣跡
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案内板
「 町指定史跡 中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良工に残している。
 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは、現形をよく留めており、安川家文書で宝暦6年(1756)に大規模改修が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる。また、湯殿と厠は幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は大用所・小用所ともに2畳の畳敷き となっている。

 昭和53年6月1日 
御代田町教育委員会


11:14 御代田村道路元標
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11:14 高札場跡
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案内板
「 町指定史跡 中山道小田井宿

小田井宿は、中山道六九次の宿場の一つで、板橋宿から数えて二一番目、追分宿岩村田宿の間に位置し、日本橋からは四〇里三一町(約一六〇キロ)の距離にあった。皇女和宮をはじめとして、宮家や公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことから、『姫の宿』ともよばれた。
天正一六年(一五八八) 三月『小田井町割諸事之控』によればこのとき町割りがおこなわれ、その家数は二六だったというから、このころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。そして、慶長七年(一六〇一)には各宿間の『駄賃』などが定められているので、このころまでには宿場としての形態を整えたとおもわれる。
中山道宿村大概帳』によれば、天保一四年(一八四三)には、一〇九軒の家があり、三一九人が住んでおり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠五軒、問屋場二か所などがあった。
小田井宿が宿場としての役割を終えたのは明治三年(一八七〇)だが、その遺構は現在も随所に残されている。
現在地は高札場跡である。

昭和五十三年六月一日

御代田町教育委員会 指定 」


問屋場跡】

11:14 問屋跡
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標柱の案内
「 町指定史跡 中山道小田井宿 問屋跡(尾台家住宅)

 明和九年(江戸時代1772年)の大火以降のもの。切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室をそなえた良質の建物である。荷置場と問屋場には門の左右の建物を使用した。  」


11:16 脇本陣
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11:16 美しい旧家
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11:16 用水路が流れる旧家
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11:17 ここからも浅間山が見えます。
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11:18 問屋場跡(尾台家住宅)
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11:18 蔵のある家
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11:18 西の桝形
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日用品 小松屋商店の前でシケインカーブがありますが、ここが小田井宿の西の入口です。

小田井宿はここまで。


2度目の中山道8日目の4(皎月原から岩村田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/11/142302

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