紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き8日目の2(追分宿)

2度目の中山道8日目の2
4月5日(日)の2


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【もうすぐ追分】

国道18号線の左側の歩道を歩いていてら、左側に軽井沢のパン屋で有名な浅野屋がありました。

11年前のブログより

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国道沿いに、軽井沢でパン屋と言えば「あさのや」があったので、思わず入って、フォッカッチオとデニッシュを買いました。お十時に食べよう。

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今は新型コロナウィルス感染拡大予防のためか、店は閉まっていました。


9:04 歩道橋を渡って右へ(小学校前)
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9:08 標高1003m
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標高が100メートル上がると気温は0.7℃下がるので、ここは海抜ゼロメートル地点より7℃低い。つまり、南関東はもう春ですが、ここ辺りはまだ冬です。

11年前のブログより

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もうすぐ追分。歩道橋で右側に渡り、一里塚を探しながら行きました。コブシの花と思われる、白い花が咲いている木が一里塚でした。

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【追分の一里塚】

9:09 追分の一里塚
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案内板
「 追分の一里塚

慶長九年徳川家康の命により江戸を起点とし、主要街道に一里ごとに塚を築造させた。この中山道には一里ごとに街道の左右に塚がつくられ旅人往来の道標として重要な使命を果たしたのであった。
今はこの街道の塚が大部分崩壊してしまったが、この追分一里塚はよくその原形を保っており、当時をしのぶことのできる貴重な資料である。

軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会 」

道の反対側の一里塚
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9:11 斜め右へ
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9:13 清香園(韓国料理の店)
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9:14 浅間神社
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軽井沢・佐久ポータルサイト「Slow-style.com」より

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軽井沢 追分 神社
浅間神社

室町時代に建立された神社で、軽井沢町内最古の木造建築です。

長い年月の間に、幾度となく浅間山の噴火の脅威にさらされてきた社の様子は、境内に残る松尾芭蕉の句碑「ふきとばす石も浅間の野分かな」からも、うかがい知ることができます。

明治2年5月には、浅間山の火山活動が激しくなり、その鎮静を祈願して9月に明治天皇の勅祭が行われたと伝えられています。

本殿は流造となっており、海老虹梁・宝珠の彫りが見事で木鼻(象鼻)の出っぱりが室町時代の様式を今も残しています。

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案内板
「この川は御影(みかげ)用水といって下流佐久平の用水路として作られたものです。
水と親しみ憩いの場として利用していただくことを目的としてこの施設を作りました。
みんなの川です。大切にきれいに使いましょう。
軽井沢町


9:17 昇進川 昇進橋
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【夢の箱】

9:17 追分昇進橋バス停と「夢の箱」
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案内板
「 『夢の箱』

青空文庫のきまり

本の出し入れは自由です

借りる人は一冊にして下さい

本箱に有る本をご自分の蔵書にされたい方は

代わりにご自分の蔵書に本をお持ちになり

整頓して置いて下さい

成人向けの雑誌・写真集及び 宣伝広告は置かないで下さい

硝子戸は必ず閉めて下さい


追分観光専業振興会
追分区 」


堀辰雄文学記念館と本陣跡】


9:19 堀辰雄文学記念館
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信州ミュージアムガイドより

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軽井沢ゆかりの小説家
書斎や書庫に感じる生活の匂い
軽井沢を愛した文人

 堀辰雄【ほりたつお】(1904~1953)は昭和初期に活躍した日本を代表する小説家のひとりです。大正12(1923)年、辰雄が19歳のとき初めて軽井沢を訪れ、以後たびたび軽井沢に滞在し、文筆活動を行いました。代表作『風立ちぬ』も軽井沢で書き上げたものです。昭和19(1944)年からは、信濃追分に移り住み、晩年を過ごしました。
 堀辰雄文学記念館は、堀辰雄夫人から、住居や関係資料などの寄贈を受け、平成5(1993)年に開館。常設展示棟のほか、閲覧室がある管理棟、旧堀辰雄邸、書庫、文学碑があります。
 常設展示棟では、辰雄の生涯や文学を6つのブロックに分け、原稿・書簡・初版本・写真・愛用の品などを展示。閲覧室では企画展による資料展示や講演会の開催を行っています。

本の並びにこだわった書庫

 書庫は辰雄の所蔵を収めるために建てられたものです。完成直後に辰雄は亡くなりましたが、生前の辰雄の指示したとおりに蔵書が並べられています。内外の文学をはじめ、哲学・宗教・民俗学・美術・音楽など幅広い書籍から、辰雄の読書の一端をみることができます。

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案内板
追分宿本陣門(裏門)

本陣

追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長七年(1602年)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。本陣文書に『定路次駄賃之覚(さだめつぎみちだちんのおぼえ)(慶長7年6月2日)』の記録があり、本陣が問屋を兼ね宿継、伝馬人足の継立ても生業とした。本陣の建坪は238坪あり中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。


本陣門の移築

明治1年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治8年信越線が全線開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の
門として役目を果たして来た。
内堀家においては、本陣門が軽井沢町の歴史遺産である事をご理解され、平成7年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。


軽井沢町の歴史的建造物『本陣「門」』

軽井沢3宿の内、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中山道に面したこの地に本陣『門』を移築する。


門の構造(追分宿郷土館に展示)

材料は全て樺材 一間冠木(いっけんかぶらき)付き門・切妻造(桟瓦葺 さんかわらぶき)・妻墓股(つまかえるまた)・二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)・背面控柱。
棟札:維持 天保二辛卯仲秋二十四日・大工 越後国 片桐伴と明記され建築年と大工の棟梁名が分かる。(追分宿郷土館に展示)

(見取り図) 」


9:21 旧旅籠現金屋(元骨董、雑貨屋)
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9:22 本陣跡 明治天皇追分行在所跡碑
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9:22 追分宿高札場跡
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案内板
「 高札場跡

追分宿の高札場は,問屋前の路中央にあった。法度,掟書きなどを記した。 
 また,さらし首,重罪人の罪状を記し,高く掲げた板札を高札という。
  寛永十年(1633)の古文書によると,広さ九尺横一間,高さ三尺の芝土手
 を築き,高札場の柱は,五寸角のものを使用し,駒寄柱は四寸角で高さ六尺
 の規模であった。
  昭和58年,当時の古文書等から,高札場を復元した。ここに掲示してある
 高札は,複製品で,現物は追分宿郷土館に保存展示されている。

軽井沢町教育委員会
   軽井沢町文化財審議委員会 」


9:22 浅間山道路第一詣石
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シャーロック・ホームズ像野外彫刻」の看板が気になります。
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9:23 諏訪神社  
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9:24 旧家
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ここにも夢の箱が。
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堀辰雄が愛した半伽思惟像】


9:25 泉洞寺 
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石碑文
浅間山 香華院 泉洞禅寺

宗派は道元禅師開山の福井永平寺、瑩山禅師開山の横浜鶴見總持寺を両大本山とする曹洞宗に属し、本尊は聖観世音菩薩
慶長三年(一五九八)三月
上州(群馬県長野原町)常林寺五世心庵宗祥禅師により開創
禅師は三州の人で元は武士 俗名を林主
水といい天正三年(一五七五)長篠の戦いに遭遇 数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、長篠の戦い医王寺において出家をされたという
境内には当地出身の女流書家稲垣黄鶴の句碑、筆塚があり他に慈母観音、牡丹地蔵等がある。
詩人の立原道造、作家の堀辰雄後藤明生等も散策し、当時に関わる作品も数多く残している 」

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案内図
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案内板
「 稲垣黄鶴と筆塚

貞明皇后に書を教えたといわれる稲垣黄鶴は、長く日本書道院副会長をつとめた書家であり、この地、軽井沢の出身で本名を『はま』といって追分宿三浦屋の子孫である。追分の泉洞寺にその筆塚と句碑が昭和37年に建てられました。
浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花」

11年前のブログより

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泉洞寺には、堀辰雄が愛した半伽思惟像があるというので探しに行ったのですが見当たらず、入り口の石仏群のひとつの半伽思惟像の石仏があったので、これだろう、と思って写真を撮ったのですが、後で調べたらこれじゃなかった。残念。

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前回は、堀辰雄が愛した半伽思惟像を見つけられなかったので、今日はじっくり境内を探しました。

ありました。「歯痛地蔵」

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浅間山泉洞寺(せんとうじ)ホームページより

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歯痛地蔵尊(作家 堀辰雄の愛した石佛)

泉洞寺墓地内の小径沿いに建立されており建立についての詳細は不明である。
地域(追分)住民は、歯痛地蔵尊と呼び信仰と共に親しまれてきた歴史があり、歯の痛みに悩まされた老若男女の祈願の結晶が像立へと結び、仏の慈悲に授かり、恵まれたと伝えられている。
この歯痛地蔵尊は作家堀辰雄の「樹下」の一節にえがかれたことによって有名になった。
堀辰雄が散歩のとき泉洞寺本堂へお参りし、本堂裏の墓地を通ったとき、この仏様と出会い心を寄せて手を合わせた姿があった。
堀辰雄を慕って追分を訪れた文人は数多いが特に詩人である立原道造がいる、彼も堀と同様、泉洞寺にお参りしこの石佛にも手を合わせていったのだろう。彼の詩集『田舎歌』の「村ぐらし」の一節に泉洞寺墓地の一角にある「泡雲幻夢童女」という戒名が詠まれていることからもうかがえる。

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【桝形の茶屋つがるや】


9:36 つがるや
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案内板
「 史跡追分桝形の茶屋

 寛永十二年徳川家光 の代、諸大名の参勤交代 の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に桝形の道と土手(高さ約二・五メートル)を築いて宿内の警備取締りをした。
 今、その面影を見ることはできないが当時桝形の地域内にあって茶屋つがるや(桝形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。

軽井沢町教育委員会
軽井沢町文化財審議委員会 」


また、景観に配慮したと思われる板張りの火の見櫓が立っていました。川越の時の鐘や、東海道の宮の渡しの時の鐘を思い起こさせる板張りの塔です。
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【追分 分去れ道標】


9:38 追分 分か去れ道標
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案内板
「 分去れの道標
(わかされのみちしるべ)

【右、従是北国海道 左、従是中仙道】

 中山道と北国街道分岐点に位置する『分去れ』は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
 右は北国街道姥捨山の『田毎の月』で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。

  軽井沢町教育委員会
  軽井沢町文化財審議委員会 」

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案内板
「 史跡追分宿の分去れ

中山道と北国街道の分岐である

「さらしなは右
  みよしのは左にて
   月と花とを 追分の宿」

とうたわれているように、ここを右すれば北国街道月の名所の更科や越後路に左すれば桜の名所吉野や関西方面に分かれたところである。ここに幾多の旅人がさまざまな感慨をこめて左右に袂を分ったことであろう。
 安置された石仏、石碑、石燈篭等に昔がしのばれる。

  軽井沢町教育委員会
  軽井沢町文化財審議委員会 」

森羅亭万象歌碑
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軽井沢町ホームページより

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碑は、安永年間に建立。森羅亭万象と名乗り、歌人として多くの句歌を残し、平賀源内に師事しました。

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11年前のブログより

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少し国道を行くと、追分の地名の語源となった、分去れ(わかされ)があります。北国街道と中山道の分岐点。

別れる股のところには、たくさんの道標や歌碑や、こどもを抱いた地蔵などがあります。

「右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道…」

兄弟デュオ、狩人の「コスモス街道」が浮かんできます。

今日は旧道を歩きながら、「コスモス街道」を歌っていました。感傷的に歌いながら歩くのも、ひとり旅の特権!

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常夜燈や地蔵など、他にも幾つかあります。
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シャーロック・ホームズ像】

9:41 追分公園の馬頭観音等の石塔群
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9:43 シャーロック・ホームズ
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案内板
シャーロック・ホームズ像野外彫刻

シャーロック・ホームズは、およそ100年前に約40年間にわたって英国のロンドンを中心として活躍した不滅の名探偵です。
親友ジョン・H・ワトソンと共に住んだベイカー街221Bには、今なお世界中から事件解決依頼やファン・レターが殺到しています。このよつにホームズが愛されているのは、彼の推理能力とか、犯人への温かい思いやり思いやり、などだけによるのではありません。
当時、繁栄の頂点にあった大英帝国は、1880年代に転換期を迎えます。古い時代の英国紳士道を守りつつも、新しい科学への信頼を採り入れたホームズは、単なる一探偵としてだけではなく、正義と友愛と公平のシンボルとして、今も人々の心に生き続けているのです。
アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)が書いたホームズ物語全60作品を翻訳家延原謙(のぶはらけん)がここ追分で全訳したのにちなんで、この地を選び、ホームズ登場100周年を記念してホームズ像野外彫刻を建てました。

1988年10月

シャーロック・ホームズ
愛する有志一同 」


何故、日本の、追分宿シャーロック・ホームズ像が?と思いましたが、「 ホームズ物語全60作品を翻訳家延原謙(のぶはらけん)がここ追分で全訳したのにちなんで」ということなんですね。


9:46 分岐を斜め左へ
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【コスモス街道】

9:48 コスモス街道の碑
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「右は越後へ行く北の道
左は木曽まで行く中山道
続いてる
コスモスの道が

コスモス街道
狩人うた 一九七七年 」

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案内板
「 ここは コスモス街道

兄弟歌手の狩人が昭和五二年に中山道を『コスモス街道』と歌いヒットした。」


【ミニ中山道

9:49 中山道69次資料館(冬季休業中)
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中山道69次資料館ホームページより

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69次の道 (庭の散策)

資料館内で日本橋から始まって69次の中山道の旅を楽しむことができますが、館外の庭(69次の道)
を歩くことにより、中山道の旅を擬似体験できます。

 看板などを見ながら、約15分です。途中、追分宿から本物の中山道に出ます。

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江戸日本橋
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碓氷峠
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浅間山
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逢坂山と京都三条大橋
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浅間山を見ながら歩きます。車のほとんど来ない気持ちの良い道が続きます。
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2度目の中山道8日目の3(御代田)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/10/114911

二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003