紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

堀辰雄文学記念館と本陣跡

堀辰雄文学記念館

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信州ミュージアムガイドより

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軽井沢ゆかりの小説家
書斎や書庫に感じる生活の匂い
軽井沢を愛した文人

 堀辰雄【ほりたつお】(1904~1953)は昭和初期に活躍した日本を代表する小説家のひとりです。大正12(1923)年、辰雄が19歳のとき初めて軽井沢を訪れ、以後たびたび軽井沢に滞在し、文筆活動を行いました。代表作『風立ちぬ』も軽井沢で書き上げたものです。昭和19(1944)年からは、信濃追分に移り住み、晩年を過ごしました。
 堀辰雄文学記念館は、堀辰雄夫人から、住居や関係資料などの寄贈を受け、平成5(1993)年に開館。常設展示棟のほか、閲覧室がある管理棟、旧堀辰雄邸、書庫、文学碑があります。
 常設展示棟では、辰雄の生涯や文学を6つのブロックに分け、原稿・書簡・初版本・写真・愛用の品などを展示。閲覧室では企画展による資料展示や講演会の開催を行っています。

本の並びにこだわった書庫

 書庫は辰雄の所蔵を収めるために建てられたものです。完成直後に辰雄は亡くなりましたが、生前の辰雄の指示したとおりに蔵書が並べられています。内外の文学をはじめ、哲学・宗教・民俗学・美術・音楽など幅広い書籍から、辰雄の読書の一端をみることができます。

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案内板
追分宿本陣門(裏門)

本陣

追分宿の本陣は歴代土屋市左衛門を世襲した。追分が宿場の機能を持つのは慶長七年(1602年)中山道の伝馬制度を徳川家が整備した以後である。本陣文書に『定路次駄賃之覚(さだめつぎみちだちんのおぼえ)(慶長7年6月2日)』の記録があり、本陣が問屋を兼ね宿継、伝馬人足の継立ても生業とした。本陣の建坪は238坪あり中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな宿泊施設を備えていた本陣である。


本陣門の移築

明治1年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治8年信越線が全線開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の
門として役目を果たして来た。
内堀家においては、本陣門が軽井沢町の歴史遺産である事をご理解され、平成7年に内堀家(当主の内堀志通彦氏)より軽井沢町へ寄贈された。


軽井沢町の歴史的建造物『本陣「門」』

軽井沢3宿の内、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中山道に面したこの地に本陣『門』を移築する。


門の構造(追分宿郷土館に展示)

材料は全て樺材 一間冠木(いっけんかぶらき)付き門・切妻造(桟瓦葺 さんかわらぶき)・妻墓股(つまかえるまた)・二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)・背面控柱。
棟札:維持 天保二辛卯仲秋二十四日・大工 越後国 片桐伴と明記され建築年と大工の棟梁名が分かる。(追分宿郷土館に展示)

(見取り図) 」