堀辰雄が愛した半伽思椎像のある泉洞寺
宗派は道元禅師開山の福井永平寺、瑩山禅師開山の横浜鶴見總持寺を両大本山とする曹洞宗に属し、本尊は聖観世音菩薩
慶長三年(一五九八)三月
上州(群馬県長野原町)常林寺五世心庵宗祥禅師により開創
禅師は三州の人で元は武士 俗名を林主
水といい天正三年(一五七五)長篠の戦いに遭遇 数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、長篠の戦い医王寺において出家をされたという
境内には当地出身の女流書家稲垣黄鶴の句碑、筆塚があり他に慈母観音、牡丹地蔵等がある。
詩人の立原道造、作家の堀辰雄、後藤明生等も散策し、当時に関わる作品も数多く残している 」
案内図
案内板
「 稲垣黄鶴と筆塚
貞明皇后に書を教えたといわれる稲垣黄鶴は、長く日本書道院副会長をつとめた書家であり、この地、軽井沢の出身で本名を『はま』といって追分宿三浦屋の子孫である。追分の泉洞寺にその筆塚と句碑が昭和37年に建てられました。
浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花」
「歯痛地蔵」
浅間山泉洞寺(せんとうじ)ホームページより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
歯痛地蔵尊(作家 堀辰雄の愛した石佛)
泉洞寺墓地内の小径沿いに建立されており建立についての詳細は不明である。
地域(追分)住民は、歯痛地蔵尊と呼び信仰と共に親しまれてきた歴史があり、歯の痛みに悩まされた老若男女の祈願の結晶が像立へと結び、仏の慈悲に授かり、恵まれたと伝えられている。
この歯痛地蔵尊は作家堀辰雄の「樹下」の一節にえがかれたことによって有名になった。
堀辰雄が散歩のとき泉洞寺本堂へお参りし、本堂裏の墓地を通ったとき、この仏様と出会い心を寄せて手を合わせた姿があった。
堀辰雄を慕って追分を訪れた文人は数多いが特に詩人である立原道造がいる、彼も堀と同様、泉洞寺にお参りしこの石佛にも手を合わせていったのだろう。彼の詩集『田舎歌』の「村ぐらし」の一節に泉洞寺墓地の一角にある「泡雲幻夢童女」という戒名が詠まれていることからもうかがえる。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑