二度目の中山道25日目の4
2020年10月12日(月)の4
【山内一豊陣跡】
関ヶ原のポスターが貼ってありました。
美濃国を歩いてきたので、あちこちにNHK大河ドラマ「麒麟がくる!」のポスターが貼ってあったのですが、そうか。明智十兵衛光秀は本能寺の変の三日後に討ち取られたので、関ヶ原の戦いの時にはもういなかったんだ。寂しい。
電柱に「武将物語」が貼ってありました。
「武将物語 東軍 山内一豊
南宮山の西軍に備えるため野上村に布陣するも、東軍に通じていた吉川軍により毛利・長宗我部隊は動けなかったため、主戦場へと移動して戦った。
このまち、まるごと、古戦場
監修 関ヶ原町
ここは野上 」
10:03 山内一豊陣跡
案内板
「 山内一豊陣跡
Yamauchi Katsutoyo's Encampment
織田信長の家臣で豊臣秀吉にも仕えた山内一豊は、会津征伐の途上で開かれた小山評定の折、徳川家康の西上に対し、自らの居城である遠江掛川城(静岡県掛川市)の供出を発言し、家康に高く評価されたと言われている。
関ヶ原の戦いでは約二千の兵を率いて、ここ野上付近に布陣し、南宮山(垂井町)の毛利秀元ら西軍を迎える重要な役割を果たした。午前11時頃、家康が陣場野に本陣を移すと、一豊も主戦場に陣を移して戦った。
合戦後は小山評定での功により大幅に加増され、土佐20万2千石に転封された。 」
東海道を歩いていたとき、掛川に山内一豊とその妻の大きなレリーフがあったなあ。
【野上松並木】
野上松並木
中山道58番目の宿場となる関ヶ原宿は今も昔も交通の要所であり、難所の今須峠や北国街道、伊勢街道などを控えて賑わった宿場です。本陣は現存していませんが、脇本陣は当時の面影をとどめています。また『野上の松並木』は岐阜県内の中山道ではここにしか残っていない貴重な松並木です。
関ヶ原町役場 地域振興課 」
案内板
「 町指定天然記念物
旧中山道松並木
江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木陰は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。
しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。
そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。
関ヶ原町 」
【六部地蔵】
10:06 六部地蔵
案内板
「 六部地蔵
六部とは『六十六部』の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している『人』ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が『宝暦十一年頃』(一七六一年)この地で亡くなられられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております。
この六部地蔵さんは、『六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り』と読まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られています。
関ヶ原町 」
2016年に来たとき、地蔵堂を建て直すための寄付を募っていました。今回来たら、地蔵堂は新しく綺麗になっていました。こちらの写真は2016年に取ったもの。
2016年のブログより
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2016.8.19.
この先300mにトイレがある、という看板があり、よし、そこでトイレを借りて一休みしよう、と元気に300メートル歩きました。
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今回もトイレをお借りしようと思いました。
【桃配(ももくばり)山】
10:10 桃配山(家康初陣の地)
案内板
「 ここの地名 桃配山
壬申の乱の時、大海人皇子 (天武天皇 )が陣を構え兵士に山桃を配り、戦いに勝利したとの故事からここを『桃配山』と言われた。
関ヶ原合戦『徳川家康』は、壬申の乱・天武天皇その故事から桃配山に最初に本陣を構えた。
歴史を知る、感じるパワー『ビクトリースポット』 」
本来はちゃんと立っていた案内板だったのですが、何故かくしゃくしゃで斜面におかれていました。
ネットで拾った、本来立っていた画像。(monumentoというサイトです。)
旧中山道(今、私がたっている所)から見上げた桃配山
戦国武将の幟旗が所々に立っています。
【一ツ軒交差点】
松並木が終わる頃、一ツ軒交差点にある桑原モータースさんにトイレがありました。
2016年のブログより
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旅人に優しい心遣い
2016.8.19.
300メートル行くと、右手は写真のような緑深い中を走る線路。
左に写真のトイレ。
桑原モータースさんが旅人にトイレを解放してくれているのです。
ありがとうございます。
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今回もトイレをお借りしようとしたのですが、男子トイレはすぐあったのですが、女子トイレが見当たらない。
今は新型コロナウィルス感染拡大防止の時期で、事務所の方に声を掛けるのは遠慮しました。もう少し我慢しよう。
10:15 一ツ軒の歩道橋
横断して右の下り坂へ。
これは2016年8月に撮った写真です。
右の下り坂へ。
10:22 松の木の下で6分休憩しました。
10:30 馬頭観音
木陰で馬頭観音が見えづらいので、2016年に撮った馬頭観音も載せておきます。
関ヶ原一里塚は所在不明でした。
10:37 若宮八幡神社
【相川脇本陣跡】
10:47 至道無難禅師生誕地・脇本陣跡
案内板
「 至道無難禅師生誕地
関ケ原宿脇本陣跡
慶長八年(一六〇三) 本陣職相川家に
生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派 の江戸前期の高僧です。
禅師は国師 の法を継ぎ、宗勢拡大に寄
与され、江戸禅宗界に名声を博しました。
なお寛文二年(一六六二)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎 とは従兄弟の
間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から与えられたと言います。
当家は後脇本陣を勤め、この門はその
面影を伝えるものとして貴重です。
関ケ原町 」
私は道の右側を歩いていますが、反対側にある、大神宮常夜燈のふきんが関ヶ原宿の京口(西の口)だったそうです。この写真は、2016年に撮ったものです。
【西の首塚】
関ヶ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言いわれる兵が集結した。戦死者は諸説あり未だにはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に共されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。関ヶ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて死体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営した。
西首塚は、国史跡指定された昭和6(1931)年の官報に、『小塚ニシテソノ上に3本ノ老檜アリ』とある。現在も、高さ2メートル、周囲約30メートルの小塚が残り、往時の姿を偲ぶことができる。明治39(1906)年に建てられた碑に『関ヶ原合戦戦死者胴塚』と記されるように、名のある士から雑兵まで、首のない胴も埋葬されたことだろう。近隣には、名もなき兵士たちのものと伝わる五輪塔が今も残る。
明治時代に行われた鉄道工事(現在のJR東海道線)や、梨の木川改修工事の際には、夥しい数の白骨や刀が出土している。
敷地内の観音堂は寛政5(1793)年に建立され、幾多の修理を重ねてきた。近隣の人々や中山道を行き交う旅人の安全を願う『馬頭観音』や、皆の願いに手を差し伸べる『千手観音』が併祀されている。
戦死者の慰霊と、地域の安全平和を願う行事は、地元住民により今なお続けられている。 」
老檜の写真は2016年に撮ったものです。
【松尾交差点】
11:00 松尾交差点
ガイド本には、この辺りに北野常夜燈がある、とあるのですが、この地蔵堂?しか見当たりませんでした。
11:01 松尾信号を渡って、道としては今まで歩いてきた道から左折し、写真の道に入ります。
二度目の中山道25日目の5(関ヶ原宿から間の宿山中)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/17/094925
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003