紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

軽井沢宿の本陣・脇本陣

軽井沢宿の本陣・脇本陣

本陣があったチャーチストリート
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脇本陣跡の喫茶店
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cocodoco軽井沢」より

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江戸時代の軽井沢は、中山道の一宿として栄えます。中山道はご存知の通り、東海、甲州、日光、中山、奥州街道の江戸5街道の一つで、六十九次あるうちの江戸から数えて十八番目の宿場でした。現在の旧軽井沢銀座通りが江戸時代の軽井沢宿で、ほぼ直線的につくられ、その中央に大名や公家などの宿泊に備えた本陣を置き、脇本陣4軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったそう。数百人の飯盛女が働いていたという記録も残っています。

このように江戸時代の軽井沢宿は、碓氷峠の登り口の宿場として、峠越えをした旅人や朝立ちで峠を越えようとする客人たちで大変に賑わったといいます。しかし、宿場町は栄えていたものの、それを取り囲むように広がる農村地帯は、高冷地のため作物に適しているとは言えず、ごくわずかに取れるアワやヒエなどの雑穀物が主な産物という、まさに寒村。木が一本も生えていない湿地帯で、現在の「軽井沢72ゴルフ」あたりから旧軽井沢までは、舟で渡ったといいます。

そんな貧しい村には、毎年のように冷害や浅間山の噴火という自然災害が襲います。さらには幕府によって、宿場の保護及び人足や馬の補充を目的とした助郷(すけごう)という夫役が課されたため、農業に携わる民衆の暮らしは悲惨なものだったと伝えられています。旅人たちが落とす路銀(ろぎん)が、生活を支える大きな収入源だったのです。


参勤交代に公家もお泊りになられた
軽井沢本陣の今

現在、軽井沢宿の本陣があった場所は、ショッピングモールの「チャーチストリート軽井沢」となっており、当時の面影を感じさせるようなものは残っていません。唯一、あるとすれば、チャーチストリート軽井沢の裏手に建てられた記念碑「明治天皇軽井澤行所在碑」。明治天皇は、ここにあった本陣で昼食をとられたそうです。


それぞれの歴史を刻み、歩みを変えた4つの脇本陣

4軒あった脇本陣は、それぞれ「江戸屋」「三度屋」「佐忠」「丁字屋」という屋号だったそうで、「江戸屋」は現在、子孫の佐藤真知子さんが経営する「アートカフェ江戸屋」になっています。