紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き10日目の5(和田宿)

二度目の中山道10日目の5
7月30日(木)の5


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【和田中学校周辺】


13:38 和田中学校
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11年前のブログより

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2009.4.20.

和田小学校、和田中学校と隣り合って広い敷地の学校がありました。小学校は新しそうな建物で、塔があったり、夢堂みたいな何角形かの建物が両翼についていました。

中学は、桜の花の中に、昔ながらの木造校舎がありました。

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和田神社鳥居
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祝言道祖神と水場
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祝言道祖神は平成3年建立だそうです。

「富士ヨット学生服」
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今日は閉まっていますが、11年前はこの店でボールペンを買いました。

11年前のブログより

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2009.4.30.

バスから見えた、学生服の看板が出ていた店…Yシャツや上履きを売る店…にボールペンを買いに行きました。忘れてきてしまい、不便だったので。ボールペンは置いてはいたけれど、かなり昔に仕入れたきり、売れなくてほったらかしにされているので、書けないと思う、と言われましたが、粘り強く試し書きをさせてもらい、7本目で書けるものと巡り会い、買ってきました。100円でした。

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【かわちや】

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中山道歴史の道資料館 かわち屋
奥に、黒曜石記念館も見えています。
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かわちや案内板
「 歴史の道 中山道

かわちや(歴史の道資料館)
 文久元年(1861)三月十日の大火で焼失したか その年の十月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。
 和田宿 の旅籠のうちだは規模が大きい方である。出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている。
 昭和五六年度、歴史の道整備事業の一環として総工費一〇〇〇万円で、延床面積四二二平方メートルを復元し、「歴史の道資料館」としたものである。

文化庁 長野県 和田村 」

今回は見学はしませんでしたが、11年前は結構いろいろ見学しました。

11年前のブログより

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2009.4.30. 

中山道ウォーキング 11日目 

和田宿散策 

11:19のバスで上和田まで移動。

前回来た時は閉まっていた、「和田宿農家レストランかあちゃんや」が営業していたので、山菜そばを食べました。煮物と自家製そば羊羮が付いていました。

前回来た時、やはり休館だった、歴史の道資料館かわちや、に行き、入館料300円を支払ったら、共通券で見られるものが何軒かありました。

かわちやは旅籠ですが、文久元年(1861)年の大火で和田宿117軒中107軒が焼失した中にかわちやも含まれていて、その後すぐに再建されたのですが、旅籠なのに上段の間がある珍しい造り。本来は、本陣、脇本陣以外の庶民の建物に、上段の間はいけなかったはずなのになぜ?
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ちょうど、皇女和宮がお通りになるとのことで、大火からの再建が急を要され、本陣脇本陣だけでは間に合わないとの判断から、かわちやにも上段の間を作ったと考えられるそうです。

急な階段を上った二階は、真ん中辺りの天井と、街道沿い側の天井の高さが違っています。街道側が天井が低いのですが、これは、大名行列が通った時、二階から矢を射れないように(二階の窓際で、腕を大きく振り被れないように)幕府からこのようにするよう決められていたのだそうです。
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階段部分は二階の床は大きく切り取られ、手摺も柵もない。酔った旅人が何人か、絶対落ちたよなあ…

共通券で見られる、黒曜石石器資料館と、旅籠大黒屋と、本陣を見学。

本陣に上段の間がないなあ、変だなあ、と思っていたら、本陣建物は、大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と、本陣の所有者が生活する「居室棟」に分かれており、この建物は「居室棟」に当たるのだそうです。

上段の間がないから、そうかあ、とは思うものの、居室棟と考えると、すごく広い!

でも、湯殿は、安中の奉行役宅に似ていて、冬は寒かったろうなあ、と思いました。

本陣の前の、もうひとつ共通券で見学できる羽田野は、さっき山菜そばを食べた農家レストランかあちゃんやではありませんか。

もう一回入るのは、なんだか入りにくい。でも、表から裏への9間半の通り抜け土間を見たい。

よし、通り抜け土間だけ見よう、と、突撃。

ちょうどご夫婦連れがお蕎麦を食べていました。

とにかく9間半の通り抜け土間の写真だけ撮って退散。

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「山木屋(下の問屋)・大黒屋」

中野和田宿公式サイトより

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奥の建物が山木屋で問屋跡、出桁造りで格子がついています。
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手前の建物が旧旅籠「大黒屋」です。
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安政年間以降は昭和初期まで穀物商を営んでいましたが、最近、修復が完了。現在は戸閉めとなっています。
明治に入って道路を下げたため、前面が石垣になっていますが、江戸のころは街道が石垣の 高さまでありました。

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そばや 徳田
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日本の観光スポットをめぐる旅「Guide Memoより」

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韃靼そばが食べられる蕎麦屋 徳田

和田宿本陣の前には、韃靼(だったん)そばが食べられる、徳田というお蕎麦屋さんがあります。

韃靼そばとは、苦味がある韃靼蕎麦粉をつかった蕎麦のことを指します。

古民家を改装した蕎麦屋・徳田では、韃靼そばと田舎蕎麦、さらしな蕎麦を楽しむことができます。

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【本陣跡と旅籠石合跡】

本陣跡
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案内板
中山道和田宿本陣 御入門

中山道和田宿本陣は文久元年(一八六一)三月の大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度『潤いのあるまちづくり』優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。
また、座敷棟については同じく敷地等の石に関係から、復元することはてまきなかった。
長和町教育委員会

「石合」 中山道和田宿公式サイトより
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「石合(いしあい)」

中山道の一つ江戸よりの長久保宿本陣である石合家から分かれて10代目ないし11代目と なる家柄といわれています。 旅籠屋を営み、和田宿の「年寄り」であったと伝承されています。 本陣の斜め向かいという和田宿の中心部に位置し、町並み景観上も重要な位置にあり、 典型的な旅籠屋の外観を今に伝える貴重な建造物のひとつです。

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米屋鐵五郎
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しあわせ信州 長野県魅力発信ブログより

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「 米屋鐵五郎本舗」、文政時代に「米屋」という屋号の商家があった場所で、江戸時代にも米屋鐡五郎という者が問屋を営んでいたとのことです。その木造2階建ての建物が空いていたため、この空き家を県の「地域発 元気づくり支援金」をご活用いただいて、和田宿の活性化を進める地域住民等で構成される「和田宿のあした―住みよいふる里を考える会」(通称:和田宿あしたを考える会)の皆さんの手で地域の交流拠点施設として改装・整備されたものです。

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【本亭旅館について】

なが井(旧本亭旅館)
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中山道和田宿公式サイトより

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「なが井」

何軒も残っている出格子造りの家の中でひときわ目立つのが昔庄屋で、近年は旅館として 人気を集めていましたが、今年(2012)になり営業を停止し、新たな装いで再出発の予定です。 「中山道和田宿旅人御宿本」の看板がかけてあり、広間の高札や槍がこの家の歴史の古さを 伝えています。

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現在は「なが井」、2012年に廃業した旅館、本亭旅館には、11年前に泊まりたかったのですが、泊まれませんでした。

11年前のブログより

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2009.4.20.

(長久保宿から和田宿へと歩いてきて)12時40分に和田宿のバス停に着きました。

しかし、鉄道の駅まで出るバスがない。朝には上田行きバスがあるのですが。

国道まで出ると和田宿ステーションというところがある、と書いてあるので、そこまで出れば、別のバス便があるのかも、と思い、行ってみましたが、ない。ここは道の駅で、食堂は定休日。聞く人もいない。

再びさっきのバス停に戻り、よくよく調べたら、14:36の長久保行きバスが長久保で上田行きに接続しているとのこと。

汗で濡れた服を着替え、待ち時間に他の方法はないか調べてみました。

タクシーもいないし。

14:36のバスで長久保→上田と行けば、今夜家に帰れることは確実ですが、夜、ミュージカルの練習があるのには間に合わない。

14:36の前のバスは、11時台だったので、望月から歩いてきたのでは、かなり健脚でも無理だと思います。

どうせ、ミュージカルの稽古に間に合わないのなら、いっそ今夜は和田宿に泊まって、明日、和田峠越えをして下諏訪まで行こうか、とも思いました。

今日一旦帰宅したら、次回また和田宿まで来るのは大変なので、下諏訪まで行っておけば楽だよね。

で、バス停の目の前にある、本亭旅館に電話してみましたが、御用意が出来ない、とのこと。…これは、神様が、今日のところは帰りなさい、と言っているんだ。

私自身も疲れてるし、明日は天気が悪いみたいだし。

次回来るなら、ちゃんと本亭旅館に予約を入れた上で、1日目は余裕をもって、上田からバスを乗り継いで、その日は泊まるだけにして…

2日目に和田峠越えをして下諏訪まで行く、という計画を立てよう。

東海道は、結構行き当たりばったりでも宿はとれたけど、中山道はこれから先、ちゃんと予約をとらなきゃだめだし、昼食のこと、飲み物の調達も考えておかなきゃだめだな。

上田までのバス代、950円でした。

上田駅16:02初のあさま号で帰宅しました。

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その10日後に再び和田宿までやって来たのですが、本亭旅館の予約は取れず、長久保宿の濱田屋旅館に泊まり、 朝、バスで和田宿まで来て、和田峠越えをしました。

本亭旅館は残念ながら休業してしまったそうです。
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中山道遊山旅」より

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本亭旅館
  脇本陣の向かいに《本亭旅館》がある。何軒も残っている出格子造りの家の中でひときわ目立つ旅館で、中山道を旅する人に大変人気のあった宿だったが昨年(2012)、営業を停止したとのこと。これにより和田宿での宿泊は不可となってしまった。

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本亭旅館に泊まった方のブログを紹介します。

konoha-house.comより

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 望月の山城屋に次ぐ古い旅館に巡り会えて,この和田宿でも幸せな一夜を送れました。
本亭は古い庄屋を旅館に改造したもので,内部の構造は昔のままです。もちろん街道に
面しており,長久保行きのバスもここから発車します。向かいは,そのバス停とちょっとした
公園そして脇本陣があり,部屋からの眺めも当時を彷彿させるものでしょう。
 料金は安いが,料理はしっかりしてもので旅の疲れは吹き飛んでしまいます。ぐるりと
回廊を回り込むと,裏に面して浴室と洗面所。大きな浴槽で家族全員ゆったりと入れました。
何と言っても驚いたのが,翌日の昼食を聞かれたこと,そうなんです,この先は山道,この宿に
コンビニもなく,昼食の用意がなければ峠を越せません。何と気の利いた宿でしょう。しっかり
おにぎりを一人前300円で用意してくれます。これが大きな手作りのおにぎりで旨いのなんの。
山小屋へ泊まると,必ずある昼食がこんな町場の宿であるとは思いませんでした。昔の旅人も
きっとここでおにぎりを仕込んで,峠道へ向かったことでしょう。

和田峠に向かって左側,少し街道より下がった位置にあります。

和室は街道を見下ろし明るい 格子越しに脇本陣が見えます

向かいの山にある新海神社から見下ろした本亭旅館,屋根の大きな建物です。

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元本亭旅館を眺めていたら、地元のご年配の男性が、

「門の写真はもう撮りましたか?ここまで来たら、この門を撮らないと意味がないですよ」

と声をかけてくれたので、歴史的意義のある門なのだろうと、写真を撮りました。

あれ?11年前に来たときにも同じ事を言われた。

もしかしたら、同じ人ではないか?という気もします。

しかし、あまりうまく撮れませんでした。
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ですので、ネットから門の写真を拾ってきました。
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こちらのブログからお借りしました。
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/kaidou,syukuba/nakayamadou/wada/wadazyuku.html

門の写真を撮るようすすめてくれた方に、本亭旅館が廃業して残念だ、と伝えると、もうがたがたで、最後の頃は人を泊めるには危険な状態だったので、仕方ないでしょう、とのことでした。

門も入っている、こんな写真は自分で撮りました。
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脇本陣萬屋

14:07 脇本陣(上和田バス停)
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トイレをお借りしました。

中山道和田宿公式サイトより

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脇本陣跡」

和田宿に二軒あった脇本陣のうちの1つで、歴代翠川家が勤めました。
屋敷は文久元年(1861年)の大火で焼失(和田宿内では本陣を含め109戸が全焼した。) しましたが、数ヶ月後に皇女和宮が和田宿に宿泊することかが決定していた為、急遽和田宿 全体が再建され脇本陣も建築されました。 現在の建物は当時の御殿部分で、上段の間、 二の間、など格式の高さが感じられる部分や風呂や厠なども残り上田、小県地方唯一の 脇本陣の遺構として大変貴重な建物です。

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萬屋(現酒店)
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中山道和田宿公式サイトより

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よろずや

屋号を「よろずや」といい、江戸時代には質屋と両替商を営んでいたと言われています。 中町、下町に多い旅籠屋形式の造りですが、和田宿では唯一「火かえし(卯建)」を持つ 建物です。 見事な卯建と白壁土蔵を持つ商店は、今も「よろずや」と看板を掲げた酒店と なっています。「よろずや」は今も和田宿のコンビニとして村に無くてはならない存在です。

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11年前に来たときも、次の日のことを考えて、なるべく先まで進んでおこう、と、和田宿散策をしました。

11年前のブログより

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さて、長久保に戻るバスまで約2時間あるので、明日の朝のバスで出来るだけ先まで行けるように、大出バス停まで歩いておくことにしました。

酒屋のよろずやは、前回来た時も写真をとりましたが、雰囲気あるお店です。出梁造り、瓦屋根のどっしりした軒先に吊るされている麦わら帽子が似合っている。
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公民館にしめ縄や、神社みたいな杉の枝が飾られているのは何故か、と思ったら、お神輿を保管しているため、神社風に祀られているみたいです。

その先に、立派な松が2本あり家があり、よく見ると、2本の松は根本がくっついている。つまり、相生の松なんだ。

やがて和田鍛治足交差点。車道を渡ると、一里塚や分岐の道標。

その先、左に材木屋。建物に印象的なキツツキの絵が描いてありました。

大出バス停は藁葺き屋根。
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ここで引き返しました。

この辺り、側溝にマンマンと水が流れ、たっぷんどっぷん音高らかに流れていました。

上和田のバス停に戻り、時間までバス停の小屋で待ち、14:36の巡回バスで長久保に戻り、今夜の宿、濱田屋に入りました。

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さて、また2020年7月に戻ります。

高札場跡
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曲水句碑
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菅沼曲水(曲翠)は、芭蕉の門人だったそうです。


【鍛治足の一里塚跡と大出バス停】


鍛治足の一里塚跡
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和田鍛治足の交差点に出たら右折方向に進むと、交差点の左角に、日本橋から五十里目の鍛治足の一里塚跡の碑が道標などと一緒に立っていました。

14:44 本日の終点 中部電力株式会社
和田発電所
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ここから上和田バス停へ戻りました。

水量が多く清らかな依田川の流れ
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大出橋たもとの道祖神
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大出バス停
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先ほども通ったのですが、そのときは写真を撮らなかったので、戻ってきてから撮りました。

男女双体道祖神
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先ほどとは違う道をたどり、田んぼの中の道を歩きました。

14:50 上和田バス停に戻り、ここで持参のカレーパンを食べました。
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今夜泊まる「民宿みや」は電話をすると迎えに来てくれるのですが、16:00頃電話をくださいとのことなので、1時間ほど待ちました。

15:55に「民宿みや」に電話をしました。

おかみさんが車に迎えに来てくださり、長久保宿に近い「民宿みや」へ。
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新型コロナ対策の注意をいろいろ受けてから部屋へ。

まずはお風呂に入り、

18:30 夕食
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アサヒスーパードライの大瓶を飲みました。

とっても大きいピーマンはパーマン

聞いてみたら、やっぱり普通のピーマンなんですが、とっても大きい。

とにかく野菜が美味しかった。


本日の歩数 33,113歩 20.59km


二度目の中山道11日目(和田峠越え)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/193000


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003