紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き10日目の1(芦田宿から笠取峠)

2度目の中山道10日目の1
7月30日(木)の1


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【芦田宿へ】

前日、青春18きっぷ佐久平まで来ました。東横INN佐久平駅浅間口に泊まり、今朝は、

佐久平駅7:50発の立科町役場行き(芦田宿方面)に乗りました。
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バスに乗ったのは4人。途中で3人ぐらい乗ってきました。

この人も中山道を歩いているのかなあ、と思った若い男性は塩名田で降りました。

私が芦田宿で降りたとき、バスにはまだあと2人乗っていました。

芦田宿に降り立ったのは私一人。8:30でした。バスは芦田宿バス停を出ると、すぐに左折してしまいます。
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8:33 前回も見た酢屋茂
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8:33 金丸土屋旅館
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この宿に泊まりたかったのですが、連絡がとれませんでした。残念。新型コロナウィルス騒ぎで休業しているのでしょうか。

芦田宿には、ノウゼンカズラがたくさん咲いていました。
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【笠取峠松並木へ】

8:40 道祖神
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8:44 中部北陸自然歩道道
→ 笠取峠 2.3km
← 塩名田 13.0km
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8:44 芦田宿案内板
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こちらは、2度目の中山道9日目(2020年4月6日)にも載せた、芦田宿入り口にある芦田宿の案内板と同文ですが、ここにも載せておきます。


案内板
「 芦田宿(あしだじゅく)

慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道のひとつであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
芦田宿は中山道二十六番目の宿として、宿の町並みは、六町二十間(約七〇〇メートル)文化元年(一八〇四)には、本陣、茶屋六軒、商家二軒、医師三軒、髪結二軒、按摩一軒、などがあり農家は四十五軒であった。
文久元年(一八六一)十一月七日、徳川14代将軍家茂(いえもち)に、公武合体のために降嫁された、孝明天皇の妹『和宮』の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向って(芦田宿に向って)急な上り坂を過ぎると、標高八七七メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
中山道の松並木は慶長七年(一六〇二)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、県道に合流松や杉を植林した。この松並木は当時の物で、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って役を一〇〇本の松並木が二〇〇メートルつづいている。本陣は寛政十二年(一八〇〇年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口五間奥行き十一間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿雪隠、など客室の原形がほぼ完全にのこされている。 」

百合が綺麗に咲いています。
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8:45 石打場公園
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案内板
「 石打場公園

『石打場』の地名は奈良、新潟、群馬などにあり、『石打』は当て字で、『石内』が本字らしい。(吉田東伍大日本地名辞書)すなわち、『石内』とは『境界』または石敢当(セキカントウ)の意味があり、『災害除け』または防御示のための場所というのが本来の意味である。(地名源語辞典)ちなみに本町芦田の石打場は、旧芦田村と横島村の『境』であり、芦田八ヶ略誌によれば『住吉、山部と芦田の子供戯れし所也』とある。

えがおのふれあい『芦田宿』保全・活性化事業 立科町町区 」

8:46 常夜燈 右の旧道へ進みます。
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8:46 道標 ←松並木 芦田宿→
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8:47 笠取峠の母娘の道祖神
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【笠取峠の松並木】

8:48 笠取峠のマツ並木標柱(東口)
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8:49 石仏
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8:49 八幡太神
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8:50 三石勝五郎歌碑
「かりがね渡る笠取の峠の茶屋は
なけれども残るふもとの松並木
芦田宿の芦の先に 」
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8:50 松並木標識
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8:51 松並木
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8:54 石仏
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【松並木公園】


8:54 松並木公園案内板
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案内板
「 松並木公園

笠取峠の松並木
(長野県天然記念物 S49.1.17)

 笠取峠は雁取峠とも呼ばれる。近世五街道の一つ中山道 は京都と江戸を結ぶ重要道路であった。徳川幕府は街道沿いに松や杉などを植えさせた。芦田宿 の西方1kmの地点から笠取峠にかけ約2㎞にわたり松並木がある。総本数73本(平成20年現在)の老赤松はいずれも150年~300年以上経たもので、その景観は、往時の中山道をしのばせてくれる見事なものである。立科町では松並木周辺の旧中山道を公園化し保護に努めている。


笠取峠松並木の歴史

1597年(慶長2)芦田宿立駅ー小諸城主仙石越前守秀久 は、岩間忠助 と土屋右京野左衛門 に芦田宿の立駅を命じた。この命を受けた両名が蓼科神社にその成就を祈願した願文の木札が現存している。
1602年(慶長7) 五街道整備ー慶長6(1601)年に、まず東海道に伝馬を定め翌7年より他の四街道を整備した。
この頃から、一里塚 の設置や街道筋に通行人の便(日除け、防風、防雨等)を計って松や杉を植えはじめた。芦田宿へ小諸藩から数百本が下付され近隣の村人(現立科町内)により芦田宿西側から峠にかけて植樹された。これが笠取峠松並木の始まりである。これ以後今日までの長い間宿場や近隣の村人により手厚く保護されてきた。

1716年(享保元) 中山道と改める。
1757年(宝暦7)頃 笠取峠に茶屋小松屋あり、力餅を商う。(三国一の力餅)
1861年文久元) 皇女『和宮』松並木を通り江戸へ下向する。
1924年(大正13) 長野県、松並木を調査する。この時、松229本が確認されている。
1967年(昭和42) 町文化財に指定される。
1974年(昭和49)長野県天然記念物に指定される。
1985年(昭和60) 町内に『松並木を守る会』が結成される。行政、住民一体で保護、保存活動が行われている。
1993年(平成5) 松並木公園完成する。 」

8:55 石仏
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8:56 若山牧水歌碑
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「老松の風にまぎれず啼く鷹の
声かなしけれ風白き峰に 」
「岨道のきわまりぬれば赤ら松
峰越の風にうちなびきつゝ 牧水」


8:58 萬歳 皇代能豊兆(みよのほぎはた)
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銅板碑
「 萬歳 皇代能豊兆

文久元年(一八六一)仁孝天皇の皇女和宮は 第十四代将軍徳川家茂(いえもち)へ嫁ぐため、中山道を通って江戸へ下った。
京都発文久元年十月二十日、江戸着同年十一月十五日。婚儀は翌文久二年二月十一日であった。
これは、ペリー来航以後、日々失墜していく幕府の権威回復と、反幕運動(尊皇攘夷)に対するけん制、いわゆる公武合体運動の犠牲であったといわれる。
京都から江戸へは、京都方一万人・江戸方一万五千人 計二万五千人の大行列であった。この他警備の諸藩士、馬士(まし)等数万人にのぼった。このため、多数の人馬が信州一円から徴発され、大きな負担がかかった。和宮が輿の中からこの松並木を見て通ったのは文久元年十一月八日であった。

平成五年三月
立科町教育委員会


同じ銅板碑の上半分は「和宮東下の行列」
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東屋もありました。

11年前に来たときは、この辺りに金明水の復刻(峠にあったものを、こちらに移した、と聞きました)があって、美味しく飲ませていただきましたが、今回見つけられませんでした。

11年前のブログより

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2009.4.20.

【金明水】

公園のような場所には、金明水が湧いていて、飲めるとのことで、ペットボトルに水を入れました。望月の水も美味しかったけど、金明水はもっと美味しい。
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8:58 銅板碑 笠取峠の茶屋
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案内板(銅板碑)
「 笠取峠の茶屋

中山道芦田宿と長窪(長久保)宿の間、笠取峠にあり、小松屋と称した茶屋の図(木版画)である。
ここより一・七キロメートルほど上がった峠左側、眼下見事に連なる松並木のはるか東方に、煙たなびく浅間山を一望できる所にあった。
峠道を上り下りする人、茶屋で休む人、格好で職業がそれとわかる人々でにぎわっている当時の様子がよくわかる。

茶屋の建立や消滅の年代は不詳であるが、この画は徳川時代末のものと推定される。
平成五年三月
立科町教育委員会

8:58 「望月」「芦田」「長窪」浮世絵の碑
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9:02 長野県天然記念物 笠取峠の松並木
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案内板
「 長野県天然記念物
笠取峠の松並木

 この峠道は 近世五街道の一つ中山道 の笠取峠である。徳川政権は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)東海道に伝馬制を実施し、翌七年には中山道などにも着手した。
 慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。
 笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年(1597)に設けられた芦田宿 と、およそ一里半(約六㌖)の距離を隔てた長窪宿 の間にある。
笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の村人とともに峠道約十五町(約一・六㌖)にわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重 の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。
 長い歳月の間、風雪に傷み枯れ、大正十三年(1924)長野県の調査によると二百二十九本があった。昭和四十九年(1974)長野県天然記念物に指定された。
 現在は、百十本である。立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。

平成五年三月
立科町教育委員会


9:02 中部北陸自然歩道案内板
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9:03 吉村煙嶺句碑
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「 吉村煙嶺
古道の名残も捨て難けれども

繕う多
道や春めく
人通り 」


9:03 道祖神
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小諸藩領界石】


9:04 小諸藩領界石「従是東小諸領」
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案内板
「 従是東小諸領

この石標は、小諸藩が文化3年(一八〇六) に領分境の東西へ建立したうち西側のものである。

藩領の西端中山道笠取峠(ここより西一・七キロメートル)にあったものの復刻である。これを境に西は幕府領である。

藩領東端の石標は『従是西小諸領』と刻まれ、小田井宿追分宿との間、追分○(現御代田町) にあった。 」

(追分○の○は読めませんでした。)


道路を渡り、その先の石畳風遊歩道へ。

9:04 この分岐の左へ進みます。
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9:06 長野県天然記念物 笠取峠の松並木
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案内板
「 長野県天然記念物
笠取峠の松並木

この道は江戸時代の中山道である。
はじめは『中仙道』であったが、享保元年(一七一六)から『中山道』と改められた。
慶長七年(一六〇二)幕府は中山道の整備に着手。この松並木はその一環として同年幕府から小諸藩に赤松数百本が下付されたものを植栽したものである。
以後、小諸藩により補植、保護がなされてきた。
笠取峠の松並木は中山道の名所として知られ、四季を通して旅人の目を楽しませ、松籟を聞かせてきた。
大正十三年(一九二四)長野県による調査と保護が加えられ、昭和四十九年(一九七四)長野県天然記念物に指定された。
現在百本余の老松が往時を今に伝えている。

長野県教育委員会
立科町教育委員会

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【松並木西口】

9:09 長野県天然記念物
笠取峠のマツ並木標柱(西口)
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9:09 中部北陸自然歩道道
塩名田 14.0km →
← 1.3km 笠取峠
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一般国道142号線を歩きます。
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【笠取峠】

9:26 笠取峠の一里塚
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案内板
立科町文化財
一里塚(笠取峠)

 中山道 は、中仙道とも書くが享保元年(1716)に東山道の中枢の道であることから、中仙道と呼ぶとあり、また木曽を通るので木曽路ともいわれ、五街道の内では東海道に次いで、江戸京都を結ぶ主要路線であった。一里塚 は、この道一里間につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつけかえる習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目じるしに松の木などが植えられた。この笠取峠の一里塚にも赤松が植えられ、その大木が今なお当時の街道の面影を残している。

立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 」


9:30 笠取峠
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案内板
「 笠取峠竣工記念碑

笠取峠は、古来は東山道、江戸時代は中山道 として東西の交通の要所であった。現在の国道142号は生活道であると共に、関東地方と中部近畿地方を結ぶ重要な産業道路としての役割を果たしている。交通の難所であった笠取峠の道路改良工事が、関係各位の御理解と御協力のもとに、めでたくここに竣工したものである。

一級国道 142号 笠取峠道路改良工事
延長 立科町 1,760m ・ 長門町 3,010m
事業費 32億7,500万円
着工 昭和59年4月 ・ 竣工 平成7年3月
佐久建設事務所・上田建設事務所 」


9:31 長和(ちょうわ)町に入ります。
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9:33 中山道笠取峠標柱
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9:33 笠取峠 峰の茶屋
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ここはお食事処で営業している時もあるようですが、新型コロナウィルスの影響でしょうか。営業はしていないようでした。(まだ朝だったからかもしれません)


9:34 銀明水、金明水の標柱
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かつては旅人の喉を潤した銀明水は、今は痕跡のみだそうです。

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2度目の中山道10日目の2(笠取峠から長久保宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/26/180000


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003